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三,ボール遊び

 二時十五分、娘里香を幼稚園に迎えに行く。

 マンションには二人同じ幼稚園に通う子がいる。一人は年中組の女の子リンコちゃんで、一人は里香と同じ年少組のハルキくんだ。マンションの入り口で二人のお母さんが待っていてくれて佐緒里は二人に挨拶し、いっしょにおしゃべりしながら幼稚園に向かった。里香は初めて通う幼稚園に、心配したが、お友だちもたくさん出来たようで興奮気味に元気にしている。佐緒里は、リカちゃんは可愛いからすぐにモテモテね、と親馬鹿になってニッコリする。

 三組の母子でマンションに帰ってきて、おやつを食べてお昼寝すると、子どもたちは約束していて駐車場でボール遊びを始めた。昼間は駐車している車の数も減って、車の出入りもあまりなく、知らないところで遊んでいるよりずっと安全だが、子どもたちだけで遊ばせておくわけにもいかず、結局また三人の母親たちが集まって入り口の所から「この辺りで遊んでいるのよ?」と子どもたちがボール遊びしているのを眺めながらおしゃべりを開始した。佐緒里もだいたい同年代の母親たち相手で気楽にマンションやこの辺りのことを聴けて、おしゃべりは楽しい。子どもたちのボール遊びは他愛ないもので、ぽんぽんバウンドさせてパスしたり、ドリブルして自分の「技」を自慢したり、失敗して転がしてしまったのを歓声を上げて追いかけたり、道路に飛び出さないようにだけ気を付けて見ていればいい。

 佐緒里は午前中の出来事が気になって二人に探りを入れてみた。

「あのね、大家さんには口止めされているんだけど、うちのお家賃ずいぶんお安いんですよお? あんまりお安いんでね、ひょっとして、何かあるんじゃないかなあー……なんて……?」

 二人はきょとんとして、笑い声を上げた。

「菊池さん東京から越してらしたのよねえ? いいわねえ〜、都会の生活」

「いいええー、中心の方じゃないですから、ここと変わりませんよ?」

「そうお? でもいいわよねー、電車で新宿とか銀座とかお買い物に行くんでしょう? 美味しいお店もいっぱいあって? やっぱり憧れるわよねえー?」

「うちなんかユニクロの常連ですよ? 娘の将来の教育資金も貯めないといけないし、華やかな都心なんて、目の毒ですよ?」

「あら本当? わたしなんか思いっきり誘惑されて遊び歩いちゃいそうだけど。おほほほほ。でもそうねえ、子どもの教育費はね、考えちゃうわよねえー?」

「あのー……、それで、わたしたちの部屋なんですけどー……」

「ああー。うふふふふ、実はうちのお家賃もないしょなのよおー」

 おほほほほ、と二人の先輩主婦は声を合わせて笑った。

「あの大家みんなにおんなじこと言ってんのよー。こんなぼろマンション、安くなくちゃ誰も入らないわよお?」

「そうなんですか?」

 このマンションは紹介した不動産屋の所有ではなく、入居を決めるとここで大家さんに紹介されて正式の契約をした。大家さんは駐車場のすぐ裏に住む六十代ほどの人だ。自分たちの入居をとても喜んでいたが……

「そうそう、だからね、そのうちお家賃上げる催促なんてあるかもしれないけど、きちんと断らなくちゃ駄目よ? でないとわたしたちまでみんな賃上げされちゃうから。ここは入居者同士団結して、断固阻止! ね?」

「ええ…。ここ、他の部屋もみんな入居しているんですよね? 皆さん長くお住まいだとか?」

「そうね。古いとかぼろいとか、文句を言いながらも誰も出ていかないわよねえ? 立地はいいし、なんだかんだでけっこう住み心地いいのよね?」

 二人はまた声を揃えて笑った。

「皆さんのお部屋もリフォームされてるんですか?」

「うちはしてないわよ」

「うちも。だって、ねえー?」

「そうよね、リフォームするとなったらその間他に移らなくちゃならないし、リフォームしてきれいになったら、家賃上げる口実になっちゃうじゃない?」

「ああ、なるほど」

 佐緒里はがめつい住人相手の大家が気の毒になって苦笑いした。すると入居前にリフォームが済んでいた自分たちはやっぱりラッキーだったのだろう。

「ああ、そうそう!」

 リンコちゃんのお母さんがパチンと手を打って言った。

「一つ忠告。カビには気を付けること」

「カビですか?」

「そうそう。こっちはただでさえ気候がじめじめしてるのに、古いでしょう? コンクリートに湿り気が染み込んじゃってるのよおー。だから換気は常にするようにして、ちょっとでもカビが生えてるのを見つけたらすぐに掃除して始末すること! 放っておくと、・・オバケより怖いことになっちゃうわよ〜〜?」

 脅されて佐緒里はお愛想に苦笑した。カビか……、確かにそれは、やっかいそうだわ。


 リンコちゃん、ハルキくんとボール遊びしている里香は。

 ハルキくんがパスしてくれたボールが、里香がニコニコしてキャッチしようとすると、急に横へカーブして、その動きはまるで誰かに横から叩き落とされたようで、ポンポンとバウンドしたボールは、勢いがなくなって転がっていくかと思いきや、ポンポンと同じ勢いでバウンドを続け、それはまるで、見えない誰かがドリブルしているみたいで、それは自分たちとだいたい同じくらいの背丈の子どものようで、バウンドを続けるボールは、ぐるーっと円を描くと、また急に前に向かってバウンドし、里香の手にパスされた。ピンク色のゴムまりだ。里香はじっとボールを掴んだまま、ハルキくんを見た。ハルキくんは鼻が詰まったみたいに口を開けてぼうっとした顔をしている。リンコちゃんは、お姉さんらしくニコニコ笑っている。

「ねえ、今ボール、変だったよ?」

「別に。変じゃないわよ?」

 里香は首をかしげ、リンコちゃんにパスした。受け取ったリンコちゃんは、ポンポンとドリブルして、ハルキくんが取りやすいようにバウンドさせてパスした。下手くそなハルキくんは足にぶつけて向こうの方に転がしてしまい、追いかけて捕まえると、リンコちゃんの真似をしてドリブルしながら戻ってきたが、また足で蹴っぽって転がしてしまった。里香は自分の方が近いと思ってハルキくんと競争してボールを追いかけた。すると二人が追いつく前にボールは誰かに蹴られたみたいに二人の間を転がって戻っていった。ちょうどリンコちゃんの所に転がっていって、リンコちゃんは拾い上げると二人が戻ってくるのを待った。里香はハルキくんに訊いた。

「ねえ?今またボールが勝手に動いたよ?」

 ハルキくんは頭の回転の悪そうなぼうっとした顔で、

「おりこうさんなんだよ」

 と言った。里香は走って戻ると、ボールを上に投げてキャッチして遊んでいるリンコちゃんに、

「そのボール、変だよ?」

 と言った。

「変じゃないよ」

 リンコちゃんはボールを放り上げながら言った。

「変だよお、勝手に動くんだもん!」

「このボールは中にもう一つ小さなボールが入っていて、『バランス』で自分で動くんだよ?」

「ふうーん、そうなんだ?」

 里香はそうなのかな?と思って感心した。

「じゃ続きしよ?」

「うん!」

 三人でまた遊びだしたが、リンコちゃんがハルキくんに投げたボールがカーブして里香の所にやってきて、里香がハルキくんに投げてやって、ハルキくんがリンコちゃんに投げると、またカーブして里香の所にやってきた。里香がリンコちゃんに投げると、ボールはリンコちゃんに届く前にバウンドして、里香の所に戻ってきて、スポッと里香の両手に収まった。

「よかったね、リカちゃん、ボールに気に入られたみたい」

 里香はポイ、とボールを投げ捨てた。

「気持ち悪い………」

 リンコちゃんは歩いてボールを拾い上げ、お姉さんぽく笑って里香に言った。

「リカちゃん、けがしたくないでしょ?」

「けが?…」

「そうよ? じゃあボールといっしょに仲良く遊ばなくちゃ駄目だよ? ママにも言っちゃ駄目だからね? ボールが怒るからね?」

「う、うん………」

「はい」

 リンコちゃんは里香にボールを投げた。受け取ると、自分たちの手のぬくもりだろうか、ボールが生暖かく感じられた。リンコちゃんの言う中に入っている小さいボールだろうか、ピンク色のゴムまりの一部が真っ赤で、なんだか、赤い目玉みたいに見えた。里香は泣きそうになって、そっとハルキくんに投げた。ボールはハルキくんに届くことなく、里香の足下に戻ってきた。ハルキくんは頭の悪そうな顔で

「リカちゃんいいなー」

 とうらやましがった。

「拾って?」

 リンコちゃんに言われて、里香はそっとボールを持ち上げた。


 佐緒里は母親たちといっしょに子どもたちがボール遊びしているのを眺めていた。

 ふと、エレベーターの表示が下に向かって動いているのに気づいた。2F…1F。

「ガグン。」

 古い物なので大きな音がしてドアが開く。佐緒里といっしょに他の二人の母親もエレベーターを見ていた。なかなか乗っていた人が下りてこない。上でいったん乗ってボタンを押したものの忘れ物にでも気づいて下りてしまって、箱だけが下りてきたのだろうか? そんな風に思っていると、ふらりと、濃い紺色のシルクのブラウスを着た若い、派手な髪型の女が出てきた。

「こんにちは」

 挨拶されてこちらも軽く挨拶を返した。しっかり化粧をしているが覇気がなく不健康そうで、陰気な感じだ。

 佐緒里には彼女の付けている香水が気になった。

 ステップを下りていく後ろ姿を見送って、リンコちゃんのお母さんが、

「これからご出勤。夜のお店のお仕事なのよお」

 と、含み笑いを漏らしながら教えた。

「ああ…」

 ブランド品のバッグを持っていたからクラブのホステスだろう。あんな陰気な顔でお客がつくのだろうか? ま、その手の店に通う男も好きずきだろうが。



 特にトラブルがなければ夫の帰宅はだいたい五時四〇分頃のようだ。

 帰宅すると里香といっしょにお風呂に入る。二人がお風呂に入っている間に佐緒里は夕飯の支度をする。

 お風呂からパパと娘の会話が聞こえる。

「きのうパパ、お風呂でひっくり返っちゃって、起きてきたママに怒られちゃったんだぞー?」

 キャハハハハハハ、と娘の笑い声が弾ける。

「幼稚園はどうだ? 楽しいか? お友だちいっぱいできたか?」

「うんっ!」

「そうかそうか。お友だちと仲良く楽しく遊ぶんだぞお?」

「うんっ!」

 佐緒里は微笑ましく思い、おかずを運んで食卓に並べていく。テレビの画面に目が行き、じっと動きが止まってしまう。昔のブラウン管テレビほどではないが暗く覗き込む自分の姿が映っている。

 キッチンに戻りしな、ふと、壁が気になって振り返った。居間の裏側の壁で、ちょうど自分がテレビを見ながら背にしていた辺りだ。なんとなく気になって近づいて見ると、白い壁紙にブツブツした黒い汚れが付着している。

「え? やだ、かび?」

 指でひっかこうとして、やめた。

「どうしてこんなところに?」

 廊下の仕切の壁は木製だ。キッチン側とベランダ側に出入り口があって、アコーデオンカーテンがドア代わりになっている。寝室と書斎は柱だけで引き戸が壁代わりになっている。

 かび、だ。

 出るのはキッチンや風呂場の水回りとばかり思っていたが、なんでこんな何もないところにかびがわいてくるのだろう?

 古くてコンクリートに湿気が染み込んでいるという話を思い出し、天井を見た。水漏れみたいにして湿気が伝い落ちているのかも知れない。そう思うとゴゴゴゴゴ、とトイレの水を流す音が聞こえてきた。佐緒里はため息をついた。前のマンションでもそうだったが、横の壁は厚くて防音効果も高いが、床は案外薄く、上の階の音がけっこうダイレクトに聞こえてくるのだ。

「ま、仕方ないわね」

 と、流れていく音を恨めしく睨み、さっそくカビ用洗剤を買ってこなくちゃねと思った。

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