エピローグ
バスを降りた。
水曜日の、いつもの時間だ。
今日も彼が乗ったバイクは走り抜けていくのだろうか。
それを待ちながら、ゆっくり、ゆっくり、いつものように堤防沿いの路側帯を歩く。耳をすまして聞こえるのは風の音と、走る車のエンジン音だ。
そして横をすり抜けて行くその大きな音に紛れて、遠くに響くバイクのエンジン音が聞こえてきた。いつもの彼の乗るバイクのエンジン音だ。少しずつ音は大きくなり、近づいてくるのを感じる。
沙羅の口元が柔らかく弧を描く。
そしていつものように脇を通り抜けるバイクを避けるような素振りで振り返った。
見慣れた二人乗りのバイクが沙羅の視界の端に映る。
彼らはいつものように笑い声と会話に声を張り上げながら、沙羅を追い抜いていこうとしていた。
沙羅もいつものように少しだけゆるんだ口元で、まぶしそうに彼らが通り過ぎるのを見つめた。
先日彼と言葉を交わし行動したひとときが胸を過ぎる。
一度だけの偶然のひととき。もう二度と関わることはないかもしれない。でも、またねとこっそりと囁いた言葉は嘘じゃない。彼は気付かなくても、沙羅はここにいて、章はそこにいるのだ。例えそれが沙羅にとってだけの物で、一瞬の邂逅であろうと。
そして沙羅はいつものように駆け抜けていく彼らを見送るのだ。
「アキラ」
すれ違い際、彼の名前を呼んでみた。聞こえることのないような小さな声で。そうして、ささやかな再会を楽しむ。
その一瞬、バイクの後ろに乗っている彼がふと笑いながら顔を動かしたように見えた。それは、また言葉を交わす日が来ればいいと願う沙羅の気持ちがそう見せたのか。
ゴーグルの奥の瞳は、やっぱり沙羅には見えない。
沙羅を追い越して行くのはいつものように一瞬の出来事だ。それを笑顔と共に見送る。
またね、と、小さく呟いて。
その時、見送る沙羅の目に、いつもとは違う光景が映った。
まるで「またね」と呟いた声が聞こえたかのように、後ろに座っている彼が、沙羅を追いかけるように振り返っていた。
動揺する沙羅の目の前でバイクの上の二人がなにか言い争っている。
何を言っているのかまでは聞き取れないが、彼が叫びながら運転している友人を叩いていた。
沙羅の見つめる先でバイクは突然に止まった。
百メートルほど向こうで、止まったバイクから彼が降りるのが見える。
ゴーグルを乱暴にずらし上げるのを見つめながら、沙羅はいつものように惰性でゆっくりと歩き続けていた。まるで彼に向かっているかのように。
彼がヘルメットを外した。
きらきらと輝いて見える彼の金髪と、彼を追うような風と。
憧憬を乗せて駆け抜けていくはずの彼らの姿が、いつまで経っても沙羅を置いていくことなく、そこにいる。
この海岸線では決して向けられることはないと思っていた憧れ続けていた笑顔が、沙羅に向けてきらきらと輝いた。
「サラ!」
章が名前を呼んで手をふっている。
沙羅の中に込み上げるのは、輝きながら吹き抜けていく風をこの手に掴んだかのような喜びだった。
沙羅はこぼれるような笑みを浮かべると、彼に向けて一歩を踏み出した。