第十四話 逃走
つんとする消毒液のにおいが、祐一の意識を覚醒させた。
慌てて目を開くと、誰かの顔がぼんやりと見える。やがて焦点が合い始め、その顔をはっきりと認識することができた。
「……加奈……」
祐一の声を聞いた途端、加奈はうれしそうに目を輝かせた。
「よかった。祐一が目を覚まして……。丸二日眠ったままだったのよ」
「えっ」
祐一は思わず起き上がろうとした。しかし、ふいに駆け抜けた鋭い痛みに、思わず声を漏らした。
「…うっ……」
「まだ動いちゃだめよ」
加奈は祐一の肩を押さえ、急に泣きそうな顔になった。
「びっくりしたんだから……祐一がうちの病院に運ばれて来たって聞いて……。信彦が消えた時のことを思い出した。祐一までいなくなったら、わたしどうすればいいのよ……」
―……信彦……。
混乱した脳内に、信彦の姿が浮かび上がる。自分はさっきまで、信彦と一緒ではなかったか。いや、そこにいたのは信彦だけではなかった。もう一人、別の男がいた……。
「……俺は……どうしてここにいるんだ……」
「道で知らない人に刺されたのよ。この町でそんなことがあるなんて思わなかった……。通りすがりの人が救急車を呼んでくれたからよかったけど、もう少し遅れたら危なかったって……」
「知らない人に刺された……か……」
たしかに、祐一を刺したあの男は知らない人間だった。でも、向こうは祐一を知っていた。そして信彦も……。
「みな……せ……」
「どうしたの?水瀬くんがどうかした?」
信彦は、あの時男の名前を告げようとしていた。それは、『みな』で始まる名前だ。加奈が言うように、それは水瀬冬馬を連想させた。確かに、自分の知っている人間の中で、『みな』で始まるのは彼だけだった。
―あれは……なにを意味している……?あの男が水瀬冬馬だなんて……そんなことがあり得るのか……。
「水瀬くんの連絡先教えてくれれば、わたしから知らせとくけど」
「いや、あいつは……。あいつは今うちのベッドに寝てるはずだよ。風邪を引いたのか熱があって……」
「祐一の部屋には誰もいなかったわよ」
加奈は祐一の言葉を遮った。
「入院に必要なものがいろいろあったから、ご両親に許可をもらってわたしが部屋に入ったの。でも、ベッドは空っぽだった」
祐一は頭を抱えたくなった。もはや、どこまでが現実でどこまでが幻想なのかわからない。
視線をさまよわせる祐一を見て、加奈は祐一に顔を近づけた。
「あんまり思いつめない方がいいよ。人間は、怖い目にあうと混乱してしまうって、お兄ちゃんが前にそう言ってたから」
加奈の吐息が触れて、祐一は思わず体を硬直させた。加奈が隣にいることもまた、祐一の混乱を加速させる。
―……誰か俺に……筋道を立てた真実を教えてくれ……。
唇をかみしめた時、ちょうどドアをノックする音が聞こえた。加奈が祐一から体を離して立ちあがる。祐一は、加奈に気づかれないように何度も深呼吸を繰り返した。
「そろそろ、回診の時間かな……」
ドアが開く。しかし、そこにいたのは看護師でも医者でもなかった。
「なんですか!あなたたちは」
加奈がぎょっとした声を上げるのも当然だった。病室に入って来たのは、この場とはおよそ不釣り合いな制服を着た警備員たちで、その表情は皆険しかった。
「警戒病棟の入院患者が逃走しました。この病室を徹底的に調べろという命令が出ています」
「警戒病棟ってなんですか?……この病室を調べるって……まさかその患者は俺に関係のある人ってことですか」
先頭にいた警備員は、あからさまに眉をひそめた。
「それは機密事項です。では、これから調べさせて頂きます」
ロッカーが開けられ、カーテンの裏側、ベッドの下……。人が隠れることができそうな場所が徹底的に調べられている。がたがたという物音が室内に飛び交って、それは祐一の弱っている心をさらにかき乱した。
―これは現実なのか……それとも幻想?わからないよ。すべてが混沌だ。混沌すぎる……。もう、何も見たくない……聞きたくない……。
「あなたたち。患者さんの前でなにやってるんですか。これ以上続けることはわたしが許しません。どうしてもとおっしゃるなら、警察を呼びますよ」
突然頭の上で、加奈の凛とした声が響いた。
加奈の迫力に押されたのか、警備員たちは互いに顔を見合わせた。
「でもこれは院長の命令で……」
「わたしは、その院長の娘です。院長に、わたしが拒否したと伝えてください。お咎めがあるのなら、全部わたしが受けます」
警備員が去って行くと、加奈はふうっとため息をついて椅子に座り込んだ。
「ごめんね。うちの病院、どうかしてる……昔はこんなんじゃなかったんだけど……」
祐一は軽く目を見張った。加奈は明るいけれど、大人と口論するような強さはなかった。ましてや父や兄に対しては、少し過剰なほど従順だったと思う。なのに彼女はいつの間にかこれほど強くなっている。
―そういえば信彦も戦ってたな……。
祐一は、螺旋階段の世界にいた信彦を思い出した。臆病でなにかというと祐一に頼っていた信彦が、ナイフを握って男を追っていた。
―俺だけ、こんなところで頭を抱えているわけにはいかないな……。
祐一は静かに息を吐いた。今まで起ったいろいろな事の中に、きっと真実の欠片が散らばっている。それを拾い集め、ジクソーパズルのようにつなげていかなければならない。
「祐一。少し眠ったほうがいいわ。わたし、今日は午後から授業があるから、もう行かなくちゃ。ああ、またあんなことがないように、ナースステーションの婦長さんに声掛けとくからね」
「……加奈。また来てくれる?」
その言葉は、ほとんど無意識に飛びだした。祐一はあわてたが、出て行った言葉を引き戻すわけにもいかなかった。
「もちろんよ。毎日来る。じゃあ、お大事にね」
ふいに胸の中に広がった甘苦しい感情を、祐一は無理矢理追い払った。そして、自分の周りで起こった不思議な事象を、記憶の中から掘り起こし始めた。
◇◇
学校での仕事を終え、水瀬和明は歩いて帰途についていた。
いつもなら迎えの車を呼ぶのだが、今日はそんな気分ではない。できるなら家に帰りたくない、というのが本音だった。
―わたしは、なんということをしてしまったのだ……。
もうずっと、あの夜の事が頭を離れない。
実の息子が帰ってくることに浮かれ、自分は冬馬の気持ちを傷つけた。繊細な冬馬がどんな行動に出るのか、落ち着いて考えれば予測できたことだ。
冬馬と入れ違いでやって来た息子の洋司は、まるで有能な銀行員のようだった。戸籍の写しを見せて、自分が血のつながりのある息子であることを証明し、この家に住む権利と、遺産相続権を主張した。
『金が手に入ればそれでいい』
まるでそう言っているようだった。
子どもの頃の洋司は、決してこんな子供ではなかった。もっと明るくて、素直で……いや、本当にそうだっただろうか……。洋司のことを思いだそうとしても、記憶はあまりにもあいまいだった。そのことに気づいて、水瀬は愕然とした。
若い頃の水瀬は、確かにピアノさえ弾ければそれでよかった。周りのことはすべて、薄ぼんやりとした背景のように見えていた。もしかしたら息子も妻も、その背景の一部だったのかもしれない。
そんな歳月を歩いてきて、もう老齢に差し掛かってきた頃、ふと気がつくと水瀬の周りには誰もいなくなっていた。募る孤独の中で、水瀬はいつのまにか妻や息子の記憶を美化していた。優しい妻、可愛い息子……。でもそんなものは水瀬の頭の中にしかなかった。実在する息子は、水瀬に対して愛情の欠片も持ち合わせず、ただ息子として当然の権利だけを要求した。そしてそれは、水瀬の冷たい仕打ちに対する当然の結果だったのだ。
水瀬はいま、猛烈に冬馬の笑顔を見たいと思った。
初めて会った時、冬馬は公園の隅で震えていた。
『助けてください……行くところがなくて……』
あの時自分は、これは運命だと感じた。孤独な男を神が憐れんで、一粒の光を下さったのだと思った。なのに……。
―わたしは愚かだ……。あの光を手放すなんて……。
いつの間にか、辺りの風景は学生街からオフィスビル群に変わっていた。水瀬は、少し疲れを感じ始めていた。そろそろあきらめてタクシーを拾うべきなのかもしれない。
しかし、突然誰かが水瀬の袖を引いた。伸びてきた腕はちょうど、ビルとビルの間にあるわずかな隙間から伸びていた。
「うわっ」
だが通路に転んだ瞬間、水瀬のすぐ後ろを車がものすごいスピードで駆け抜けた。それに続いて、激しい激突音がビルの壁を震わせた。
―……いったい……これは……。
「さあ、おじさま」
衝撃も冷めぬうちに、水瀬の頭上で声が聞こえた。ぎょっとして上を見ると、そこには短い髪を赤く染めた若い女がいた。
「一緒に逃げましょう。じゃないとおじさまは殺されちゃうわ」
「……殺されるって……誰に………」
「決まってるじゃない。あなたの息子、片山洋司」
「洋司が……?馬鹿な……」
「そんなこと言って、ほんとは『ああ、やっぱり』って思ってるんでしょ」
女はひどいことを言いながら、そばに落ちていた水瀬の鞄を勝手に拾い上げた。そしてそれを当然のように開くと、内ポケットに付いていた丸い金属をむしり取った。
「発信器まで付けられちゃって。気づかなかったの?」
「……発信器……」
「早く行きましょう。あの人執念深いから、簡単にはあきらめないわよ」
体中から、すべての力が抜けて行く気がした。水瀬は冷たい通路に座りこんだまま、力なく首を振った。
「もう、いいんだ……。あれがわたしを殺したいというのなら、それでも構わない。わたしの財産を受け継いで、好きにすればいいさ……」
「そう。まあ、いいけど」
女は投げやりな返事をして、いきなり水瀬の前にしゃがみこんだ。女の視線が、水瀬の視線と同じ高さに変わった。
「でも、水瀬冬馬はどうなるの?」
まっすぐに飛びこんできた女の言葉が、水瀬の頬を打ったような気がした。
「……冬馬……」
「あなたが一度拾って、捨ててしまった水瀬冬馬」
「捨てるつもりなんてなかったんだ。今だって、ずっとあの子のことばかり……」
「だったら、もう一度拾ってあげてよ。あの子には、あなたが必要よ」
「……本当に……?」
「ええ。もちろん」
水瀬の脳裏に、公園で震えている冬馬の姿がよみがえった。今もどこかで冬馬が震えているのだとしたら、手を差し伸べるのは自分の役目だ。
水瀬は立ち上がった。それを見て女も立った。
「わたしはマリカ。よろしくね、水瀬和明さん」
正体の知れない不思議な女だ。水瀬のことを知りすぎている。でも今は、彼女を信じるしかないのだ。
マリカは水瀬の手を握り、足早に歩き始めた。水瀬も必死になってその後についていった。
◇◇
玄関の扉を開けると、家の中はいつもの通り静まり返っていた。加奈は小さくため息をついて靴を脱いだ。
もうそろそろ、静かな家にも慣れていいはずだ。自分はこの家で一人暮らしをしている。そう思えばいい。
それでも広いリビングやキッチンは寂しさが募った。加奈はそのまま二階に上がり、自分の部屋のドアを開けた。
部屋の電気をつけた瞬間、加奈は微かな違和感を感じた。
ベッドに掛けたカバー、クッションの位置……朝出かけた時に比べて、ほんの少しだけずれている……。
そのまま視線を下に落として、加奈は息を呑んだ。
ベッドの脇に男が横になっている。その男の顔を、加奈はよく知っていた。
「……信彦……?」
加奈の呼びかけに、男は薄く目を開いた。そしてその唇からかすれた声が漏れた。
「……加奈……ちゃん……」
その言葉に加奈は青ざめた。信彦は、『加奈ちゃん』なんて呼び方はしない。子どもの頃からずっと、『加奈』と呼び捨てだ。
―信彦じゃない……。
加奈の中に、怒りの感情が沸き起こった。身を震わせながら加奈は叫んだ。
「水瀬冬馬くんね。どうしてこの部屋にあなたがいるの?鍵は閉まってたはずよ」
冬馬は黙ったまま、上目遣いで加奈を見た。その表情も信彦を思い出させ、加奈の怒りはさらに募った。
「なに?自分とよく似た男に焦がれてる女の子なら、間単に落とせるとでも思ったの?冗談じゃないわ。わたしは、顔で信彦を好きになったわけじゃない。信彦の存在が、丸ごと全部好きなのよ。あなたには、一ミリだって心を動かされたりしないから」
「……わかってるよ……」
信彦は加奈から目をそらし、つぶやくように言った。
「……わかってる。僕は……偽者で、代用品だ……」
「なに…言ってるの?」
そのとき加奈は、冬馬の様子がおかしいことに気づいた。顔が赤らみ呼吸が荒い。そしてその額には汗が浮いていた。
「あなた、具合が悪いのね。ちょっと待って。誰か呼んでくる」
「行かないで」
きびすを返した加奈の背中を、冬馬の声が追ってきた。
「……追われてるんだ。……もう二度と……つかまりたくない……」
「追われてるって……あっ」
加奈は、昼間祐一の病室に来た警備員たちのことを思い出した。彼らの中の一人が確か『警戒病棟の入院患者が逃走した』と言っていた。
「警戒病棟から逃走した入院患者ってあなたのことなの?だったら余計、ここに置いておくなんてできない」
「……どうして?」
「どうしてって……」
「君は……あの病棟に…行ったこと…ある?」
「ないけど、でも……」
「一度…行って…みればいい。あそこは……人間の…いるところじゃない」
めったに顔を合わせなくなった父。やせていく兄。警備員の行き過ぎた振る舞い……。この病院で何かが起ころうとしているのではないか……。疑惑の影が濃くなった気がして、加奈はあわてた。
「……とにかく……ここはわたしの部屋なの。出て行ってもらわなきゃ困るのよ」
病院の誰かを呼んで、この男を連れ出してもらおう。きっと、その方がいい。
「どうしても……?」
「そうよ」
「……信彦が…いまどこにいるのか……教えるって、そう言っても?」
「えっ?」
加奈は思わず冬馬と視線を合わせた。冬馬の充血した両目は、すがるように加奈を見ていた。
「信彦の…居場所は……僕…だけが知ってる……」
「……そんな……」
「……僕を…助けてよ……そしたら……教えてあげる」
「嘘言わないで」
「……信じる…信じないは……君が…決めればいい。でも…知らないよ…信彦がどうなっても……。ああ、あと一つ……。これは誰にも秘密…だから……。祐一にも……言わないで……」
冬馬の目がゆっくりと閉じられていく。部屋には、冬馬の荒い呼吸だけが響いていた。
―わたしは……どうしたらいいの……。
立ちすくんでいた加奈の耳に、階下で玄関の開く音が聞こえた。加奈は急いで部屋から飛び出した。
階段の上からのぞいてみると、リビングに義弘が入ってくるのが見えた。いつもなら視線に敏感な義弘だが、今は加奈に気づく様子もない。その背中はいつもより無防備で、頼りなく見えた。
―冬馬のことを知らせるべきなんだろうか……。
でも、彼の言葉はまだ耳の奥で鳴っている。
『…知らないよ…信彦がどうなっても……』
自分が話すことで、信彦に繋がる道を閉ざしてしまうことが怖かった。冬馬をこのままにしておくのは危険なことだ。それはわかる。でも、信彦に会えなくなることの方がずっと怖い。
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
階段を降りながら加奈が声を掛けると、義弘は俯いていた顔を上げた。その頬は、また少しこけたように見えた。
「加奈……。なにか変わったことはないか?その……誰かがここに来たとか」
目の前に立った加奈に、義弘ははっきりしない質問を投げかけた。加奈は覚悟を決めた。
「誰も来ないわよ」
「そうか……わかった……。加奈……俺は……」
義弘は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
「どうしたの、お兄ちゃん」
しかし義弘は、ため息をついて無理矢理笑顔を作った。
「戸締りはちゃんとしておけよ。最近は物騒だからな」
「はい」
病院に帰って行く兄を見送ると、加奈はその場に座り込んだ。今頃になって足ががくがくと震え始めていた。




