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マル=ハディールの風は冷たく  作者: ユフランティー
9/9

連なる希望

湯から上がるころには、エルドリックの頭は幾分か冴えていた。


 寝起きの重さも、昨夜の夢の残滓も、湯気と共に浴室の窓へ薄く貼りつき、そのまま曇り硝子の向こうへ溶けていったようだった。


 彼は体を拭き、寝間着の上からガウンを羽織る。

 頬の傷はもう血を流していなかった。ただ、指で触れると細くひりつく。その小さな痛みだけが、朝の世界を現実に縫い留めているようでもあった。


 時計を見る。


 まだ、大学へ向かうまでには余裕がある。


 「さて……こういう朝は、どうにも落ち着かんな」


 普段なら時間に追われ、鞄へ資料を詰め込み、半分冷めた紅茶を流し込むように飲んで家を出る。だが今日は、奇妙なほど時間が余っていた。


 時間があるというのは、幸福であると同時に危険でもある。

 人間は余白を与えられると、たいてい余計なことを考え始める。


 エルドリックは居間へ戻り、机の上に積まれた封書の束へ目をやった。


 その中に一通、開封済みの手紙がある。

 上質な紙に、癖の強い筆跡。封蝋には、見慣れた大学印が押されていた。


 アーカム。

 ミスカトニック大学。


 その名を口にするだけで、学会の人間は大抵、二種類の反応を示す。

 一つは、眉をひそめる反応。

 もう一つは、声を潜める反応だ。


 エルドリックにとっては、そのどちらも少し滑稽だった。


 ミスカトニック大学は、確かに奇妙な大学である。

 神秘学、古文書学、民俗宗教、古代儀礼、失われた言語体系、辺境伝承。そうした、他の大学ならば資料室の片隅に追いやられるようなものを、彼らは堂々と研究対象にしている。


 しかも、そのやり方が妙に先進的だった。


 最新の写真術を用いて磨耗した碑文を読み取り、音声記録装置を辺境の祭祀調査に持ち込み、船舶会社や財団と提携して発掘隊を遠方へ送り出す。


 まるで未来を見ているようでいて、研究対象は徹底して過去に向かっている。


 「前を向いているのか、後ろ向きに全力疾走しているのか……あの大学は、いつも判断に困る」


 そう呟きながら、エルドリックは手紙を拾い上げた。


 差出人は、ミスカトニック大学のアーヴィング・ハロウェイ教授。


 彼とは、かれこれ十五年近く文通を続けている。

 最初は学会誌に掲載されたエルドリックの短い論文がきっかけだった。バトラム帝国初期の碑文に見られる「沈黙する民」という表現について、ハロウェイが長い反論を寄越してきたのである。


 それが、不思議と続いた。


 反論は再反論を呼び、注釈は別の注釈を産み、気づけば二人は季節ごとに数通の手紙を交わす間柄になっていた。


 内容はたいてい、まともな社交からは程遠い。

 消えた港町。神話の中の疫病。砂漠地帯に残る水葬儀礼。人名を喪失する呪詛。古代帝国による異端討伐記録。そういったものばかりである。


 近頃、二人の話題はほとんど一つに絞られていた。


 マル=ハディール。


 バトラム帝国の辺境にあったとされる、記録の乏しい港町。

 一部の年代記では交易拠点とされ、一部の宗教文書では「祈りを誤った町」とされ、さらに後世の詩では「海に耳を塞がれた町」と呼ばれる。


 学者の多くは、それを伝承の混線と見なしていた。

 疫病と反乱と異端審問が、後世の語り部によって一つの悲劇へまとめられたのだ、と。


 エルドリックも、完全には否定しない。

 歴史とはしばしば、複数の出来事が一つの仮面を被って残るものだ。


 だが、それだけでは説明のつかない一致があった。


 水。

 沈黙。

 名の喪失。

 祈りの反復。

 そして、帝国中央が不自然なほど早く記録を閉じたこと。


 エルドリックは手紙を広げ、前回の文面へもう一度目を走らせた。


 ハロウェイ教授の手紙は、いつも通り長かった。

 前半では、マル=ハディール周辺地域で発見された陶片についての見解が述べられている。中盤では、バトラム語の一語について三頁に渡る執拗な検討が続く。そして最後の方になって、まるでついでのように、こう記されていた。


 近く、中東方面への調査隊を組むことになった。


 対象は、旧バトラム帝国領南西部。

 帝国以前の水利施設跡と、のちにマル=ハディール伝承へ接続された可能性のある沿岸遺構。


 現地協力者の手配、測量器材、写真機、写本採取の許可については、ほぼ整っている。


 もし君がまだ、大学の椅子に尻を縫いつけられていないのなら、同行を考えてみてはどうか。


 その一文を読んだ時、エルドリックは思わず笑ったものだった。


 大学の椅子に尻を縫いつけられていないのなら。


 まったく、あの老教授は人をよく見ている。


 実際、彼は迷っていた。

 講義がある。学内の委員会もある。未整理の資料も山ほどある。学生たちの面倒も見なければならない。原稿の締切は二つあるし、学部長からは近代考古学課程の再編案について意見を求められている。


 つまり、行けない理由はいくらでもあった。


 だが、行く理由は一つで足りた。


 マル=ハディール。


 その名が、ずっと胸の奥に引っかかっている。


 昨夜読んだ『邪悪なる太陽』も、あの奇妙な夢も、直接の理由ではない。

 少なくとも、エルドリックはそう考えた。


 ただ、夢の中で自分を呼ぶ声があった。

 その声が、いまも耳の奥に残っている気がする。


 それは恐怖ではなかった。

 むしろ、昔から知っている本の、まだ読んでいない頁が勝手にめくれたような感覚だった。


 エルドリックは机の前に座った。


 引き出しから便箋を取り出し、インク壺の蓋を開ける。

 ペン先を軽く整え、しばらく白い紙を見つめた。


 それから、筆を取った。


 


 親愛なるハロウェイ教授


 君の前回の手紙に返事を出すのが遅れたことを、まず詫びたい。

 もっとも、君のことだから、私が怠惰に沈んでいたのではなく、大学という名の巨大な書類製造機に片腕を呑まれていたのだと察してくれているだろう。


 さて、本題に入ろう。


 君が計画している中東調査についてだが、私は同行する。


 講義、会議、原稿、学生、学部長の顔色。

 これらは確かに私をこの街に縛りつけるには十分な鎖だ。

 だが、残念ながら、どれもマル=ハディールという名の前では少々軽い。


 君が送ってくれた陶片の写し、特に水路施設跡から出たという銘文の断片は、私の関心を強く引いた。

 あの語形は、単なる地方的変化として片づけるには妙だ。

 祈り、沈黙、あるいは名を閉じる行為に関わる語である可能性が高い。


 もしそれが本当に沿岸遺構と結びつくなら、マル=ハディール伝承は後世の詩的誇張ではなく、何らかの歴史的核を持つことになる。


 君はまた私を笑うかもしれないが、私はこう考えている。


 歴史とは、死者の残した骨ではない。

 むしろ、まだ温度を失いきっていない灰だ。

 触れれば手を汚すし、時には指先を焼く。


 マル=ハディールについても、同じことが言えるのではないか。


 この町は、記録から消えたのではない。

 消される必要があったのだ。


 出発時期、集合地、必要な装備、大学側への提出書類について、詳細を送ってほしい。

 こちらでも休講措置と代理講義の手配を進める。


 追伸。

 君の大学は相変わらず資金に恵まれているようで羨ましい。

 我が大学では、壊れた地図棚を修理するにも三つの印鑑と四人の気分が必要になる。

 神秘研究の未来は、どうやらアーカムの古びた廊下にこそあるらしい。


 敬意と少しばかりの嫉妬を込めて


 エルドリック・ウォースリー


 


 書き終えると、エルドリックはしばらくペンを置かなかった。


 黒いインクが、紙の上でゆっくりと乾いていく。

 その光沢が失われ、文字が紙の一部になっていく様子を、彼は黙って見つめていた。


 決めてしまえば、迷いは不思議なほど遠のく。


 大学の仕事はどうにかなる。

 講義は代理を立てればいい。原稿は船の上でも書ける。学部長には適当な理屈を三つほど並べればよい。学生たちは、まあ、少しぐらい教授が不在でも成長するだろう。むしろその方が健全かもしれない。


 エルドリックは手紙を丁寧に折り、封筒へ収めた。


 封蝋を落とし、自分の印を押す。


 その瞬間、彼は奇妙な感覚を覚えた。


 まるで手紙を書いたのではなく、どこか遠い扉の把手に指をかけたような感覚。


 だが、それもすぐに朝の空気へ薄れていった。


 外では、路面電車のベルが鳴っている。

 新聞売りの少年の声が、通りの向こうから聞こえた。

 どこかの家で食器の触れ合う音がし、馬車の車輪が石畳を噛む。


 世界は、今日も相変わらず忙しそうだった。


 エルドリックは封筒を上着の内ポケットへ入れる。


 大学へ向かう途中で投函すればいい。


 それだけのことだ。


 たった一通の手紙。

 黒いインクで書かれ、封蝋で閉じられた、学者同士の返事。


 その時の彼にはまだ、それが自分の日常をどれほど遠くへ運び去ることになるのか、知る由もなかった。




●●●




封筒を上着の内ポケットへ収めると、エルドリックはいつもより少しだけ丁寧に身支度を整えた。


 襟を直し、ネクタイを結び、机の上に散らばった資料のうち必要なものだけを鞄へ入れる。

 手紙の重みは、ごくわずかだった。だがその薄い封筒が、内ポケットの中で妙に存在を主張している。


 まるで、まだ見ぬ土地の砂が、紙の向こうからこぼれてくるようだった。


 「さて、大学に行く前に一仕事だ」


 家を出ると、朝の街はすでに動き出していた。


 石畳の上を馬車が軋み、路面電車のベルが交差点の向こうで鳴っている。新聞売りの少年が声を張り上げ、通勤客たちは帽子を押さえながら足早に歩いていた。パン屋の窓からは焼きたての匂いが漏れ、煙突の上には薄い煙が幾筋も立っている。


 街は今日も、昨日と同じ顔をしていた。


 同じ朝。

 同じ石畳。

 同じ電車の音。


 けれどエルドリックの胸の内だけは、少し違っていた。


 変わらぬ日常を打開する。


 それは大げさな決意ではなかった。誰かに宣言するようなものでもない。ただ、長く同じ部屋に置かれた家具を少し動かしただけで、部屋全体の景色が変わるような、そんな静かな昂りだった。


 郵便局は大学へ向かう道の途中にある。


 赤煉瓦造りの小さな建物で、入口の上には金色の文字で局名が掲げられていた。中へ入ると、インクと紙と古い木材の匂いが混じった空気が鼻をくすぐる。窓口の向こうでは、眠そうな目をした局員が郵便袋を整理していた。


 エルドリックは内ポケットから封筒を取り出す。


 宛先は、アーカム。

 ミスカトニック大学。

 アーヴィング・ハロウェイ教授。


 十五年の文通の末に書いた一通の返事。

 それは友人への便りであり、学者への回答であり、そして彼自身への許可証でもあった。


 「これをお願いします」


 局員は封筒を受け取り、事務的に切手と印を確認した。


 「アーカム行きですね」


 「ええ」


 「少し日数がかかりますよ」


 「構いません。急ぎすぎる便りというのも、時には無粋ですから」


 局員は返答に困ったような顔をしたが、特に追及はせず、封筒を仕分け箱へ滑り込ませた。


 たったそれだけだった。


 紙が箱に入る。

 木の仕切りの中へ消える。


 それだけのことで、エルドリックは胸の奥に、かすかな音が鳴ったような気がした。


 決めたのだ。


 もう、返事を先延ばしにすることはできない。

 講義がある。会議がある。学部長がいる。学生がいる。原稿もある。

 それらは相変わらず彼の周囲を取り巻いているが、いまやその向こう側に、別の地平が見えている。


 砂漠。

 旧帝国領。

 水路跡。

 そして、マル=ハディール。


 郵便局を出たエルドリックは、朝の光の中で一度だけ深く息を吸った。


 「さて。教授らしい一日を始めるとしよう」


 そう言って歩き出した彼の足取りは、いつもより少し軽かった。


 大学に着いた時、まだ講義開始まではかなり時間があった。


 これは、エルドリック・ウォースリーという男を知る者にとって、ほとんど事件に近い出来事である。


 正門を抜け、芝生の中庭を横切る。

 学生たちは朝の冷たい空気の中で本を抱え、友人と話し、ある者は眠たげに欠伸を噛み殺していた。遠くの時計塔が、いつもより穏やかな音で時を告げる。


 研究棟へ入ると、廊下の先で資料の束を抱えたマイケルがこちらへ歩いてくるのが見えた。


 彼はエルドリックを見るなり、足を止めた。


 そして、まじまじと顔を見る。


 「教授」


 「おはよう、マイケル」


 「……今日は、何かありましたか?」


 「何かとは?」


 「時間より早く大学にいるので」


 エルドリックはわざとらしく眉を上げた。


 「失礼だな。私だって、太陽より早く起きる日くらいある」


 「太陽が西から昇った日ですか?」


 「天文学的には実に興味深い仮説だ。論文にするなら共同署名にしておきたまえ」


 マイケルは呆れたように息を吐いた。


 「本当に何かあったんですね」


 「君は優秀だな。探偵になれる」


 「助手で手一杯です」


 「それは残念だ。ノークロスの犯罪史が一つ寂しくなった」


 軽口を叩きながらも、マイケルの目はどこか探るようだった。

 エルドリックが早く来ただけで、彼がここまで訝しむのも無理はない。普段の教授は講義開始五分前に現れ、鞄から資料を落とし、教室へ向かう途中でようやく今日の講義内容を確認するような男である。


 「本当に、体調でも悪いんですか?」


 「むしろ良い方だ。久しぶりに湯に浸かった」


 「それは……文明の勝利ですね」


 「まったくだ。湯は人間を古代の獣から近代人へ戻してくれる」


 「では、今日の教授は近代人ですか?」


 「午前中だけは保証しよう」


 マイケルはようやく少し笑った。


 「今日の講義資料は教室に置いてあります。バトラム帝国とヨーロッパ諸国の関係、それから対外戦争史ですね」


 「うむ。人類が互いに相手を文明化しようと努力した結果、どれほど多くの砲弾を贈り合ったかについて語る日だ」


 「学生にはもう少し穏当な表現でお願いします」


 「私なりに穏当だよ」


 そう言って、エルドリックは研究室の扉を開けた。


 講義の時間が近づくにつれ、教室には学生たちが集まり始めた。


 古びた講義室だった。

 高い天井、擦り減った木の床、黒板の前に置かれた教卓。窓からは中庭の木々が見え、朝の光が斜めに差し込んでいる。席の前列には熱心な学生が数人、後列には眠気と戦う者たちが陣取っていた。


 エルドリックは教卓に資料を置き、黒板に白墨で大きく書いた。


 バトラム帝国とヨーロッパ世界


 その下に、さらにいくつかの語を並べる。


 交易。

 宗教。

 運河。

 戦争。

 恐怖。


 最後の一語を書いた時、教室の何人かが顔を上げた。


 エルドリックは白墨を置き、学生たちの方を向いた。


 「さて、諸君。今日の講義は、バトラム帝国がヨーロッパ世界に及ぼした影響についてだ」


 彼は教卓に片手を置く。


 「帝国の影響というと、多くの者はまず軍事を思い浮かべる。軍隊、艦隊、要塞、砲、占領地。もちろん、それらは重要だ。人間は実に残念な生き物で、相手を理解するより先に港へ軍艦を並べたがる」


 教室の一部から小さな笑いが起きた。


 「だが、バトラム帝国の本当の恐ろしさは、剣や大砲のみにあったわけではない。むしろ彼らは、ヨーロッパ諸国に対して、もっと長く、もっと深い影響を残した」


 エルドリックは黒板の「交易」の文字を軽く叩く。


 「第一に、交易だ。バトラム帝国は地中海と東方交易路の要衝を押さえ、香辛料、絹、薬種、染料、陶器、紙、そして知識の流れを管理した。彼らは品物だけを売ったのではない。通路を売った。安全を売った。許可を売った」


 彼は少し間を置いた。


 「通行証一枚が、時には小国の王冠より価値を持つ。これは誇張ではない」


 何人かの学生がペンを走らせる。


 「第二に、宗教である。バトラム帝国は単なる軍事帝国ではない。彼らの政治は、常に聖性をまとっていた。帝国の法は神の影を借り、税は儀礼の衣を着て、外交文書は祈祷文に近い形式を持った」


 黒板の「宗教」に線を引く。


 「ヨーロッパ諸国はこれを嫌悪し、軽蔑し、同時に模倣した。敵対者の制度ほど、よく観察されるものはない。バトラムを野蛮だと呼びながら、彼らの官僚制、徴税制度、港湾管理、軍政組織を研究した国は少なくない」


 前列の女子学生が手を挙げた。


 「教授。それはヨーロッパ側がバトラム帝国を文化的に下に見ていたということですか?」


 「よい質問だ」


 エルドリックは頷いた。


 「下に見ていた。少なくとも、そう振る舞った。だが、恐れてもいた。憎んでもいた。憧れてもいた。国同士の感情というものは、人間の恋愛より厄介だ。嫌いだと言いながら相手の服装を真似る。異端だと罵りながら相手の制度を写す。野蛮だと断じながら、その港に自国の船を並べる」


 教室に軽い笑いが広がる。


 「第三に、運河だ」


 その言葉に、学生たちの表情が少し変わった。


 スエズ運河。

 その名を知らぬ者はいない。


 エルドリックは黒板に簡単な地図を描いた。地中海、細い陸地、紅海へ抜ける線。


 「現代において、バトラム帝国がなお世界に対して影響力を保持している最大の理由。それがこの運河だ。前回の講義を受けたものはもちろん知っているね。スエズはただの水路ではない。世界の喉元である」


 白墨の線が、地図上の細い部分をなぞる。


 「ノークロス合衆国、ミラトワ共和国、イベリア連邦、東ランド商会。諸君が朝に飲む茶、新聞の紙、薬棚の瓶、婦人帽の羽飾り、工場で使われる機械部品。それらの多くが、どこかでこの細い水路と関係している」


 彼は学生たちを見回した。


 「つまり、バトラム帝国は我々の日常にいる。遠い砂漠の帝国ではない。諸君の朝食の中に、書店の棚に、港の保険料に、新聞の国際面に、しっかり居座っている」


 後列で欠伸をしていた学生が、少しだけ姿勢を正した。


 「そして第四に、戦争だ」


 教室の空気がわずかに締まる。


 「バトラム帝国とヨーロッパ諸勢力の戦争は、単なる領土争いではなかった。少なくとも、そう語られてきた。聖戦、解放、文明化、防衛、異端討伐。人間は戦争に美しい名前をつけるのが得意だ。名前をつければ、血の匂いが少し薄まると信じているらしい」


 エルドリックは資料を一枚めくる。


 「初期の衝突は、交易港と海峡を巡るものだった。だが時代が下るにつれて、戦争は宗教的な意味を帯びていく。ヨーロッパ側はバトラムを異教の圧力として語り、バトラム側はヨーロッパ諸国を秩序を乱す海賊的勢力として語った」


 黒板に二つの語を書く。


 解放。

 秩序。


 「どちらの陣営も、自分たちが正しい言葉を持っていると信じていた。だからこそ、厄介だった。欲望だけの戦争は、利益が尽きれば止まることがある。だが、正義を名乗る戦争は止まりにくい。神も文明も、便利な砲兵隊になる」


 教室は静かだった。


 エルドリックは声の調子を少し和らげる。


 「もっとも、諸君に覚えておいてほしいのは、バトラム帝国を単純な悪役として捉えてはならないということだ。同じく、ヨーロッパ諸国を単純な進歩の担い手として描いてもならない。歴史は芝居ではない。善玉と悪玉を配置すれば理解できるほど、親切には作られていない」


 彼は教卓の上に置いた一枚の写しを掲げた。


 古い条約文書の複製だった。


 「これは、第四次ヴァルス海峡戦争後に結ばれた通商協定の写しだ。見ての通り、文面には和平、友好、神の御前における誠実、両国民の繁栄、といった美しい語が並んでいる」


 そこで彼は、口元に少し皮肉を浮かべた。


 「そして別紙には、捕虜交換の人数、賠償金、港湾使用料、関税優遇、海軍寄港権がびっしりと書かれている。人類愛とは、しばしば別紙に本音を書くものだ」


 今度ははっきりと笑いが起きた。


 マイケルは教室の後方で、資料を抱えたまま肩をすくめていた。

 おそらく、また余計なことを言っていると思っているのだろう。


 エルドリックは講義を続けた。


 バトラム帝国の法体系がヨーロッパの港湾行政に与えた影響。

 聖務庁による運河通行管理。

 バトラム式の記録官制度。

 ヨーロッパ側が作り上げた「東方の専制帝国」という戯画。

 その戯画が、新聞、劇場、冒険小説を通じて民衆の想像力へ染み込んでいったこと。


 彼は一つ一つ、線を結んでいく。


 戦争は戦場だけで起きるのではない。

 地図の描き方、相手国の呼び方、教科書に載せる挿絵、港で押される印章。

 それらすべてが、長い争いの一部なのだと。


 やがて講義の終わりが近づくと、エルドリックは黒板の端にもう一つだけ言葉を書いた。


 記憶。


 「最後に、これを忘れないでほしい」


 彼は白墨を置いた。


 「帝国が本当に後世へ残すものは、領土ではない。領土は奪われる。艦隊は沈む。王朝は倒れる。だが、記憶はしぶとい。ある国を恐れた記憶、憧れた記憶、憎んだ記憶、学んだ記憶。それは制度や物語や偏見の中に残り続ける」


 教室の窓の外で、風が木の葉を揺らした。


 「バトラム帝国は、ヨーロッパの外側にあったのではない。ヨーロッパが自分自身を定義するために必要とした、巨大な鏡だった。敵として、商売相手として、異端として、教師として」


 鐘が鳴った。


 講義終了の合図だった。


 学生たちが少しずつざわめき始める。


 エルドリックは資料をまとめながら、最後に付け加えた。


 「次回は、バトラム帝国内部における辺境統治と、記録から消えた地方都市について扱う。予習しておくように。特に、マル=ハディールの名を見つけた者には、私が個人的に敬意を払う」


 何人かの学生が、不思議そうにその名を繰り返した。


 マル=ハディール。


 まだ彼らにとっては、ただの知らない地名にすぎない。


 エルドリックは鞄を閉じながら、その響きを耳の奥で聞いていた。


 講義が終わると、学生たちは波が引くように教室を出ていった。


 数人は黒板に残された地名を書き写し、別の数人は「マル、何とか」と呟きながら首を傾げている。後列でほとんど眠っていた学生までも、最後の一語だけは耳に残ったらしく、友人に訊ねながら廊下へ消えていった。


 マル=ハディール。


 まだこの大学では、埃をかぶった地方史の片隅にある名でしかない。

 だが、エルドリックにとっては違った。


 教卓の上の資料をまとめながら、彼は静かに息を吐いた。

 講義の余韻は嫌いではない。学生たちの視線、白墨の匂い、紙の擦れる音。そうしたものは学問という営みの穏やかな証拠だった。


 だが今日は、その穏やかさの奥に、別の熱があった。


 「教授」


 教室の後方に立っていたマイケルが、資料の束を抱え直しながら近づいてきた。


 「次回の講義、マル=ハディールについてやるんですか?」


 「その予定だ」


 「ずいぶん楽しそうですね」


 「学者が楽しそうにしている時は、たいてい碌でもない発見をした時だ」


 「では、何か発見したんですね」


 エルドリックは答えず、鞄の留め具を閉めた。


 その沈黙だけで、マイケルは十分だった。


 朝から妙だとは思っていた。

 時間より早く大学に現れ、髭も剃っており、服装もいつもより整っている。しかも講義中、普段の皮肉に混じって、妙に声が弾んでいた。


 こういう時の教授は危険である。


 何かを思いついたエルドリック・ウォースリーは、普段の散漫さが嘘のように消える。

 机の上を散らかし、予定を忘れ、書類を後回しにする男が、ひとたび目標を定めると、まるで砂漠の上を一直線に進む軍隊のようになる。


 「教授」


 マイケルは慎重に言った。


 「まさかと思いますが、どこかへ行くつもりですか?」


 エルドリックはそこでようやく、愉快そうに振り返った。


 「君は本当に探偵に向いている」


 「やめてください。その褒め方は、だいたい悪い知らせの前置きです」


 「中東へ行く」


 マイケルは一瞬、表情を失った。


 それから、深く息を吸う。


 「……やはり」


 「やはり?」


 「朝から嫌な予感がしていました。教授が早く来る時点で、世界のどこかに穴が開いたのではないかと」


 「大げさだな。穴が開いたわけではない。こちらから覗きに行くだけだ」


 「余計に悪いです」


 エルドリックは笑い、教室の扉へ向かった。


 「まずは大学側に話を通す。君も来たまえ」


 「私もですか?」


 「君は私の助手だろう」


 「そうですが、助手とは教授の暴走を傍で目撃する職務ではなかったはずです」


 「職務範囲は時代と共に変わる」


 「便利な言葉ですね」


 二人は廊下を歩いた。


 昼前の大学は活気に満ちていた。講義を終えた学生たちが階段を降り、別の教室へ急ぐ者が廊下を横切る。どこかの部屋からは議論の声が漏れ、窓の外では中庭の芝生に数人の学生が寝転んでいる。


 マイケルはその平穏な光景を横目に見ながら、これから始まるであろう事務手続きの混乱を想像した。


 休講。

 代理講義。

 旅費。

 調査許可。

 研究資料の貸出。

 学部長への説明。

 教授会への報告。


 それだけで頭が痛くなる。


 だが、エルドリックの足取りは軽かった。


 まず向かったのは学部長室だった。


 学部長は当然、渋い顔をした。

 年度の途中で教授が長期不在になるなど、大学として歓迎できることではない。しかも行き先は中東、目的は旧帝国領の調査、同行先はアーカムのミスカトニック大学。


 その名が出た時点で、学部長の眉間には立派な渓谷が刻まれた。


 「ウォースリー教授。君の研究意欲は認めている。だが、講義の予定はどうするつもりだね」


 「代理案を用意します」


 「代理案?」


 「ハーバード教授にはバトラム帝国法制史の部分を。リデル講師には地中海交易史を。近代海運に関する二回分は、商学部のバンクロフト教授に頼めるでしょう。彼は私に貸しがあります」


 「貸し?」


 「昨年、彼の講演会で寝ていた学生を起こしてあげました」


 「それを貸しと呼ぶかは疑問だが」


 「本人にはそう思わせます」


 マイケルは隣で頭を抱えそうになった。


 だが、エルドリックは止まらなかった。


 講義の穴は三つの代理案で埋める。

 残りは事前に課題文献を配布し、学生に小論文を提出させる。

 研究室の管理はマイケルが行う。ただしマイケルが同行する場合に備えて、資料室の鍵は司書補へ預ける。

 大学所蔵の写本複製は持ち出さず、必要箇所のみ筆写する。

 未提出原稿は出発前に一本仕上げ、残りは船中で書く。

 調査成果については、帰国後に公開講義を行い、大学名を前面に出す。


 学部長の表情は、渋いまま少しずつ諦めに近づいていった。


 「つまり君は、もう行くつもりなのだな」


 「はい」


 その返答には、珍しく冗談がなかった。


 学部長はしばらくエルドリックを見ていた。

 やがて、椅子の背にもたれる。


 「ミスカトニック大学の調査隊と合同なら、成果は小さくないだろう。こちらとしても、完全に反対する理由はない」


 「ありがとうございます」


 「ただし、大学の名を背負うことを忘れないように」


 「もちろんです」


 「そして、怪しげな儀式に首を突っ込まないように」


 「努力します」


 「努力では困る」


 「では、善処します」


 「もっと困る」


 学部長はこめかみを押さえた。


 マイケルはその様子を見ながら、妙な同情を覚えた。

 この大学でエルドリック・ウォースリーという男を完全に御せる者はいない。学部長ですら、最後には彼が残していく書類の山を少しでも小さくする方向へ考えを切り替えるしかないのだ。


 学部長室を出る頃には、第一の関門は突破されていた。


 そこから先のエルドリックは、驚くほど速かった。


 ハーバード教授の研究室へ向かい、代理講義を頼む。

 初めは難色を示したハーバード教授も、エルドリックが用意していた講義資料と参考文献表を見せると、渋々ながら引き受けた。


 「君にしては準備が良すぎる」


 「私にも成長の余地はあります」


 「悪い兆候でなければいいがな」


 「教授方は、どうして私が真面目にすると不吉がるんです?」


 「日頃の行いだ」


 その返答には、マイケルも心の中で深く同意した。


 次に、資料室。

 エルドリックは司書に必要な写本複製と地図の閲覧予約を入れ、持ち出し禁止資料については筆写許可を申請した。司書は最初こそ面倒そうだったが、エルドリックが過去に返却期限を二度破ったことを先に謝罪し、さらに今回はマイケルに期限管理を任せると言うと、ようやく判を押した。


 「私が管理するんですか?」


 資料室を出たところで、マイケルが訊ねた。


 「君ならできる」


 「教授ができないだけでは?」


 「人にはそれぞれ美徳がある。私の美徳は、不得意なことを得意な者へ任せられることだ」


 「それは美徳ではなく生存戦略です」


 「学問も人生も、最後は生存戦略だよ」


 さらに、商学部。

 海運史に詳しいバンクロフト教授を捕まえ、近代運河貿易に関する特別講義を依頼する。相手は最初こそ「急だ」と怒ったが、エルドリックが中東調査後に新しい資料を提供すると約束すると、表情が変わった。


 「スエズ関係の現地資料か?」


 「うまくいけば」


 「よし、一回なら引き受けよう」


 「二回なら?」


 「図々しい」


 「では一回半で」


 「そんな講義はない」


 結局、一回分の講義と追加討論会を引き受けさせることに成功した。


 マイケルはその横で、教授という人種の交渉術を見た気がした。

 相手の好奇心、名誉欲、研究上の不足、過去の貸し借り。それらを軽く撫でるだけで、閉じた扉が次々に開いていく。


 普段のエルドリックは、書類一枚を探すのに半日かかる男である。

 だが目的が定まると、彼の頭の中では大学全体が地図のように展開されるらしい。

 誰が何を欲しがり、どの部屋にどの鍵があり、どの手続きを先に済ませれば次の扉が開くのか。

 それを迷いなく辿っていく。


 昼を過ぎる頃には、出発に必要な大学側の課題は、完全ではないにせよ、驚くほど片付いていた。


 研究室へ戻ったマイケルは、椅子に座るなり深いため息をついた。


 「教授」


 「何だね」


 「今日一日で、今年一番働いていませんか?」


 「心外だな。私はいつも働いている」


 「いつも考えてはいるんでしょうけど」


 「考えるのは学者の労働だ」


 「書類を書くのも労働です」


 「だから今日書いた」


 「明日は雨ですね」


 「砂漠に降るなら歓迎だ」


 その言葉に、マイケルは顔を上げた。


 エルドリックは机の上に地図を広げていた。

 旧バトラム帝国領南西部。沿岸地帯。古い水路。遺跡の印。手書きの注釈が細かく書き込まれている。


 彼はもう、完全にそこへ向かっていた。


 体は大学の研究室にある。

 だが視線は、遠い海の向こうの乾いた土地を見ている。


 「マイケル」


 不意に、エルドリックが言った。


 「はい」


 「君はどうする?」


 「どうする、とは?」


 「助手として、私と一緒に来るか」


 研究室の空気が、少しだけ静かになった。


 窓の外では学生たちの声がする。

 どこかで扉が閉まる音がした。

 中庭の木々は、いつも通り風に揺れている。


 マイケルはすぐには答えなかった。


 中東。

 旧帝国領。

 ミスカトニック大学の調査隊。

 マル=ハディール。


 どれも、研究室で紙の上から眺めるには魅力的な言葉だった。

 だが実際に行くとなれば話は違う。船旅、暑さ、病、言葉の壁、治安、役所、遺跡、砂漠。何より、アニエスにどう説明するかという、現実的かつ最も恐ろしい問題がある。


 「断っても構わない」


 エルドリックは言った。


 その声は、珍しく穏やかだった。


 「これは私の研究だ。君を巻き込む義務はない。大学には、君が残る理由も十分にある」


 マイケルは苦笑した。


 「そういう言い方をされると、断りにくいですね」


 「では、もっと嫌な言い方をしようか」


 「結構です」


 マイケルは机の上の地図を見た。


 研究室の中で何度も目にしてきた地名。

 教授が夜更けまで調べていた断片。

 古い祈祷句。

 消えた町。

 いつもは紙の上にしかなかったものが、急に世界のどこかに実在する場所として立ち上がってくる。


 それを見に行く。


 怖くないと言えば嘘になる。

 面倒でないと言えば、さらに嘘になる。


 だが、胸の奥がわずかに熱を持つのも事実だった。


 「行きます」


 エルドリックは目を細めた。


 「いいのか?」


 「教授一人で行かせたら、出発前に旅券をなくすか、船に乗る港を間違えるか、現地で一週間分の食費を古文書に使い込むでしょう」


 「あり得ないとは言い切れない」


 「そこは否定してください」


 「学者は誠実であるべきだ」


 マイケルは呆れたように笑った。


 「それに、私も見てみたいんです。マル=ハディールが本当に何だったのか。教授がずっと追いかけているものの正体を」


 エルドリックはしばらく黙っていた。


 やがて、軽く頷く。


 「なら、君は正式に調査助手だ」


 「給金は上がりますか?」


 「大学に掛け合おう」


 「教授の掛け合いは信用できますか?」


 「今日の私なら、多少は」


 「では今日中にお願いします」


 「君は実に賢い」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 窓の外では、午後の光が大学の煉瓦壁を淡く照らしている。

 いつもと同じ研究室。

 いつもと同じ机。

 いつもと同じ埃っぽい本棚。


 だがその日、そこに置かれた地図だけは、少し違って見えた。


 紙の上の遠い土地が、初めて行き先になった。


 エルドリックはペンを取り、地図の余白に小さく書き込んだ。


 調査準備開始。


 その文字は、インクが乾くにつれ、紙へと沈んでいった。

 まるで、もう後戻りはできないとでも言うように。

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