精神状態スコア
佐藤の声が変わったのは、いつからだろう。
凛は、部室の隅でノートパソコンを開きながら、ここ数日録り溜めた音声データを聴き返していた。佐藤の声は、依然として大きく、よく通る。だが、その響きの奥に、微かな硬さが混じるようになっていた。人前で台詞を読むときの声ではなく、誰かに聞かれることを恐れているときの、あの緊張の質だ。
「……何か、隠してる」
凛は誰にともなく呟いた。だが、それが具体的に何なのか、音だけからは特定できない。人の心の機微は、音から読み取れる。だが、その理由までは、音は教えてくれない。
放課後、部室に誰もいない時間を見計らって、凛は普段は開かない自分のノートパソコンの奥のフォルダを開いた。放送部時代に、興味本位で覚えた技術がいくつか眠っている。本気でやりたいわけではなかったが、必要な時には、迷わず使う。それが凛のやり方だった。
――全生徒に配布されているタブレット。
新学期から、学校が導入したという学習支援用の端末。凛は以前から、その挙動に違和感を持っていた。深夜、誰も使っていないはずの時間帯に、通信ログがわずかに動いている。授業支援アプリの自動アップデートにしては、頻度が高すぎる。
凛は、学校のネットワーク構成を、時間をかけて洗い出した。表向きは、成績管理システムと連携しているだけの、ごく普通の校内サーバー。パスワードの類は、教職員用の共有ドライブに残された、古い設定資料からある程度推測できた。もっとも、これは褒められた手段ではない。だが、佐藤の声に滲んだ「隠し事」の正体を突き止めるためなら、多少の後ろめたさには目を瞑ることにした。
サーバーの階層を一段ずつ下りていく作業は、地味で、根気のいるものだった。無数のフォルダの中に、ダミーのような名前をつけられた、明らかに他とは毛色の違うディレクトリが紛れ込んでいることに気づいたのは、日が完全に沈んだ後だった。
『MDL_Optimization』
一見、何のことかわからない名前だった。だが、開いた瞬間、凛は自分の指先が冷たくなるのを感じた。
「……これ」
凛の指が、キーボードの上で止まった。
画面に表示されたのは、生徒一人ひとりの名前と紐づけられた、無機質な数値の羅列だった。ざっと見ただけでも、対象は一学年分どころではない。全校生徒、恐らく千人近くの名前が、五十音順に、機械的に並んでいる。
『佐藤悠人 ストレス指数:上昇傾向 主要検出ワード:肩、イップス、推薦、演劇部 推奨対応:進路面談の実施』
『七瀬結衣 特記事項:過去の家庭環境に起因する行動パターンの疑い、要観察 推奨対応:継続監視』
『佐々木蓮 特記事項:胃酸過多、対人関係における自己評価の低さ 推奨対応:進路指導での自信付け』
『鈴木凛 特記事項:対人接触忌避傾向、聴覚過敏の可能性 推奨対応:集団行動への段階的な適応支援』
自分の名前まで、そこにあった。凛は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「推奨対応」という欄の存在に、凛はかえって薄気味悪さを覚えた。ただ盗み聞いているだけではない。集めた情報をもとに、「導いてやろう」とする意志が、そこには確かにあった。
タブレットのマイクが、深夜にだけ強制的に起動し、拾った音声をAIが解析している――キーワードを抽出し、感情の起伏を数値化し、生徒一人ひとりの「精神状態スコア」として蓄積している。凛が佐藤の声から感じ取った「隠し事」の正体も、佐々木の秘密のノートも、結衣の過去も、すべてがこのデータベースの中に、無機質な文字列として記録されていた。
「……佐々木くん。結衣。これ、見て」
凛は、震える声を抑えながら、二人を呼んだ。
部室に駆けつけた佐々木は、画面を覗き込んだ瞬間、表情を凍らせた。
「これ、全部……本当なのか」
「本当。……サーバーの経路、辿った。間違いない」
佐々木は、自分の名前の欄を、何度も読み返していた。『胃酸過多、対人関係における自己評価の低さ』――その一文は、間違ってはいなかった。だからこそ、余計にたちが悪かった。自分でもうっすら気づいていて、誰にも言わずにきたことを、機械に、しかも他人事のような文字列で言い当てられる屈辱は、佐々木が想像していたよりずっと重かった。
「……僕の胃、そんなにわかりやすかったのか」
自嘲するように呟いた佐々木の声には、いつものツッコミの軽さがなかった。
結衣は、自分の名前の横にある「特記事項」の文字列を、じっと見つめていた。過去の家庭環境に起因する行動パターン――その一文が、何を指しているのか、凛には正確にはわからなかった。だが、結衣の顔から、いつもの余裕が、音もなく抜け落ちていくのがわかった。
「……こんな形で、覗かれてたのね」
結衣の声は、いつもより低く、静かだった。
「誰かの生活のノイズを読み取るのは、私の役目のはずだったのに」
その声には、怒りとも諦めともつかない響きがあった。長年、他人を観察する側に立ち続けてきた結衣にとって、自分が観察され、しかも「要観察」という無機質な一言で棚上げにされることは、単なる不快感以上の何かを揺さぶったらしい。凛は、その一言に、結衣の中にある何か、普段は決して表に出さない部分が、わずかに顔を覗かせているのを感じた。だが、それが何なのか、踏み込んで尋ねる勇気は、凛にはまだなかった。
「……私も」凛は、自分の項目を指差しながら、ぽつりと言った。「『集団行動への段階的な適応支援』。……余計なお世話」
言葉にすると、思っていたよりも腹が立った。人混みが苦手なことも、対人関係が得意でないことも、凛にとっては、ただの自分の輪郭の一部でしかない。それを「支援すべき欠陥」であるかのように扱われることに、凛は初めて、はっきりとした怒りを覚えた。
「……佐藤くんの分、見て」佐々木が、画面をスクロールしながら言った。「『演劇部』ってキーワードまで、ストレス指数の検出ワードに入ってる。まさか、佐藤くんが校長に呼び出されてたのって……」
その先を、佐々木は言葉にしなかった。だが、部室にいた三人の中に、同じ疑念が、音もなく広がっていくのを、凛は肌で感じ取っていた。
「……この件、佐藤くんにも見せるべき」凛は静かに言った。「彼だけ、まだ知らない」
「そうだな」佐々木は頷いた。「でも、その前に――」
佐々木は、画面に表示された名簿を、もう一度スクロールした。五十音順に並んだ名前は、見ても見ても終わらなかった。田中の名前も、桜庭千夏の名前も、田村早苗の名前も、そこにあった。全校生徒、ほぼ全員分。誰か一人の悩みごとではなく、この学校そのものが、一つの巨大な観察対象として扱われている――その事実の重さに、佐々木は言葉を失った。
「……こんな規模のこと、僕らだけでどうにかできるのか」
「わからない」凛は正直に答えた。「でも、知らなかったことにはできない」
結衣は、腕を組んだまま、しばらく黙っていた。やがて、いつもの好戦的な光を、目の奥に取り戻した。
「――上等じゃない。相手が大きいなら、こっちも派手にやるまでよ」
「派手にって、お前……」
言いかけた佐々木の言葉を遮るように、部室のモニターが、唐突に、強制的に切り替わった。
砂嵐のようなノイズが走った画面に、ゆっくりと、人の顔が浮かび上がる。
眼鏡の奥から、こちらを見据える、校長の顔だった。




