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第十三話  裏切り

「なにも変わっていないんだな……」

 片山洋司は、一人つぶやいて深いため息をついた。

 久しぶりに入ったその部屋は、二十五年という長過ぎる時の流れを感じさせなかった。

 敷物、家具、壁の絵……。なにもかも当時と同じだ。定期的に掃除させていたのだろう。埃すら積もってはいなかった。

―そのままにしておいて、何の意味があるんだ?大事にする思い出なんて、なに一つなかっただろうに。

 あの頃、父、水瀬和明は、ピアノだけに情熱を注いでいた。家族が自分をサポートするのは当然だが、自分が家族のために裂く時間など一秒もないようだった。

 そんな父に見切りをつけて、母は息子を連れてアメリカに渡った。しかしその後の生活は悲惨なものだった。母は再婚した男と別れてから酒におぼれ、洋司は貧しいアメリカ人の家に預けられてひどい扱いを受けた。洋司の人生が狂ったのは、すべてピアニスト水瀬和明のせいだ。

「わたしは、あなたを破滅させるために戻ってきたんですよ、おとうさん」

 洋司は、ここにいない父親に向かって話しかけた。

 父親の方は、部屋と違ってあまりにも変わっていた。あの頃のぎらぎらした光は消えうせ、ただ寂しい目をしている一人の老人になっていた。でも、そんなことであの人の罪は消えない。

「財産のすべては、僕が使って上げます。そうそう、あなたが大事にしていたあの子には、悲惨な末路を用意していますよ。あの子を捨てたこと、じっくりと後悔してください。ああ、ついでに、妻と実の息子を邪険に扱った過去も悔いてもらうとうれしいですね」

 洋司は肩をすくめ、ゆっくりとソファに腰を下ろした。そして優雅に足を組み、ポケットから黒いスマートフォンを取り出す。指先で履歴を探し通話ボタンを押すと、相手は一秒と置かず電話に出た。

「玲也。相変わらず早いな」

 どこかでこちらを盗み見でもしているのではないか、と疑いたくもなる。何年も使っている男だが、頭の中はまるで読めない。いつも笑っている顔もまた癪に障った。だが、彼ほど優秀な男もほかにはいない。理解力、機転、度胸。すべてが並はずれていた。

―危険な男を使いこなせてこそ、目標に近づくというものだろうな。

「まあ、いい。用件は、君が現在組んでいるマリカのことだ。少し不審な動きがあったので調べてみたのだが、彼女は敵方に内通している疑いがある。彼女の行動には細心の注意を払ってくれ。……そうだな。それは君の判断に任せるよ。……ああ。例の件は、以前打ち合わせをした通りにな。以上だ」

 電話を切ると、洋司はそのまま天井を仰いだ。この部屋も、屋敷も、すべて打ち壊して、さらに高みへと上る日が来るだろう。洋司はその日のことに思いを馳せて、暗い笑みを浮かべていた。



◇◇

 着地した瞬間、祐一の横を風が通り過ぎた。誰かがすさまじい勢いで走って行ったのだ。祐一は慌ててその姿を目で追った。

 光っては消える階段の上に、逃げる男と追う男がいる。逃げているのは知らない男だが、追いかけている方を見て祐一は愕然とした。それは、祐一が今日こそは助け出そうと決意していた、信彦本人だった。

「信彦……なんで……」

 信彦はちらりと祐一を見た。しかしその目の奥には、今まで祐一が見たこともない凶暴な光が宿っていた。

「祐ちゃん、邪魔しないで。僕は今この男を殺すから」

「なっ…」

 『殺す』という言葉が、信彦の口から洩れるとは思わなかった。祐一は自分の耳が信じられず、その場に立ちつくした。

 やがて階段を飛ぶように走る信彦は、あっという間に前の男を追い詰めた。そして、足を踏み外して仰向けに転がった男に向けて、まっすぐにナイフを突き出した。

「うっ」

 男が体をかばった腕にナイフが食い込む。流れ出た血が、男の腕と信彦の手をを赤く染めた。

「信彦、もう、やめろ」

 まるで、信彦が信彦ではなくなっているようだった。信彦は子どもの頃から気が弱くて、誰かが血を流すのさえ見てはいられなかった。なのに……。

「信彦、お前はどうかしてる」

「どうかしてるのは祐ちゃんの方だよ」

 信彦の声が、白い階段に響いた。

「僕の偽物に騙されて、すっかりご機嫌なんだからね」

「偽物……?」

「ここにいるのがあいつの本性だよ。祐ちゃんが友達だって信じてる、み……」

「うわあ!!」

 その時、倒れていた男のこぶしが信彦のあごに入った。信彦はのけぞったまま階段を滑っていく。もしもまた、階段の下に広がる暗闇に吸い込まれそてしまったら、もう信彦を探すことができなくなる。祐一は必死で手を伸ばし、ギリギリのところで信彦の腕をつかんだ。

「信彦……がんばれ……」

 片手で体を支え、もう片方の手で力いっぱい信彦を引き寄せる。

信彦はよろめいてそのまま倒れ込んだ。

「……祐ちゃん……痛いよ、手……」

 耳元で、今にも泣きそうな声が聞こえた。

「……ごめん……」

 祐一は信彦の顔を覗き込んだ。その泣きそうな目は、祐一の知っている信彦だった。

「……よかった……」

「祐ちゃん!!」

 突然信彦が叫んだ。信彦の視線を追って、祐一は目を見張る。信彦が持っていたナイフを、今度はさっきまで逃げていた男が握っていた。信彦が殴られた時に、落としてしまったのだろう。

男はナイフを構え、それを信彦に向けていた。祐一はその顔を見つめた。祐一が正面から男を見るのは、これが初めてだった。男は象牙のような白い肌をしていて、彫刻刀で彫ったような一重の目がくっきりと際立っていた。普通の表情をしていたら、清楚な顔立ちと言っていいのかもしれない。でも今は、彼の内側からほとばしり出る激しい感情が、彼の顔に凄味を加えていた。

「消されたくなかったら、これ以上しゃべるな」

「いやだよ」

 信彦の体は震えていた。でもその声に迷いはなかった。

「最初から、君と刺し違えてもいいと思ってたんだ」

「馬鹿な……」

「君の名前は、みな……」

「やめろ!!」

 男の腕が、振りかぶってナイフを投げつけた。考えている暇はなかった。気がついた時、祐一は信彦の前に体を投げ出していた。

「祐ちゃん!!」

「祐一!!」

 二つの声が錯綜する。信彦と、それからもう一人……。

―……あの男も……俺の名前…を…知って…いる……?

 気を失う寸前、ベルトに下げた時計が明滅したような気がした。でもその光は、すぐに祐一の視界から消えてしまった。



◇◇

「おかえり」

 マリカが部屋に戻ってくると、穏やかな声がマリカを出迎えた。マリカはほっと息をついて片手を上げる。その腕から白蛇がするすると抜け出してきて、宙に浮いていた祐一を引きずり下ろした。

「結構危なかったわよ」

「お前さんがいるから、わしは安心しておったよ」

「ずいぶんお気楽なこと言うのね、トキさんは。でもわたし、鍵を回収し損ねちゃった。まだあの子が持ってるわ」

「あの子はいま衰弱しておる。無茶をする力はあるまいよ。どれ、その坊やの様子を見ようか」

 トキに言われて、マリカは祐一の服をめくった。ナイフに刺された場所は、まだ出血が止まっていなかった。

「わしの手には余るね。救急車を呼ばねばなるまい」

 マリカは祐一の顔を覗き込んだ。その頬からは血の気が失せているのに、呼吸だけはひどく荒い。

「もしかして……危ない?」

 トキは鋭い目でマリカを見た。

「心配なのか」

「……そうかも」

説教の一つでも食らうかと思っていたが、トキはその顔に微かな笑みを浮かべた。

「この坊やはいい子だよ。だから手を出すな。お前さんにはもったいない」

「ずいぶんなこと言うじゃない。まあ、いいわ。わたしが聞きたいのはそんなことじゃない。彼が助かるのか助からないのか、それだけよ」

「現代の医学はいびつな進歩を遂げておる。その中で、医学本来の使命である『人を救う』ということは置き去りにされがちじゃ。助かるかどうかは五分五分といった所じゃろうな。それでも医者の力を借りねばこの坊やは確実に死ぬ。だから一刻も早く救急車を呼ぶべきじゃ。それから、危ういと言えば今ベッドに寝ているあの坊やもな」

「あの子も……」

「中の精神が、そろってひどいダメージを受けておる。そんな時はわずかな不調も命取りになるものじゃ。一刻も早く熱を下げねばな」

「じゃあ二人とも病院に?」

「そうなるな。じゃが、くれぐれもいびつな医学に励む病院には入れるでないぞ」

「もちろんよ」

「頼んだよ」、

 トキは小さくうなずいて、煙のように消えた。

「後の仕事は全部丸投げてってわけか。ずいぶんね」

 それでもマリカは、この老婆にすべてを掛けている。自分の犯して来た罪を償うには、もうそれしかなかった。


 救急車は五分足らずで到着した。

 隊員たちは、てきぱきとした動きで二人を運び出す。

 マリカもそれに続いて、救急車に乗るつもりだった。しかしそれは、運転手の一言で遮られた。

「君は乗らなくていいよ、マリカ」

 顔を上げたマリカは、バックミラー越しに彼と目が合った。とても優しげな目が、笑みの形に歪んでいた。

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