第3話:最初の観客
静寂。それはプロレス興行において、二つの意味を持つ。一つは、観客が退屈し、心が離れてしまった「死の静寂」。
そしてもう一つは、何が起きたのか理解できず、次に何が起きるのかを凝視する「期待の静寂」だ。
今、この砂場を支配しているのは、明らかに後者だった。
「……おい、今、あいつ跳ねたぞ」
「魔法を使ってないのに、あんな動きができるのか?」
ボルスの取り巻きたちが、ひそひそと囁き合う。彼らの目は、さっきまでの「哀れな獲物を見る目」ではない。正体不明の何かを恐れながらも、その一挙手一投足に惹きつけられる、純粋な好奇心に変わっていた。
【システム:感情魔力変換】
【周辺の“関心”が上昇中……】
【パッシブスキル:『メインイベンター』発動準備】
(いいぞ……。視線が、熱に変わる音が聞こえる)
俺は泥を拭い、ゆっくりと構えを解いた。あえて無防備に、しかし堂々と胸を張って立つ。プロレスラーにとって、視線は血液だ。見られていればいるほど、肉体は活性化し、神経は研ぎ澄まされる。
「どうしたボルス。もう終わりか? 土魔法の真髄、まだ見せてもらってないぜ」
挑発。これもまた技術だ。相手の怒りを煽り、より強力で、より見栄えのする技を引き出す。それを完璧に受けてこそ、観客のボルテージは最高潮に達する。
「ふ、ふざけるな! たまたま立ってただけだろ、この無能がぁ!」
ボルスが顔を真っ赤にして叫ぶ。彼は足元の砂を魔法で操り、三つの大きな塊へと凝縮させた。それは鋭い角を持つ岩の弾丸となり、俺の頭、胸、足を狙って浮遊する。
「今度は避けても無駄だ! 追尾させてやる!」
ボルスが腕を振る。三つの岩弾が、それぞれ異なる軌道で俺に襲いかかった。周囲の子供たちが「あぶない!」と声を上げる。その瞬間、俺の視界がスローモーションのように引き伸ばされた。
【観客の“緊張”を検知:回避・反応速度に補正】
(見える……。右、左、そして正面。軌道は単純だ。魔法の制御が甘いな)
俺は一歩、右へ踏み出す。右から迫る岩を、首をわずかに傾けるだけで回避。頬をかすめる風の感触が心地よい。間髪入れず、左からの岩に対しては、体を深く沈めてロール。
そして最後の一発。
(これは――あえて“当てる”!)
俺は逃げるのをやめ、正面から来る岩弾に対し、右腕の筋肉を凝縮させた。避けるだけでは観客は満足しない。圧倒的なパワーのぶつかり合いを、肉体の強さを見せつけるのが「太陽」の道だ。
「おりゃあぁぁぁ!」
乾いた咆哮とともに、右腕を振り抜く。
プロレス技ではない。ただのラリアットに近い、泥臭いスイング。だが、そこには観客の「緊張」によって底上げされた、今の俺に出せる最大出力が乗っていた。
ガギィィィン!!
魔法で作られた岩が、俺の肉腕と衝突し、火花を散らして粉砕された。砕け散った土の破片が、夕日に照らされてキラキラと砂場に降り注ぐ。
「…………え?」
ボルスが呆然と口を開ける。岩を殴り壊す六歳児。そんな光景、この世界の常識には存在しない。魔法を打ち消すのは魔法であるべきだし、無魔力の人間が魔法の塊を物理で粉砕するなど、あってはならないことだった。
だが、子供たちの感性は常識よりも鋭い。
「……すげえ。今の、見たか!?」
「手で、岩を壊したぞ……!」
ざわめきが、より大きなものへと膨れ上がる。これまで俺を馬鹿にしていた子供たちまでもが、砂場の縁まで寄ってきている。彼らはもう、これが「いじめ」だとは思っていない。これは、誰も見たことがない「特別な見せ物」だ。
(……きた。これが、プロの現場の空気だ)
俺の心臓が、歓喜で爆ぜる。前世では、どれだけ血を流しても、どれだけ過激な技を受けても、客席には冷めた空気が流れていたこともあった。
だが今は違う。たった十数人の子供たちだが、その熱量は純粋だ。俺という存在が、彼らの心を動かしている。
「おい、カイト! 今の、どうやったんだよ!」
「魔法じゃないのか!? 強化魔法か!?」
一人の少年がたまらず叫んだ。俺はそれに答える代わりに、砂場の真ん中でゆっくりと両手を広げた。プロレスラーが観客の声を聞くための、あのポーズ。
「これは魔法じゃない。――『プロレス』だ」
聞いたこともない単語に、子供たちが顔を見合わせる。その中には、俺と同じ日に生まれた二人の弟、アルスとレオンの姿もあった。
次男のアルスは、眼鏡(この世界では魔法道具だ)を指で上げながら、冷静な、しかしどこか鋭い目で俺を見ている。(兄さん……今の動きは非合理的だ。なぜあえて岩を殴った? 避ければ済む話なのに)
彼の内側にある「テクニカル」な思考が、俺の行動を分析しようとしているのが分かった。
三男のレオンは、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべていた。
(へぇ……。カイトの兄貴、面白いことやってんじゃん。でもさ、あんなの正攻法すぎてつまんねえよ。もっと残酷に、ぐちゃぐちゃにやった方が面白いのに)
彼の中の「ヒール」の片鱗が、すでに疼き始めている。
三つ子。同じ日に生まれた、異なるプロレスの魂。彼らもまた、俺の最初の、そして生涯の「ライバル観客」だった。
「ふ、ふざけるな! プロレスだか何だか知らないが、俺が本気を出せば、お前なんて一瞬で……!」
ボルスが涙目になりながら、さらに巨大な土魔法を練り始める。だが、今の俺には聞こえていた。ボルスを応援する声など、もうどこにもない。子供たちの目は、「次は何を見せてくれるんだ?」という、強烈な期待で満たされている。
「ボルス。お前はもう、俺の『引き立て役』にもなれてないぜ」
俺は静かに告げた。観客の熱狂が、俺の体内で黄金の魔力に変換され、爆発的な力を生み出す。
その時俺の脳裏に、前世で使っていた技の数々が、鮮明なイメージとなって蘇った。
「見てろよ。……これが、俺のプロレスだ!」
砂場という名のリングに、初めての「フィニッシュ」の予感が漂う。観客(子供たち)のボルテージは、今、臨界点を突破しようとしていた。




