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第十二話  秒針で船を漕ぐ

 フローリングに座り込んだ冬馬は、両手を床について荒い呼吸に肩を揺らしていた。

 祐一は不安を駆り立てられた。

「とにかく、濡れた服を脱いだほうがいい。一人じゃ無理だろ。俺が手伝うから」

「……ありがとう」

 冬馬は消耗している。できるだけ早く乾いた服に着替えるべきだ。

 祐一はまず、冬馬の着ていた黒いシャツの前ボタンを全部はずした。そして、肌に張り付いた袖をゆっくりはがしていく。

「少し肘を曲げられるかな?…そうそう……よし、抜けた」

 右袖が終わって、左袖に手を掛ける。こっちはすでにもう片方の袖が脱げているので簡単だろう。しかし祐一は思わずその手を止めた。冬馬の左肩に白い傷跡がある。それと同じ場所にある同じ大きさの傷を、祐一は知っていた。

―これは……信彦の……。

 子どもの頃、信彦は小学校の運動場でけがをした。遊んでいた遊具が折れて肩に刺さったのだ。傷が治っても、痕はずっと残っていた。体育のために着替える時や、プールで泳ぐ時、その傷は自然と目に入った。それは、もはや信彦の一部になっていた。

「……祐一、どうした?」

 気がつくと、冬馬が振り向いて祐一を見ていた。祐一ははっとして、思わず持っていたシャツを取り落とした。

「……あっ……」

 その瞬間、冬馬の視線が刺すように鋭くなった。祐一は射抜かれたように動けなくなった。

「肩の傷痕、見たんだね。……びっくりした?」

「…………」

「本当は見られたくなかったよ」

「……じゃあ、君は……」

 続く言葉が、ためらいで堰きとめられる。

 『信彦なのか?』

 冬馬はずっと祐一を見つめている。言えなかったその言葉が、祐一の中で渦を巻いた。

「僕は殺されそうになったんだ。実の母親にね」

 告白は突然だった。祐一は息を飲んだ。

「えっ……」

「五歳の時、母親は僕を後ろから刺した。無理心中だよ。死んだのは彼女だけで、僕は一命を取り留めた。……ああ、水瀬さんは養父だから。僕の母親は、彼とは無関係の人だ」

 祐一の体中から、力が抜けて行く気がした。今、自分の頭の中を占めていた考えのなんと馬鹿げていることだろう。

―冬馬が、本当は信彦だなんて、あるはずがないじゃないか。

 ただ、同じ場所に同じような傷があっただけだ。それだけで二人が同じ人間だと決めつけることなどできるはずもない。

冬馬は、彼自身の痛みを抱えて今日まで歩いてきたということだ。なのに自分はまだ、冬馬自身を受け入れていなかった。

―『信彦の身代りじゃない。冬馬は冬馬だ』そう言ったのは俺自身だったのに……。

「祐一」

 気がつくと、冬馬が祐一の顔を覗き込んでいる。さっきの鋭い視線はすっかり影をひそめ、びっくりするほど穏やかな表情をしていた。

「祐一の服、借りてもいいかな。さすがにこのままじゃ、具合が悪い」

「……ああ、もちろん。でもその前に、体を拭かないと」

 祐一は急いでタオルを取ってくると、それを冬馬の肩に掛けた。真っ白なタオルで、冬馬の傷口は見えなくなった。

「それから、うちにある風邪薬を飲んでおくといい。結構効くんだ」

「風邪薬……?」

「そう。熱が下がって、よく眠れると思う」

 祐一は戸棚から薬瓶を取ってきて冬馬の前に置いた。冬馬はそれを指でつまみ、目の前にかざす。瓶の中に詰まったオレンジ色の錠剤が、蛍光灯の灯りを受けて少しだけ光って見えた。



◇◇

 ドアをノックする音が聞こえたのは、もう夜中と言える時間帯だった。祐一は漠然とした不安を感じながら、チェーンを掛けたままドアを開ける。その細い隙間から、妖艶な花の香りが流れ込んできて、祐一は小さく息を飲んだ。

「あ……」

「わたしよ。中に入れてくれない?」

 脳内が痺れて行くようだった。この声を知っている。

―マリカ……。

すべて夢だったのではないのか。なのに彼女は、その夢から現実に飛び出して来た……。

「早くしてよ。若い女の子を、長い間外で待たせるつもり?」

 祐一は、震える手でチェーンを外した。大きく開いたドアの向こうに、清楚な白いワンピースを着た黒髪の女がいた。

「……もしかして……マリカ……?」

「そうよ。髪色や服装を変えただけで分からなくなったの?ずいぶんひどいわね、祐一」

「……夢…じゃなかった……ってことなのか……」

 祐一のつぶやきに、マリカは細い眉をあげた。

「すべて『夢』で片付けようと思ったの?ずいぶんとご都合主義ね。わたしはあなたに教室で話しかけた。公園でいっしょにブランコにも乗ったわよね?信彦くんに会ったことはどう?彼と会話して、途中まで一緒に逃げたでしょ。その時の感覚、リアルじゃなかった?」

「それは……」

「全部なかったことになんてさせないから」

 マリカはすごむようにそう言って、突然靴を脱ぎ始めた。祐一は慌てた。

「ちょっと待って。友達が来てるんだ。今やっと眠ったところで、起こしたくない」

「あら、浮気?悪い子ね」

「なに言ってるんだ。俺とあんたはそんな関係じゃないだろ。だいたい友達は男だし」

「心配しなくてもすぐに帰るわよ。ただ、家の中を覗いてみたいだけ。単なる好奇心よ。ああ、それから、君がなくした鍵の代わりも準備してるの。それ、欲しいでしょ?」

「鍵……」

 祐一の掌に、鍵の感触が蘇った。重くて掌に沈み込むような、銀色の鍵……。その感覚は、あまりにもはっきりとこの手に残っていた。

―あれは本当にあったことなんだ……だとしたら……俺はあの時どこへ………。

「お邪魔します」

 マリカは玄関を上がり、祐一の横をすり抜けて行く。しかし祐一は、もうマリカを止めることができなかった。



 中に入ると、マリカは迷うこともなくベッドの方向に向かった。そしてベッドサイドで両膝をつき、そこで眠っている冬馬の顔を覗き込んだ。

「なにしてるんだ」

「本当に男かどうか、確認しようと思って」

「馬鹿なことを……」

「確かに男ね。安心した。……でも彼、熱があるみたいじゃない?」

「さっき風邪薬を飲ませた。直に薬が効いてくるだろ」

「風邪薬?……ああ、これね」

 マリカは、すぐ横のテーブルに置いていた薬瓶を手に取った。

「なるほど。……それなりに効きそうだけど……」

 マリカの言い方はどこか意味深だった。

「何か言いたいことでもあるのか」

「市販の総合感冒薬は、いろんな成分が調合されてるから、一つの症状に対する効き目は弱いのよね。でも弱ってる彼には、そのくらいがちょうどいいかしらね」

 マリカは薬瓶を床に置き、そのまま冬馬の手に触れた。一瞬冬馬の体がびくりと揺れたようだった。

「頼むから彼は眠らせてやってくれないか。風邪には睡眠が一番っていうだろ」

 祐一はやや強い口調になった。

「そうね。ごめんなさい」

 マリカは素直に冬馬から離れ、近くにあったソファに腰を下ろした。マリカが近づいてきたことで、また思い出したように強い花の香りがした。

「これ、あなたに貸してあげる。今度はなくさないで。わたしの私物だから」

 マリカがポーチから取りだしたのは、鎖の付いた懐中時計だった。少しくすんだ銀色のそれは、ずいぶん年代物のように見えた。

「これを使えば……俺はまた信彦の所に行けるのか」

「そうよ。この秒針がぶらんこの代わりをしてくれる。鍵の役目をするのはこの鎖よ。あの鍵と同じ、特殊な金属でできているの」

 祐一は目の前の時計に目を向けた。小さな秒針は、カチカチとはっきりとした音をたてて時を刻んでいる。鼓膜から入った音が、脳の奥底に染み込んで行くようだった。

「……俺は、相変わらずあんたに質問できないのか」

「そうよ。でも一つだけ教えてあげる」

 マリカは微笑みを浮かべたまま祐一に顔を近づけた。

「これは夢なんかじゃない。明らかな現実。だから、本気でやりなさい。じゃないと、誰ひとり大事な人を守れない」

 信彦のいる空間にいた時のことを、祐一はまざまざと思い出していた。あれが夢でないなら、信彦は今もまだ、あの歪んだ空間に閉じ込められているということだ。

「……早く、助けに行かないと……」

「そうよ。今すぐにね。じゃないと手遅れになるかもしれないし」

 マリカの言葉が、さらに祐一を焦らせた。

「この時計は、どうやって使えばいいんだ」

「落ち着いて」

 マリカは時計を手に取り、それを祐一のベルトにつけた。

「これでもう、落としたりしないわね。後はね、この音を聞きながら、横になって目を閉じるの。さあ、どうぞ」

 マリカはソファから立って、祐一の背を押した。祐一はさっきまでマリカが座っていたソファに横になる。彼女のぬくもりと花の香りが、体中を包み込んでいくようだった。

「さあ、音を聞いて。規則正しい秒針の音は、空間と時を渡る船の櫂よ。あなたはその櫂を漕ぐの。ためらわないで……わたしを信じなさい……」

 いつの間にか、頭の奥で水音が聞こえていた。ゆったりと流れる大きな川。それを横切るように、祐一は持っている櫂で船を操る。いつの間にか、音に合わせて櫂を動かしているのか、自分が時を刻んでいるのかわからなくなってくる。気が遠くなりそうな混沌だ……。

「さあ、飛んで」

 遠くから声が聞こえた。祐一は目を閉じて、そのまま空間に身を投げ出した。



◇◇

 ふと気がつくと、冬馬は階段の上にいた。

 思わずその場に座り込んで息を整える。さっき祐一と交わした会話の緊迫感が、まだ続いているようだった。

 あの時祐一の顔色が変わって、冬馬は肩の傷を見られたことに気づいた。冬馬と同じ場所に傷があることで、祐一は疑いを持つに違いない。

 冬馬は、とっさに考えた嘘をまことしやかに話した。でも、すべてが嘘だというわけではない。母親に刺されたことも、母親だけが死んだことも本当だ。ただその傷はもっと深く、大きかった。命も危うくなるくらいに。

 水瀬に捨てられて、その上祐一まで敵に回すところだった。そんなことになったら、自分はもう、生きて行けない……。

 ようやく立ちあがった冬馬は、途端に微かなふらつきを感じて頭を押さえた。

―あの薬のせいか……。

 そう言えば、眠りに入る時の感覚も最低だった。いつもならふわふわと降りてくるのに、今日は泥沼に沈みこんで行く感じがした。抗いようのない強い力に、無理矢理引きずられているようだった。

「遅かったね」

 その時、突然後ろから声が聞こえた。

 冬馬はぎょっとして後ろを振り返った。

「信彦……どうして」

「どうして?そんなの聞かないでよ。決まってるじゃない。僕は君を追い出したい。僕と勝負しようよ」

 少し前まで、信彦は怯えて逃げるばかりだった。なのに今日の信彦は人が変わったかのようだ。彼の醸し出す迫力に、冬馬はわずかにひるんだ。

「……君が僕に勝てるとでも?」

「そんなの、やってみなきゃ分からないでしょ」

 信彦は小首を傾げ、背中に回していた手を前に出した。そこに刃先の鋭いサバイバルナイフが握られているのを見て、冬馬は目を見開いた。

「どこでそれを……」

「さあね、そんなのどうでもいいんじゃない?ねえ、僕に刺されてよ」

 冬馬は焦りを感じた。力と素早さなら、信彦に勝つ自信はあった。でもそれだけであの刃先の鋭いナイフに太刀打ちできるものではない。

―なにか……武器が……。

 その時、冬馬は右手に何かを握りこんでいるのに気づいた。開いてみると、それは一本のボールペンだった。

―そう言えば、眠る時ベッドに落ちていて……。

 それをつかんだ記憶はない。でも、無意識のうちに握っていたのかもしれない……。

 これを武器にできる。冬馬は右手に念を込めた。

「冬馬、何やってるの?そんなことしても無駄だよ」

 信彦の声に、冬馬はあわてて手を開いた。そこにあるものは、ボールペンのままだった。

「ばかな……」

「今、君は弱ってる。そんなこともできないくらいにね」

 信彦が体の正面にナイフを構えた。冬馬はなす術もないまま、じりじりと後ろに下がっていった。

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