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マル=ハディールの風は冷たく  作者: ユフランティー
8/9

邪悪なる太陽

 夕暮れが街を赤く染めていた。


 石畳の上に伸びる路面電車の影は長く、ブロンズ色の陽光が建物の間を滑っていく。


 帽子を目深に被ったまま、エルドリック・ウォースリーは街路を歩いていた。

 片手には煙草、もう片方の指先には、考古学の資料の端切れがまだ付いていた。


「夕暮れの街ってのは、なぜこうも哲学的な気分になるのかね……空腹だからかもしれんが」


 彼は自嘲気味に呟き、ふと足を止めた。


 目の前にあるのは小さな書店だった。古くから続いている個人経営の店で、今どき珍しく看板には手書きの文字が並ぶ。窓越しに見える本棚には、所狭しと新刊や同人誌、宗教小冊子、海外文学が並んでいた。


 そのうちの一つが、彼の視線を引いた。


 店の中央に据えられた特設棚。その上に、赤黒い表紙を持つ一冊の本が目立つように積まれていた。題名は、


 『邪悪なる太陽』


 その題字は、焼け焦げたような意匠で描かれ、不穏な熱を帯びているように見える。


「……まったく、扇情的な題名だ」


 皮肉交じりに口元をゆるめながら、エルドリックはその本を手に取った。


 裏表紙に目をやると、そこには作者の名前が記されていた。


 ハントマン・ファレル・ラーデンドルフ


 その名に、エルドリックは微かに苦笑する。


「この人、また書いたのか。まったく懲りないな……」


 ラーデンドルフ──この名は、ノークロス合衆国でも知る人ぞ知るオカルト作家だった。

 教会と宗教民俗、古代文書、神秘的な事件を題材にしながらも、あくまで「創作」として発表することで物議を避けている男。だが、その描写の細かさと信憑性は学者すら唸らせることもある。


 エルドリックは目を細める。


「……読まない理由は、ないな」


 そのまま本を胸に抱え、彼は会計へと向かう。


 外は既に、街灯に火が灯りはじめていた。


 紙袋の中で、あの不穏な題名の本がかすかに揺れていた。


 『邪悪なる太陽』。

 エルドリックはその重量を感じながら、片脇に本を抱え、街灯がまばらに照らす歩道を歩いていく。


 夜の空気は少し冷たかった。建物の隙間から洩れる光と、石畳に響く靴音。馬車の往来は既に減っており、代わりに通り過ぎる路面電車の鈍い音が耳を打った。


「なんだか、昨日と同じような一日だな」


 そう言って彼が足を止めたのは、小さなカフェだった。


 店名も看板も特に目立たないその店は、近所の住人と常連だけが知っている穴場だった。白熱灯が店内を柔らかく照らし、窓越しには淡く湯気の立つシチュー皿が見える。


 ドアを開けると、ベルの音が控えめに鳴った。


 「よう、教授。また昨日と同じかい?」


 カウンターの奥から、年配の店主が顔を上げて言った。


 エルドリックは紙袋を抱えたまま椅子に腰を下ろし、くしゃっと肩をすくめて笑った。


 「ええ、驚かれるかもしれませんが、実は飽きていないんですよ」


 「よく言うねぇ。はいよ、バケットとビーフシチューだ」


 やがて運ばれてきたのは、昨日と寸分違わぬ献立。


 表面に香ばしい焼き色のついたガーリックバケット。

 濃厚な香りを漂わせるビーフシチューは、肉がスプーンの重みだけで崩れるほど柔らかい。


 エルドリックは煙草を灰皿に置き、ナプキンを膝に敷いた。

 そのままひと匙、口に運ぶ。


 「うん……やっぱり、これだ」


 口の中に広がる、滋味深い味わい。彼の顔が、ほんの一瞬、子供のように緩んだ。


 紙袋に入った本は、まだ未読のまま。

 けれど、なぜかその存在が、今夜の食事に微かなスパイスを与えている気がした。


 ビーフシチューの温もりが胃を優しく満たすころ、店内の別のテーブルから笑い声が響いてきた。


 「見たかい? あの新型の射影機! 一時間以上も連続で映せるんだとさ」


 「いやいや、それよりすごいのは、南部の展示会に来た複葉飛行機だろ。二人乗りで水平飛行が可能って話だ」


 男たちの声は、興奮と期待に満ちていた。

 それは新たな技術への驚きというよりも、まるで子供が新しい玩具を見つけたときのような熱量だ。


 エルドリックはパンの端をちぎって口に運びながら、彼らの会話に静かに耳を傾けていた。


 ──射影機、飛行機、電気、電話。


 科学と技術が、この国を確かに変えつつあった。


 《我々は世界を記録し、地を這わずに空を飛び、目に見えぬ音を遠くへ届けるようになった──》


 確かに、それは偉大な進歩だ。だが、どこかで彼は思う。


 ──だが、何かを置き去りにしてはいないか?


 この世界に確かにあったはずの「理解されぬもの」、

 闇にうごめき、祈りの中に息づき、人の想像力を超えて存在していたもの。


 「神秘は、こうして忘れ去られていくのだろうな……」


 誰に言うともなく、彼は呟いた。


 かつて人は、雷鳴に神の怒りを見、病に悪霊の仕業を感じた。

 だが今では、雷は電荷の放電であり、病は微生物の所業とされる。


 それは理解の進歩である一方で、目に見えぬものへの畏れや想像の余地が、急速に剥ぎ取られていく過程でもあった。


 エルドリックは煙草を再び唇に咥え、火をつけた。

 その火種の向こうに、紙袋の中の一冊の本──『邪悪なる太陽』の背表紙が、静かに佇んでいる。


 まるで時代が忘れかけた何かを、彼に囁きかけているかのように。


 食後の余韻が腹の底に広がる頃、エルドリックは軽く手を挙げて給仕を呼んだ。


 「コーヒーを──ブラックで」


 短く頼んでから、隣の椅子に置いていた紙袋に手を伸ばす。

 ごそりと音を立てて取り出したのは、あの一冊。『邪悪なる太陽』。


 茶色い表紙に金色の箔押しが施され、いかにも神秘と怪異を匂わせる重苦しい装丁。

 日が落ちた街角の片隅で、こうした書物を読む者などそうそういまい。

 だからこそ、彼にとっては格別だった。


 カップが置かれたテーブルに、乾いた紙の音が静かに重なった。


 ──一ページ目をめくる。


 ざらりとした紙質が指先に残る。

 文体は古風で、しかし筆者特有の熱に満ちていた。ハントマン・ファレル・ラーデンドルフ──この奇怪な文筆家は、いつもこうだ。


 コーヒーの香ばしい香りと仄かな苦味が口内に広がるたび、エルドリックの思考は日常からすうっと剥がれ落ちていく。


 街のざわめき、店内の談笑、遠くで鳴る路面列車のベルの音……

 すべてが遠ざかってゆく。


 今この瞬間、彼にとって世界はただ、カップの縁と、一冊の書の中にだけ存在していた。


 エルドリックは革の表紙に指を這わせる。

 扉をめくると、黄ばんだ紙に刷られた文章が現れた。

 それはまるで写本のように古びた字体で綴られており、彼の心をすぐに異界へと誘う。


 


 《邪悪なる太陽》

 

 かつて天は清らかであり、

 太陽は我らに微笑み、その光は万物を育み、正しき道を照らしていた。

 

 されど、時の流れと共に星々は歪み、

 天の理は乱れ、悪しき兆しが訪れた。

 

 その日、空は黒き環に裂け、

 太陽は己が核を喪い、ただ金の輪のみが空に残された。

 

 人々はそれを“輪の太陽”と呼び、畏れ、跪き、祈りを捧げた。

 だが祈りは虚空に溶け、何ものも救われなかった。

 

 都の名はソレリウム──太陽を崇めし都である。

 金の尖塔は天に届かんとし、神殿には絶えず祈声が満ちていた。

 

 しかし、“輪の太陽”は彼らを祝福せず、

 むしろ見下し、忌み嫌い、呪いをもって応じた。

 

 その光は病を齎し、

 熱は正気を焼き、

 影は言葉を喰らった。

 

 やがて都に住まう者は狂い始めた。

 病者は内臓を吐き、己の名を忘れ、

 街には呻き声と不明なる呪詛が木霊するばかり。

 

 そして、最期の時は、静かに、然れど確かに訪れた。

 

 天より、黄金にして黒き炎が降り注ぎ──

 神殿も、民も、記録も、すべてが灰となり果てた。

 

 それでも太陽は空にあった。

 輪のまま、黒きまま、黙して燃え続けていた。


 


 読み終えたエルドリックは、ふと眉をひそめた。

 荒唐無稽──だが、どこか引っかかる。

 彼があの“村”について最初に興味を持ったのも、こうした断片的な伝承からだった。


 「輪の太陽、か……」


 彼は呟くと、ページを静かにめくっていった。

 そこにはさらなる災厄の記録が、待ち受けていた。


 第二章──失われた太陽を追って

 

 時は移り、十九世紀の終わり。

 蒸気の轟きと煙の匂いが大地を覆い、

 人の足は地の涯てへと届くようになった。

 

 その時代の徒然に生きたひとりの冒険者──

 名前は明かされていないが、

 彼は世の常識を超えた“失われた都”の伝承に魅せられ、旅に出た。

 

 太陽を喰らう星々。

 狂気を撒き散らす光輪。

 そして燃え尽きた神殿都市ソレリウム。

 

 彼は北アフリカの砂漠を渡り、

 東洋の山中に祀られた神像を調べ、

 ついには南方の密林で、

 “黒き円盤”を描いた石碑の断片に辿り着いたという。

 

 古代の太陽信仰に似た儀式が記録されたその遺物に、

 彼は確信を得た。

 あの伝承は虚構ではない──

 失われた都は、いまだこの地に痕跡を残しているのだと。


 


 エルドリックは、読みながらわずかに口元を綻ばせた。

 こういった話に対して懐疑的な教授も多い中で、自身は違っていた。

 “虚構の中の真実”にこそ、学者の浪漫が宿ると信じていた。


 「誰にでもあるんだ……現実よりも確かな夢ってのが」


 ぽつりと呟き、コーヒーカップを手に取る。

 苦みと熱が舌を刺し、彼の意識を現実へと引き戻す。


 だがその目は、すでに“冒険者”の辿った足跡の続きを追い始めていた。

 失われた都。焼けた太陽。輪の神。

 そして──ソレリウムの真実を。


 物語は、思いもよらぬ方向へと終息していった。


 太陽を喰らったのは、太陽や星そのものではなかった。

 ソレリウムを焼いた“邪悪”は、地上の人間が信じていた天体などではなく──

 その奥、さらに遥かなる“彼方の彼方”から、

 たまたまこの宇宙に迷い込んだ、あるいは滲み出した《意志なき悪意》であった。


 それは星でも神でもなく、

 ただ、意味もなく干渉してくる外的なもの。


 


 「太陽はただの器にすぎなかったのです。

 あれは我らの空に触れただけの“瘴痕”。

 それが黄金の輪となって世界を灼いた。

 ──これは偶然だったのです。

 必然の理が、どこにもなかったのです」


 


 冒険者はその真実に辿り着くが、

 時すでに遅く──彼の見上げた空には、

 意味をなさぬ黄金の光輪が、再び形を取り始めていた。


 世界の空が、ほんのわずかに金色を帯び始めたところで、

 筆者は筆を置く。


 


 静かにページを閉じ、

 エルドリックは椅子の背にもたれた。

 静まり返ったカフェの隅。

 他の客はすでに帰ったのか、照明もいくぶん寂しげに灯っている。


 「……滅びの美学か」


 コーヒーは冷め、苦味が強くなっていた。

 だが、それすらもどこか心地よかった。


 あくまでこれは、物語。

 創作にすぎない。


 だが、たとえそうであっても──

 “こうであってほしい”とどこかで願ってしまう自分がいた。


 それが浪漫というものだと、彼は笑った。


 紙袋を小脇に抱え、エルドリックはカフェを後にした。

 夜の街はもうすっかり冷え込み、石畳の上を靴音だけが乾いた音で響いていた。

 繁華街の灯りは遠のき、住宅街の街路樹が風に揺れている。


 彼はコートの襟を立て、ふと立ち止まる。


 夜空があった。

 深く、沈んだ藍色の天蓋に、いくつもの星がまたたいている。

 点のように、無数に──人の意志などまるで介在しない静けさで。


 「……邪悪なる太陽、ね」


 独りごちた声は吐息に紛れ、夜の中へ消えていった。


 創作だ。

 空想の産物であり、神秘の断片をこじつけた寓話であり、浪漫だ。

 彼自身、それを何より理解しているはずだった。


 ──それでも、どこか。


 「まさか、な」


 軽く笑って首を振る。

 それきり空を見上げるのをやめて、歩き出した。


 石畳の上で、彼の靴音がまたひとつ、夜へと溶けていく。


 鍵を差し込み、扉を押し開けると、ほんのりとした埃と紙の匂いが鼻をくすぐった。

 エルドリックは薄暗い廊下を通って奥の部屋へと向かう。


 壁にかけられた帽子とコートを外し、暖炉に薪を数本くべる。

 やがて火がぱちぱちと小さな音を立てて燃え始めると、部屋の空気はゆっくりと和らいでいった。


 テーブルの上には、開きかけの資料とノート。

 だが今夜はそれらを手に取る気にもなれなかった。


 読書で目も心も疲れていたのだ。

 あの「邪悪なる太陽」の幻影が、まだ瞼の裏に残っている。

 空想とはいえ、あの都の滅びと黄金色の火の描写は、彼の想像力に火をつけるには十分すぎた。


 「……明日にするか」


 つぶやきながら、彼は部屋の灯りをひとつひとつ消していく。

 寝室のベッドに腰を下ろすと、靴を脱ぎ、シャツのボタンをゆるめた。

 天井を仰ぎながら、一度、長く息を吐く。


 ──これが日々の終わり。


 どこかで夜汽車の汽笛が聞こえた気がした。

 遠く、規則的に響くその音に、彼は幼少期に過ごした田舎の夜を思い出す。


 毛布を引き寄せると、エルドリックは静かに目を閉じた。

 やがて、研究者の眠りは、外の風の音に溶けるように深まっていく。




● ● ●




 闇の中から、ひとつの光が生まれる。

 それは太陽だった。だが、何かがおかしい。


 太陽の中心は黒く、まるで喰われたかのように空虚だった。

 光はあったが、温もりはなかった。むしろ、見る者の心を焼くような黄金色の凶悪な輝きが、世界のすべてを照らしていた。


 そしてその光に照らされた大地は──肉だった。


 土ではない。岩でもない。

 鼓動し、ぬめり、裂け目から蒸気と呻き声が漏れ出す、果てしない肉の平原。

 繭のような塊がそこかしこに転がり、時に爆ぜては中から意味を持たぬ手や、顔のような何かが覗く。


 天には星の代わりに巨大な眼球が浮かび、

 風の代わりに耳語が吹きすさぶ。


 エルドリックは、そこに立っていた。


 自身の足元すら肉の塊で、踏みしめるたびにぶよぶよと脈動し、

 靴底に濡れた感触が絡みついてくる。


 遥か彼方には、巨木のようにそびえる一本の塔。

 だが、それも肉でできていた。無数の繭がその幹にまとわりつき、

 塔の頂きには──あの黒い太陽が浮かび、泣き叫ぶように黄金の雨を降らせていた。


 「──エルドリック」


 誰かが呼んだ。声は確かに人間のものだったはずなのに、

 次の瞬間には肉の裂け目が囁いたような音に変わっていた。


 振り返ると、そこにいたのは──


 目が覚めた。


 荒い息を吐き、額には冷たい汗がびっしりと浮かんでいた。

 部屋の中は静かだった。暖炉の火はまだくすぶっている。

 だが、心の奥には確かにあの夢の光が残っていた。


 あの太陽。

 あの肉の平原。


 時計を見る。

 大学へ向かうまで、まだ二時間近くある。


 「……珍しいこともある」


 彼は寝台の上でしばらく天井を見つめていた。


 昨夜の夢は、まだ記憶の奥に張りついていた。黒い芯を持つ太陽。肉の平原。遠くにそびえる塔。自分の名を呼ぶ声。


 だが、朝の光が薄くカーテンの隙間から差し込んでいるだけで、それらは途端に馬鹿げたもののように思えてくる。夜の中ではあれほど真実味を帯びていた幻も、朝になれば、作家の文章と寝不足と消化不良が生んだ小さな芝居にすぎない。


 「ラーデンドルフめ。悪夢の脚本家としては一流だな」


 そう呟いて、エルドリックは寝台から足を下ろした。


 床は少し冷たかった。

 寝室を出て、洗面所へ向かう途中、彼は何となく昨夜置いたままの『邪悪なる太陽』に目をやった。本は居間のテーブルの上で大人しく閉じられている。昨夜と同じ位置に、昨夜と同じ沈黙で。


 それを見て、彼は少しだけ笑った。


 当たり前のことが当たり前にそこにある。

 それだけで、人は存外安心できるものらしい。


 洗面所に入り、蛇口をひねる。

 古い配管が一度だけ喉を鳴らすような音を立て、それから細い水が陶器の洗面台へ落ちた。


 鏡の中には、寝起きの冴えない男がいた。


 黒髪は乱れ、目元には薄く疲れが残り、顎には無精髭が散っている。

 昨夜、神秘やら太陽やら滅びやらについて思いを巡らせていた男と同一人物には見えない。少なくとも、鏡の中の彼は、古代文明の謎より先に身だしなみの敗北をどうにかするべき顔をしていた。


 「教授職というのは、実に残酷だな。夢の中では探求者でも、朝にはただの髭面だ」


 独り言をこぼしながら、彼は石鹸を泡立て、頬と顎に塗った。

 白い泡が顔の下半分を覆うと、少しばかり別人のように見える。


 引き出しからカミソリを取り出し、刃を軽く水で濡らす。

 そして鏡を見ながら、ゆっくりと頬に当てた。


 ゾリ、ゾリ、と乾いた音が洗面所に響く。


 無精髭が削られていく。

 泡の中に黒い短い毛が混じり、刃の通った場所だけが白く平らになった。エルドリックは顎の角度を変え、口元を少し歪めながら慎重に刃を滑らせる。


 だが、考え事をしていたせいだろう。


 頬のあたりで、ちり、と小さな痛みが走った。


 「痛っ」


 彼は眉を寄せ、カミソリを離した。

 鏡の中で、右の頬に細い赤が浮かんでいる。


 そこから、一筋の血がゆっくりと垂れた。


 ほんの小さな傷だった。

 だが、その赤さは妙にはっきりとしていた。


 エルドリックはしばらくそれを見ていた。


 昨夜の夢の中では、大地は肉で、空は黄金で、血すら本来の色を失っていたような気がする。だからだろうか。鏡の中にあるその赤は、あまりにも現実的で、あまりにも自分自身のものだった。


 「……よし。まだ赤い」


 口にしてから、彼は自分で苦笑した。


 何を安心しているのだ、と。

 まったく、寝起きの人間というものは碌なことを考えない。


 洗面台の脇に置いていた布で血を拭い、もう一度慎重に髭を剃り終える。

 顔を水で洗い流すと、冷たさが皮膚に染みた。眠気の膜が、ようやく一枚剥がれた気がした。


 時計を見る。

 まだ、時間はある。


 エルドリックは少し考え、それから久しぶりに浴室へ向かった。


 普段の朝なら、湯で濡らした布で体を拭き、急いで着替え、大学へ向かうだけである。講義、資料整理、学生の質問、学内会議、原稿の催促。日々はいつも、使い古した鞄の革紐のように引き伸ばされている。


 だが今朝は違った。


 彼は浴槽の栓を確認し、湯を張り始めた。

 配管が低く唸り、やがて白い湯気が浴室に満ちていく。窓硝子が曇り、外の朝の光が柔らかく滲んだ。


 服を脱ぎ、浴槽の縁に手をかける。

 足先を湯に沈めると、思っていたより熱かった。


 「……これは、文明の勝利だな」


 小さく呟きながら、彼はゆっくりと身を沈めた。


 湯が肩まで上がる。

 全身の筋肉が、ほどけるように緩んだ。昨夜の悪夢で強張っていた背中も、硬くなっていた首筋も、熱に包まれて少しずつ人間らしい感覚を取り戻していく。


 浴室には、湯の揺れる音だけがあった。


 エルドリックは目を閉じる。


 黒い太陽も、肉の平原も、今は遠い。

 あるのは湯の温度と、石鹸の匂いと、まだ少しひりつく頬の傷だけ。


 彼はその小さな痛みに指先で触れ、もう一度だけ呟いた。


 「赤い、か」


 そして、今度はそれ以上考えないことにした。


 大学では今日も講義がある。

 学生たちは退屈そうに欠伸をし、マイケルは資料の束を抱えて慌ただしく走り回り、アニエスはまた彼の食生活について小言を言うだろう。


 世界はいつも通りに動いている。


 少なくとも、この朝だけは。

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