第一話 侯爵家の娘を侮る伯爵
マリアネラ・ラボイが、ラボイ伯爵家の屋敷に足を踏み入れた日。彼女を出迎えたのは、夫となった男の祝福でも、これから始まる結婚生活への期待でもなかった。
「紹介しておく。ラモナだ」
夫のフリオ・ラボイ伯爵は、まるで新しい調度品でも見せるような気軽さで、背後に立つ女を指し示した。女は20代後半ほど。華やかな化粧に、肌を惜しげもなく見せる衣装。貴族の令嬢とは明らかに異なる装いだったが、本人は少しも気にしていないようだった。
「よろしくね、奥様。あたし、フリオとは長い付き合いなの」
ラモナは口元だけで笑った。
マリアネラは、二人を交互に見た。
「……長い付き合い、ですか」
「そうだ。俺が愛しているのはラモナだ。貴様に愛情を求められても困る」
結婚初日の夫が口にするには、あまりに無遠慮な言葉だった。けれどマリアネラは、眉ひとつ動かさなかった。
「愛情を求めるつもりはありませんわ」
「なら話は早いな」
フリオは満足そうに頷いた。
「お前は伯爵夫人として、表向きの仕事だけしていればいい。俺の交友関係にも、金の使い方にも口を出すな。屋敷のことは俺が決める」
「伯爵夫人としての仕事、というのは?」
「社交の場に出て、俺の妻として振る舞うことだ。それ以上は必要ない」
その言葉に、ラモナがくすくすと笑った。
「聞いた? あんたはお飾りなのよ。奥様らしく着飾って、にこにこしてればいいの。フリオの隣に立つのはあんたでも、フリオが帰りたい場所はあたしのところなんだから」
マリアネラは静かに息を吐いた。
ここまで露骨な扱いを受けるとは、流石に想像していなかった。だが、驚きよりも先に胸に浮かんだのは、怒りだった。
自分が傷つけられたからではない。ガルドス侯爵家の名を背負う娘が、こんなふうに侮られていることに対する怒りだった。
「……承知いたしました。ひとまず、わたくしの部屋へ案内していただけますか」
「部屋なら二階だ。ラモナ、お前が案内してやれ」
「はあ? あたしが?」
「いいだろう。どうせ暇なんだから」
「もう、フリオったら」
ラモナは不満そうに口を尖らせながらも、マリアネラの前を歩き始めた。
その背中を追いながら、マリアネラは新しい生活の最初の一日を、心の中で記録した。夫は愛人を隠すつもりすらない。妻の立場を軽んじ、屋敷の運営から遠ざけるつもりでいる。そして、その愛人は妻の私室にまで当然のように立ち入ろうとしている。
これは単なる夫婦の不仲ではなかった。少なくとも、侯爵家の娘を迎えた家の振る舞いとしては、あまりに礼を失していた。
翌日、マリアネラは自分の部屋で、荷物の整理をしていた。そこへラモナが、侍女を伴って現れた。
「ねえ、これ、いいじゃない」
ラモナが手に取ったのは、マリアネラの母方の祖母から贈られた宝石箱だった。
「それはわたくしの私物です。お戻しください」
「ちょっと見てるだけじゃない。そんなに大事なら、しまっておけば?」
「ここはわたくしの部屋です。許可なく持ち物に触れることはおやめください」
「何よ、偉そうに。あんた、伯爵夫人になったからって、あたしに命令できると思ってるの?」
ラモナは宝石箱を開き、中の装飾品を指先でつついた。
「これ、あたしに似合いそう。ねえ、ひとつくらいもらってもいいでしょ?」
「お断りします」
「はあ? ケチねえ!」
ラモナが声を荒らげた、そのときだった。
「何を騒いでいる」
フリオが入ってきた。ラモナは瞬時に表情を変えた。
「フリオ、聞いてよ。この人ったら、ちょっと宝石を見せてもらっただけなのに、あたしを泥棒みたいに扱うの!」
「お前、ラモナに何を言った?」
フリオの視線がマリアネラに向けられる。
「わたくしの私物に触れないようお願いしただけです」
「大袈裟なんだよ。ラモナは俺の大切な人だ。少しくらい融通を利かせろ」
「わたくしの許可なく私物を渡すことは出来ません」
「俺の屋敷で、俺が誰に何を渡そうと俺の勝手だろうが」
「こちらは婚姻前からわたくしが所有している品です。伯爵家の所有物ではありませんわ」
フリオの顔が険しくなった。
「貴様、俺に逆らうつもりか」
「権利について確認しているだけです」
マリアネラは一歩も引かなかった。すると、ラモナが甲高い声を上げた。
「もういいわよ! そんなに大切なら、あたしだって欲しくないわ!」
彼女は宝石箱を乱暴に閉じ、卓上へ置いた。
フリオはマリアネラを睨みつけると、ラモナの肩を抱いた。
「行こう、ラモナ。こんな女に構っている暇はない」
二人が去ったあと、マリアネラは宝石箱を手に取った。蓋に傷はついていない。けれど、祖母から受け取ったときの喜びは、もう胸の中になかった。
この屋敷では、自分の部屋も、自分の持ち物も、自分の立場さえ、夫の気分ひとつで踏みにじられるらしい。マリアネラは宝石箱を引き出しにしまい、机へ向かった。
彼女には、まず確認しなければならないことがあった。この結婚を決めた父が、今の状況を知ったとき、どう対応するつもりなのか。
マリアネラが16歳で王立学院を卒業したとき、彼女には婚約者がいなかった。貴族の令嬢としては、決して珍しい年齢ではない。けれど、侯爵家の正統な後継者であり、幼いころから類まれな魔力を示していた彼女に、縁談が一つもなかったのは不自然だった。
理由は明白だった。父のイポリト・ガルドス侯爵が、意図的に縁談を遠ざけていたのである。
ガルドス侯爵家には、代々受け継がれる固有魔法があった。侯爵位を継ぐには、その固有魔法を有していることが必要だった。性別も出生順も問われない。但し、魔法を持たない者には、どれほど有能であっても侯爵位を継ぐ資格がない。
これは家内の取り決めではなく、国法によって定められていることだ。王国の公爵家全5家、侯爵家全15家には家門特有の固有魔法がある。それらの20家は固有魔法を継承し発現した者にしか家督相続権が与えられないのである。
イポリト自身も、固有魔法を持っていた。但し、その力は弱かった。先代侯爵の死後、彼が当主となったのは、固有魔法を有していたからである。だが、先代が本来の後継者として指名していたのは、イポリトではなく、孫娘のマリアネラだった。
マリアネラは三歳で固有魔法を発現させ、幼いながらにその力を制御した。先代侯爵は、彼女の才能を疑わなかった。そして、正式な後継者指名の書類を残していた。
イポリトは、娘が自分を超えることを恐れた。娘が有力な家と婚約し、その後ろ盾を得れば、自分の地位が揺らぐ。だから彼は、マリアネラに有利な縁談を与えず、彼女の力が外部に知られる機会を避けてきた。
そんな折、第二夫人が持ち込んだのが、フリオ・ラボイ伯爵との縁談だった。フリオは33歳。爵位こそ伯爵だったが、家計は火の車だった。個人的な遊興費と家の支出を混同し、収支の管理も杜撰。取引先への支払いを遅らせながら、愛人には惜しみなく金を使っていた。彼が求めていたのは、愛する妻ではない。侯爵家との縁によって得られる信用と、資金繰りの余裕。そして、愛人ラモナとの関係を表向きに隠すための、都合のよい正妻だった。
マリアネラは縁談に反対した。叔父のエリベルト・ドゥアルテ子爵も、強く反対した。
「兄上、この縁談は再考すべきです。フリオ殿の家計は不安定で、婚姻を急ぐ理由も不明瞭です。何より、マリアネラ本人が望んでいません」
だが、イポリトは聞き入れなかった。
「私が決めたことだ。私はガルドス侯爵家の当主であり、彼女の父でもある。娘の婚姻を決める権限は私にある」
「権限があることと、正しい判断であることは別です」
エリベルトの指摘に、イポリトは顔を顰めた。
「これ以上、口を出すな」
婚約から結婚までは、僅か2か月。通常、貴族の婚約期間は2年ほど設けられることが多い。互いの人柄や家の事情を確かめるためだ。しかし、マリアネラとフリオの間には、十分な交流すらなかった。
そして、結婚式の日。彼女を待っていたのは、先ほどの光景だった。
結婚三日目。
マリアネラは、ガルドス侯爵家の紋章が入った便箋を広げた。ペン先をインクに浸し、慎重に言葉を選ぶ。
父への不満を並べるためではない。夫に愛されないと嘆くためでもない。彼女が求めているのは、ガルドス侯爵家としての対応だった。
自分が侯爵家の娘である以上、彼女に対する侮辱は、彼女個人だけに向けられたものではない。家の名を背負う者を軽んじることは、その家そのものを軽んじることに等しい。その認識を、当主である父に示さなければならない。
マリアネラは、書き上げた手紙を読み返した。
フリオが愛人との関係を公然と示していること。ラモナが許可なく私室へ立ち入り、私物に触れていること。妻である自分に、伯爵家の運営や財産について一切の権限を認めないこと。そして、これらの振る舞いが、ガルドス侯爵家の名誉を損なっていること。
最後に、彼女はこう記した。
『わたくしは、個人的な感情の慰めを求めているのではありません。ガルドス侯爵家の娘として、当家の名が軽んじられている現状を看過すべきではないと考えます。当主であるお父様のお考えを伺いたく、筆を執りました』
封を閉じ、使者に託す。
これで父が動いてくれるなら、まだ道はある。そう考えたのは、娘としての期待だったのかもしれない。
返事は、数日も経たずに届いた。
マリアネラは封を切り、父の筆跡を目で追った。
『婚姻後の夫婦の問題は、夫婦で解決すべきものだ。侯爵家を巻き込むことは認めない。お前も伯爵夫人となったのだから、自分の立場を理解し、適切に振る舞いなさい』
短い返事だった。そこには、娘を案じる言葉も、事実を確認する姿勢もなかった。ただ、関わりたくないという意思だけが、明瞭に記されていた。
「……そうですか」
マリアネラは手紙を机に置いた。
父は、理解しなかったのではない。理解することを避けたのだ。彼女が求めたのは、父親として娘を救うことだけではなかった。当主として、侯爵家の名誉を守るために対応してほしかったのである。
それすら拒まれた。ならば、もう父に期待することは出来ない。
マリアネラは新しい便箋を取り出した。宛先は、エリベルト・ドゥアルテ子爵。今度は、遠慮する必要はなかった。
『叔父様。
結婚後の状況について、ご相談したいことがあります。
お父様には、侯爵家の名誉に関わる問題として対応をお願いしましたが、夫婦間の問題として退けられました。
わたくしは、この結婚を続けることが難しいと考えています。
お時間をいただけますでしょうか』
返事は、すぐに届いた。
『どうした、マリア。
そんな顔をするな、と言ってやりたいところだが、手紙では顔が見えないな。
まずは君がどうしたいのか、聞かせてくれ。
話はそれからだ。あとは俺に任せろ、とは言わない。君の人生だからな。ただ、君が自分で決めるために必要なことなら、俺はいくらでも手を貸す。
近いうちに会おう』
読み終えたマリアネラは、初めて小さく微笑んだ。叔父は、彼女の代わりに決めようとはしなかった。ただ、彼女が決めることを支えようとしてくれていた。それが、何より心強かった。
マリアネラは窓辺に立ち、見知らぬ屋敷の庭を見下ろした。
ここで夫に従い続けるつもりはない。けれど、ただ逃げ出すのでもない。自分には、自分の人生を選ぶ権利がある。
そして、ガルドス侯爵家の正統な後継者として、守るべきものがある。
「わたくしは、離婚します」
誰に聞かせるでもなく、彼女は宣言した。
それは、伯爵夫人としての終わりの始まりであり、ガルドス侯爵家の後継者として歩き出す、最初の一歩だった。




