二,テレビ
夫を送り出し、娘を幼稚園に送ってくると、主婦佐緒里はとりあえず暇になった。掃除洗濯に忙しい忙しいと言いながら、それが終わってしまえば特にやることもない。里香も幼稚園に通うようになったし、そろそろパートでも始めようかしらと思いつつ、一〇時を過ぎると佐緒里は昨夜ハードディスクに録画しておいた韓流ドラマを見ることにした。お茶を入れてスタンバイオーケー。リモコンを操作して、撮れてる撮れてると、ファイルを「決定」した。
お茶を飲み、軽くお上品なクッキーを頬張り、美男美女の「まあ!なんてこと!・・」と波乱の連続のドラマを楽しむ。劇的すぎる展開に思わず身を乗り出しながら、『ないわよねー、これは』と、笑っている一方の自分がいる。いいじゃない、ドラマなんだから、美男美女なんだから。このすぐお隣の別世界のリアルなおとぎ話という距離感が絶妙なのよ。と、安いぼろマンションの一室で気分だけは優雅な有閑マダムなのであった。
でも、
安い、古い、と言いながら、
部屋はきれいなものである。
一年前にリフォームしたばかりだという。その後自分たちの前の住人が入ってきたが、入って二ヶ月で、急な仕事の都合で引っ越していき、その後ずっと空いていて、自分たちが「ラッキー」にこの物件を見つけて入居した。
地域の賃貸物件案内で見つけ、不動産屋を訪れ、築三十年ということで、それにしてもずいぶんお安いなと思いつつ案内されて来てみれば、思いがけずきれいな部屋だった。確かに建物の外見は古いし、エレベーターもなんだか動きがぎこちなく、そこかしこに古さを感じさせる物はあったが、部屋だけはぴかぴかだった。古いコンクリートはかえって材料を贅沢に使っていて頑丈だなんて話もあるし、骨組みがしっかりしていて、住む部屋がぴかぴかで、おまけにお安くて、素晴らしい掘り出し物じゃないか!?
しかしそれだけ条件がいいと不安が生まれる。何かあるんじゃないか? 例えば……殺人事件のあった部屋だとか……?
「いえ、そういった事件はございません」
不動産屋のおやじは苦笑しながら言った。ハンカチでやたらと額を拭いているのが怪しい。
「ただですね、新規の人は入りづらいようなんですねえ。他の皆さん、五年十年二十年と住み続けているお知り合いばかりで、まあ、大きな家族のようなものですねえ?」
新入りいびりでもあるのだろうか?
「敬遠されるのも困るんですが……、まあやっぱり古い建物なもので、音が響いたりするんですねえ。それでまあ皆さん暗黙のルールのようなものが出来上がっていて、新しい人が入ってくると、なんとなーく、窮屈な感じがするんでしょう…ねえ?……」
おやじは物問いたげに主に佐緒里を見て言った。そういうことは今までも同じような賃貸マンションに住んでいた佐緒里にはなんとなく分かる。娘里香がもっと赤ちゃんの頃は夜泣きにずいぶん気を使ったものだ。
「ま、そういうわけなんですが、どうでしょう?小さいお子さんのいらっしゃるご家族様にはかえってよろしいんじゃないでしょうかねえ? スーパーも近いですし、小学校も、幼稚園もありますし、お医者も近所に内科と外科とありますし、住環境はとてもよろしいと思いますよ?」
他にもう二件マンションとメゾン式のアパートを見せてもらったが、値段と言い設備と言い広さと言い、この「アケボノハイツ 五〇五号室」が一番良かった。
仮契約をしていったん東京に帰り、もう一度訪れて里香の幼稚園の入園申し込みをし、入園可能と言うことで、ここに決め、親子で引っ越してきた。佐緒里は正直東京を離れるのは抵抗があったが、もう花の大学生でもフレッシュOLでもなくなって、都会に固執する年でもないだろう。結婚して子供が生まれて、主婦として堅実な生活を営んでいかなくてはならない。
夫はもしかしたらこのままこちらの工場に転職するかも知れないと言う。技術系の営業員という役職で、もともとあまり器用な人でもないので、得意なメカニックの仕事で雇用が保障されるのなら本人はほっと出来るのかも知れない。夫を愛する妻として、地方都市の住人に殉ずるのも幸せな女の一生かも知れない。
なーんて、NHKのドラマの主人公みたいな気分を味わいつつ、今はお茶しながら韓流ドラマを楽しんでいるのだ。幸せな主婦よね?と思う。
「うん?」
どうも…、画面に時折四角いノイズが走るのが気になっていたが、見ている内にだんだんそれがひどくなってきた。
パタパタパタと、縦に斜めに白いブロックが走り、それがだんだんひどく、周りの画像まで引きつるように崩れるようになり、更にひどく、大きな崩れがガサリガサリと渦巻き状に動き、画面の四分の一から三分の一くらいまで我が物顔で広がってきた。
なんなのよ、もう。
せっかくのイケメン俳優が台無しで、イライラしながら、
ディスク記録型のデッキではなく、テレビに直接USB接続する外付けハードディスクだ。
故障かしら? ハードディスクは消耗品だって言うし、どうせ故障するならパパのスポーツ中継の時にしてくれればいいのに。てんでケンカなんか出来ないくせに今どきボクシングなんて好きなんだから。あんな野蛮なもの、里香の教育によくないわ。あーあ、買い換えなくちゃ駄目かしら? 他にも韓流スターのコンサートとか入ってるのにい。あーあ……。
本当に本格的に駄目になってきた。もう画面の半分以上画像が壊れてしまって、なんだか別の、変な映像が紛れ込んでいるみたいな感じだ。ガサゴソとうごめいて……はて?デジタルでも前の録画の消し残りが透けて出てくるって……あるのかしら? 画像の崩れたノイズの中に、
人
の姿のような物が歩いているように見える。
右から左へ歩いていき、また右から左へ歩いていき、また右から左へ、繰り返し、画像が崩れて四角いブロックになってしまっていてはっきりしないが、なんだか白い着物を着た人に見える。何度も何度も延々と右から左へ繰り返し歩いていく。イケメン韓流俳優の笑顔のアップをガサガサと崩して、右から左へ、ノイズを広げながら、歩いていく。
ブツ、
ブツブツブツ、・・ブツ、ブツブツブツ・・
ブツブツいう音のノイズまで入りだして、快活なセリフの邪魔をする。
ブツブツブツ、ブツブツブツ、
佐緒里はいつしか硬い表情で食い入るようにテレビを見つめていた。
右から左へ延々繰り返し歩く人影と、ブツブツいう音と。
『・・・・・』
今、何か言葉に聞こえた。日常的に馴染みはないけれど、日本人なら知っている、……お経に出てくる言葉みたいだ。
『・・・・・ ・・ ・・・・・・・・ ・・ ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・』
「いやだ……」
ブツブツいっていたノイズが連続して、主張が強くなり、節がついて、歌うように、……お経を読んでいる。
「何これ…、気味悪い……」
もうドラマも韓流スターもあったものじゃない、佐緒里はリモコンに手を伸ばし、再生を止めようとした。すると、右から左に歩いていた白い人影が、立ち止まり、佐緒里が息を飲んで見守っていると、こちらを向いたようで、こちらに向かって歩いてきた。四角いノイズのブロックが大きくなっていき・・
佐緒里はリモコンでテレビの電源を切った。ブツンと画面が黒くなる。
「絶対買い換えね……………」
黒くなった画面には白い壁を背に椅子に腰かけた自分の影が映っている。食卓兼のテーブル席で背後は廊下と隔てる壁だ。テレビは頑丈な食器入れの上に置かれ、お隣五〇三号室と隔てる壁を背にしている。テレビに向かって右はベランダのガラス戸で、左はお風呂場の壁だ。
佐緒里は思考が止まったようにぼうっとテレビの黒い画面を見ていたが、ふと、そこに映る自分の背後に、人が立っているのに気づいた。髪の長い、白いワンピースを着た、陰気そうな女だ。佐緒里は目を見張り、反射的に背後を振り返り、今さら「きゃっ」と悲鳴を上げてとっさにぎゅっと目をつむった。胸をドキドキさせて恐る恐る目を開き、背後には誰もいなかった。
はあっ、と息をつき。
「やあねえ、寝惚けているのかしら?」
退屈な主婦の日常に気のゆるみきっている自分に呆れた。しかし……
姿は見えないけれど、じいっと誰かに見られているような、嫌な感じがずうっと付きまとっていた。




