すり抜け
あなたが今いる日常と、あなたの知らない非日常の境界。
それは足音も無く、今この瞬間も、あなたの背中に手を伸ばそうとしているかもしれない。
ただ――
(そろそろ次のランク行けそっ――――)
――この男の場合、自分の足音すら聞こえなかった。
◆
灰道風真は、最後だと思った階段のその先にもう一段があった時のように、足を踏み外した。平らなアスファルトで。
いつも通りの金曜夜。毎週出社して機密性の高い業務を一つ二つ、なんなら三つこなした帰り道。
なんの憂いも無く土日に突入し、舞い上がりながら夜道を歩いていた時の出来事だ。
いつも体を支えてくれる足が全く踏ん張りを見せず、あわや地面に顔面直撃という場面だったはずだが、痛みも、ぶつけた感覚も全く無い。
――すり抜けた、と言う表現がしっくりくる。
支えようと出した両手も、支えられなかった顔面も、地面に触れた感触も無く真っ暗闇を今、ぐるぐる回りながら落ちている……気がする。
このすり抜けには見覚えがあった。
(確か……noclipって言ったっけ?ゲームにあるすり抜けバグみたいなやつ)
『突然地面に吸い込まれた』なんて、ホラー映画くらいでしか聞いたことがない。
(となるとこの先は……想像したくないな)
腕を組みながら、この先待ち受けるであろう不気味な化け物たちをなんとなく思い浮かべる。現代創作に毒されているとこんな状況でも意外と冷静になれるらしい。
数分前まで大声あげながら空中水泳をしていたのは、まぁ、置いておく。
(にしても長いな……十分くらい経ったか?)
体感がそのくらいなだけでまだ二分くらいとか全然あり得る気がする。ずっとこのままとなると非常にまずい。数時間後には人間の尊厳が破壊されてしまう。
落ちる夢とかなら飛び起きるくらいで済むんだが。
というか、落ちているのかすら定かではない。風も感じないし。体がゆっくり縦回転しているのは間違いないと思うんだが……
(お?)
その数瞬後、視線の先に白い光が生まれる。
その光が徐々に近づいて……いや、体が光に近づいてる?
光が視界の上下から消えたり現れたりしない。回転してるのに。
ずっと視界の真ん中に存在するその光が徐々に広がっていく。
(最初は変なのが居ない部屋が良いなー)
なんて強がってみる。
こちとらホラー苦手系成人男性。危ないのも嫌だ。
そして、とうとう視界全てが白んで――――
◆
ピピピピピピピピッ
「うあっ」
情けない小声をあげながら目を開けたその先には、知らない天井。
(……知らない天井だ)
思い浮かんだ言葉から自分が案外落ち着いていることを自覚し、他人事のように感心する。思った以上にこの状況を楽しんでいるのかもしれない。
左を見る。
壁。
右を見る。
本棚と机とPC。
他にもいくつか家具がある、そこまで広くはないワンルーム。
黄色い部屋でもプールでもない、不気味さを感じない普通の部屋だ。
ピピピピッ
(ひとまず、安心、か?)
内心びくびくしながら、ベッドから体を起こす。記憶の中にある部屋たちとは似ても似つかぬ、生活感あふれる煩雑な部屋を見て徐々に心が落ち着いてくる。
ピピピピッ
目の前には制服がかけられている。中学のか高校のかは分からない。急に浮いて動きだしたりしないだろうな……やめてくれよポルターガイストとか。
(何処だここ)
まだ冴えていない頭で曖昧な自分の記憶をたど──
ピピピ「っるせぇ!!」ピカチッ
背中越しの機械を気持ち強めに止める。
警戒して物に触れないようにしていたが、こうも近くで鳴り続けられては流石に看過できない。
なんであんなうるさいんだ目覚ましは。……目覚ましだからか。朝に欠かせない道具とはいえ、こいつのせいでいつも朝が壊される。
「何してるの……」
「?!」
安らぎの破壊者を睨みつけていると、急な来訪に振り返る。化け物とのご対面には少し早い、というかご対面は御免蒙りたいと思っていた。怖いし。
でも、完全に人間語だ。言葉を話す化け物は記憶に無かった。
清涼な、それでいて包容力を感じる――気がする声。
「えっ」
「なに?その呆けた顔。ご飯できてるから早く食べなさい」
「あ……え?はい、たべます?」
言葉は出てくるが、状況が理解できない。
「……変な子ね。早く来なさいよ?」
バタンッと閉められた扉を見つめながら、今のがなんだったのか思考する。
(えーっと……多分、今回のステージの化け物、ではない、と思う。人間すぎるし。それにここ不気味な部屋でもないっぽいし)
じゃあどこなんだって話になるが。
少なくともここは見覚えがある部屋ではないし、さっきの人にも見覚えはなかった。というか、
(見たことないくらい綺麗な人だった。不躾だがスタイルも相当だ。モデルっぽいというか……)
あの女性を思い出しながら、さっきの言葉を咀嚼する。
(……ん?俺があの超絶美人の作ったご飯を食べるようにってことか?なぜ?)
彼女はそれが当然のように振る舞っていた。
……なんとなくだが、把握してきたぞ。
恐らくこの部屋は子供部屋だ。本棚に義務教育課程の教科書っぽいのがちらほらあるし、なにより制服があったし。
こっちにとっては知らない他人でも、あっちにとっては違うらしい。
(つまり、俺の役割は美人の子供で、出されたご飯を食べるのがミッションってことかな)
……やったぁと言う感想が一番最初に湧いて出た。
何せ独り身の成人男性。普段あまり自炊をしないため味気ないコンビニ飯とチェーン店の宅配が多くを占める生活だった。
誰かの手料理自体、一体いつから食べていないか。忘れてしまった。
そんな中、あんな美人の母親?の手料理を食べられる。
ここが怖いところなのかどうかは置いておいて、とりあえずその役割を全うすることが最優先だなと浮ついた心で決め、扉を開けた。
……廊下だ。普通の廊下。上下左右あべこべでもない。
右斜め前に扉があり【Haruka】という文字が、なんかのおしゃれなフォントで書かれているルームステッカー。姉か妹の部屋かな。
さらに右を見れば洗面台らしき扉と、奥にはリビングに繋がっているであろう扉。その向こうから物音が聞こえる。
左は玄関のようで、小物が置ける小さなスペースに写真立てが置かれ、スニーカーやローヒールなどが三つほど並んでいる。
とりあえず情報集めとしてこの家族の構成を知っておきたいところなので、玄関に向かい写真を拝見。
(ふむ)
すぐ後ろにいる女性のワンピースを掴んで不安げな表情の小さな男の子。その隣にはにっこり笑顔の、男の子より少し大きい肩まである髪を切り揃えた女の子。
その後ろに夫婦らしき二人の男女。それぞれスーツとジャケットを着こなして、入学おめでとうと書かれた看板の前に笑顔で並んでいる。
2人の子供は、女の子がジャケットにスカート、男の子が園制服なことから、女の子が姉なのだろう。
(この子がHarukaだな、多分。てことは……)
男の子の方に視線を移す。
幼い頃の自分がどうだったかはあまり覚えていないが、本来の自分と多少似通っている気がする。
(タイムリープ……ではないよなぁ。これが自分だとしても家族のことは全く知らないし。異世界の方がしっくりくる。というか、父上も相当なイケメンだわ)
少し丸い目と、爽やかそうな黒髪に軽いパーマをかけている。さらに柔らかい笑顔。母親同様記憶に無いが、いい父親感がハンパない。美男美女夫婦らしい。
今のところ危険はなさそうだなと思いながら、写真から視線を外す。いつまでもママさんを待たせるわけにはいかない。
廊下を進み、洗面所へ。
うがいして、顔を洗って、タオルで拭いて……よし。
(……顔は、幼くなってるな。中学……高校生くらいか?ちょっとカッコよくなってる気もする)
やはりと言うべきか、学生時代の自分と若干違う、しかしよく似た男の子がそこには居た。
上方修正なら大歓迎。それでもフツメンの域は出ていないが。
少し跳ねた髪は長めで前髪が目にかかり始めてる。
自分がどんな存在なのかいまいち掴みかねているが、今はミッション遂行を優先する。
ある程度梳かしてから洗面所を出て、リビングに向かう。
(うーん、緊張)
危険はなさそうとはいえ、それは願望交じりでもあり、なによりここにいる経緯が摩訶不思議すぎてどうとも言えない。
だが、俺には進むべき美人の手料理がある。
――いざ行かん。
カ……チャ
「おはよう。どうしたの?さっさと食べちゃいなさい」
「あ、うん。おはよう……ございます」
「?」
そーっと開けたら、キッチンに立っている例の美人ママに怪訝な顔をされた。
……いや、敬語で挨拶したからか。
もう一度見直しても、母とは似つかないような知らない美人さんだ。
キッチンに向き直った彼女。高めに結われた黒いポニーテールがフリフリと揺れる。
(…………おっと)
最高の後ろ姿だったとしても、目を奪われ続けているとさらに怪訝な顔をされかねない。この人の子供として普通に振る舞わないとどうなるか分からないし。……発狂とかされたら困るし怖い。
大人しくテーブルの、目の前にご飯が用意されている空席まで歩を進める。
視線だけキョロキョロ動かして隣は和室かーとか思いつつ椅子を引いてすわっ…………
「……なに?」
「へ?…………や、なんもないっす」
「?そ」
つい、見惚れてしまった。おそらくあのHarukaさんなんだろう。あそこで包丁を洗ってる美人さんを、少し幼くした感じ。
だが、なんというか、『浮世離れした』とでも形容すればいいのだろうか。
(……まだちゃんと正気だよな)
ここが間違いなく異世界だということを、美しさから実感するとは予想できなかった。
長いまつ毛とその下にある黒く、大きく、ツリ気味の目。若干のハイライトを含む目がこちらに向けられたとき鳥肌が立った。飲み込まれるんじゃないかと。
目鼻立ちは母親の面影を感じる。しかしそこに包容力を感じず、冷たい雰囲気を纏っているような気がした。
そんな美少女――少女と呼ぶには綺麗という言葉が似合いすぎる彼女は、幻想的な銀色……灰色?のセミロングヘアを輝かせていた。
椅子に座ったものの、頭の中は隣の人で埋まっていた。
(警戒心うんぬん関係なく、さらに気が引き締まるけど……)
一瞬で脳裏に焼き付いた容姿を横目でチラり。
控えめだが、確かに存在する起伏を持つ彼女の体は……もこもこしている。
青と白の大きな縞模様が入った上下のもこもこルームウェアと、彼女が纏うクールな雰囲気とのギャップがすごい。
魅了とも言っていいほどのオーラを持つ彼女は、【ぼくがかんがえたさいこうのおんなのこ】がイデアから現れたように思えた。
(なんちゅうこっちゃ……)
「早く食べなよ」
「あ、はい」
「は?」
「あ、すいません」
「なにそれ……キモ」
「……ごめん…………」
怖い。
その容姿も相まって、少し低めの声から放たれる冷たさがさらに怖い。
こんな美人にこんな近くで棘を喰らう経験も耐性も、自分には無かった。
「ほら、喧嘩してないで、早く食べちゃいなさい」
そこに待ったをかける女神の一声。
「今日なんかあったっけ?」
「無いわね」
「じゃ別にいいでしょ。土曜だし」
(今のは喧嘩ではなく一方的な罵倒ですよ母上)
「お姉ちゃん今日は出かけないの?」
「遊ぶ予定無いし」
向かいの席にもう一人の美人が座る。
二人揃うと破壊力が倍になった。
母上は包容力も兼ね備えているが、少し切れ長で鈍色の眼がクールな雰囲気も醸し出しているせいか、緊張もする。自分と姉の年齢的にもあり得ないと思うが、……二十代前半と言われたらすんなり受け入れるだろう。あと美人。
水色のルームウェアで隠しきれない豊満な体に視線を向けないよう、目下の料理を見る。
今まで味わったことの無い変な緊張をほぐすために、目の前の味噌汁に口をつける。
出来立てだろうその温かさが、心に沁みる。色々起こりすぎて息つく暇がない情緒が落ち着かされていく。
(……うまぁ)
もう味わうことが無いと思っていた誰かの手料理。その優しい味に涙が出そうだった。
目の前の家庭料理を噛みしめながら黙々と箸を進めていく、んだけど……
「――」
「あの……なんでしょう?」
前の席からこうも熱い視線を感じると食べにくい。
「いや?美味しそうに食べてくれるなって」
「おいしいです、めっちゃ」
料理に細工があったりしたら……なんて考えは消え去っていた。
「うん、ありがと。ところで……その口調はいつまで続ける気?」
「ウチも思ったそれ。なんで?」
「え、っと…………気分?」
曖昧な返答に、二人は不思議そうな顔をしていた。姉上は若干睨みつけていた気がしなくもない。
気を付けなければ。記憶がない以上、探り探りで生活に馴染んでいくしかなさそうだ。
警戒心はどっか飛んで行った。胃袋つかまれました。
これからのことを考える前に、まずは目の前のミッションを完了させよう。
ママさんにほほ笑みながら感謝されるのは、……こう、くるものがあったので。




