第二十一話
先生と別れ、私は縁川天晴と一緒に、さくらちゃんの麻酔が切れるのを廊下で待った。
よくドラマでお医者さんが手術室から出て「成功です」と伝えるシーンがあるらしいけれど、手術室の前で待つことは出来ず、さくらちゃんの両親は彼女の病室で、近親者ではない私たちは廊下で待っていた。
手術自体は、特に何事もなく終えたらしいけれど、それでも不安になってしまう。
かちかちと時計の針の音に耳をすませていれば、やがて病室の扉ががらりと開けられた。
「おにいちゃん!!」
さくらちゃんが飛び出てきた。麻酔が切れたばかりだというのに、お母さんとお父さんの制止を振り切ったらしい。べたべたと地面に手をつきながらも懸命に私や縁川天晴を探している。
「ここにいるよ、病室に戻らないと…天」
「お姉ちゃん、どこにいるの!? ねえ!」
彼女は声を上げる。
私は目の前にいるのに。
「お姉ちゃん? どこ」
さくらちゃんは、まるで私なんて見えていないかのように、辺りをきょろきょろ見回した。私は確かにここにいる。
目が見えてない?
手術の後遺症で?
慌てて考えを巡らせる間に、縁川天晴がすっと私の前を横切った。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんどこ?」
「お姉ちゃんも、実は入院してるんだ。でも大丈夫、きっとすぐに会えるよ」
「だいじょーぶ……?」
さくらちゃんは安心した様子で、目を閉じた。
手術は成功した。さくらちゃんは、私が見えなくなった。
さあっと血の気が引いてきて、私は縁川天晴の横顔に視線を向ける。
余命幾ばくもないらしい先生が、私について徐々に見えるようになったと言っていた。
弁護士さんは私が見えなかった。
遠岸楽のお婆さんは、彼や私の存在をうっすらと感じていた。
寺の血筋で、なおかつ住職をしている縁川天晴のお父さん、そしてお弟子さんは、私は見えなかった。
でも、縁川天晴だけは、最初から私も遠岸楽も、あの女性のことも見えていた。
幽体は、誰かを助けたいという思いで物理的にものに触れられる。
そんな幽体を見られる誰かは、みんな等しく死に近かった。
「うん。大丈夫だよ。あかりちゃんは生きてる」
そう、縁川天晴は初めて会った言葉を繰り返す。
繰り返してから、私を見る。
「嘘つき」
私は咄嗟に、縁川天晴へ呟く。
否定の言葉は返ってこなかった。
私たちは、ゆっくりと病院の外を歩くことにした。さすがに中庭でぶつぶつ話をさせるわけにはいかない。聞きたいことは山程ある。
「寺生まれだから、じゃないでしょ」
落ち着いて、真実を知りたい。なのに力がこもって、責めるような口調になってしまった。縁川天晴の表情は、不気味なくらいいつも通りだ。
「さくらちゃんが私のことを見えてたのは、手術する前で死に近かったから。でも手術終わって死ぬ可能性がなくなったから、見えなくなった。先生は、始め見えなかったらしい。病気が進行していくにつれ、見えるようになったって聞いた」
「そうなんですか」
しらばっくれる口ぶりに、嫌気がさした。空は雨が降り出しそうで、いつもいつもこの空は私の大切なものを奪っていくのだと、手のひらを握りしめる。
「貴方が私が見えるのは、病気だからじゃないの」
「恋の病、とか?」
おそるおそるといった口ぶりなのに、本質ははぐらかしてくる。
今までずっと私は縁川天晴のことを、弱気なわりに、変なところでこだわりが強いと思っていた。
でも違う。こだわりが強いんじゃない。
縁川天晴は、ずっと──、頑なに自分の秘密を守っていた。
「死に近いんでしょう。天晴が」
彼は私に隠していたのだ。自分が病気だということを。そこだけは徹底していた。
「違うなら、違うって言って」
返事がほしい。
否定してほしい。そんなわけないって。自分はずっと生きてるって。
でも、私のほしい言葉は、一つも音にならない。
「……なんで黙ってたの」
「推しに自分語りするなんて、厄介ヲタクの極みですよ。ろくでもないじゃないですか。困らせたくないし。ただでさえ、オフの推しに声かけてるんですから。ヲタク失格です」
あははと、軽く笑う。そして、私を諭すように語り始める。
「確信はあったんですよ。寺の人間に貴女の姿が見えないことや、先生が徐々に貴女を認識し始めたこと。きっと貴女が見えるのは、僕の時間が残り少ないからだろうなって。さくらちゃんの手術が成功したならば、きっと彼女は貴女が見えなくなるって」
軽く笑ってしまえるほど、もう縁川天晴の中に死は確定事項としてある。
まともに取り合ってくれていないことがもどかしくて、窒息しそうになった。
「よく子供は目に見えないものも見えるって言うじゃないですか。病院という立地のわりに、貴女を認識している人は少なかったし、霊感由来ということに賭けてたんですけどね……」
自嘲的な笑みに、心臓の奥が痛くなる。喉が、焼けるように熱い。自分が今怒ってるのか、泣きたいのか分からない、ぐちゃぐちゃだ。
彼は学校に通ってないと言っていた。学校に通えないけど、学校に問題があるだけだからネットにいたり、高校に行く準備をしている人はいくらでもいる。天晴も、いじめられたり友達が出来なかったりして、今の生活をしているのだとばかり思っていた。
「兄は、いないの」
「はい。嘘です」
もしかしたら縁川天晴は、今日みたいに自分が暴かれる日を、想像していたのかもしれない。なにも動じず、彼は認めた。
「どこが、悪いの」
黙ってたことに、憤りはある。嘘をつかれたことも。
でもそれだけじゃない。気づけなかった自分が、一番憎い。
今思えば、気付けるきっかけはいくつもあった。微塵もその存在が感じられない兄の存在に、先生の言葉。私の危険を感じたら必ずそばにいるよう言ってきたのに、病院では突然姿を晦ましたり別行動をしたがった。
よく考えれば、調べようと動けた。
気になったはずだった。
「心が悪いって言ってたけど、心臓のこと……?」
「酷いこと言いますね。心が悪いなんて心外ですよ。ショックです」
「話を逸らさないでよ!」
怒鳴りつけて、ようやく縁川天晴の視線がこちらに向いた。その表情は、全部受け入れたあとみたいな、彼はもう、ただ死を受け止め、過ぎ行く時間を待つ人の顔をしていた。
「どれくらい……」
「え」
「あと、どれくらい生きていけそう……?」
声が、震えた。立ってられない。苦しい。
この世界から、縁川天晴がいなくなる。去年まで知らなかった。認識していなかった。
でも耐えられない。彼が死ぬことが。
彼はまだ生きている。でも耐えられない。彼の命がもう少ない事実が、どうしようもなく受け入れがたい。
「終わりなんてない、ただ明日を真っすぐに生きていこうって、貴女がデビューシングルで歌っていたんですよ」
小さい子をあやすみたいに縁川天晴は、困った様子ではにかむ。
まるで聞き分けがないことを私が言ってるみたいで、彼が死ぬことが絶対覆らないようで、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「……短いってこと?」
「あらやだ。推しに心を読まれてしまいました」
ふざけた声色なのに、悲しい。
何も言えず涙ばかりが流れて、どうしようもないほどの無力さに、ただ手のひらを握りしめる。その手に、縁川天晴の手が重ねられた。
「別に、すぐ死ぬというわけじゃないですよ。手術の道も残ってるんです。ただ、決心が鈍るというか……」
「なんでよ。手術すれば治るんじゃないの? 何が問題なの」
「小さいころから、わりと全部……いろいろ未発達というか。客観的に言って、耐えられるか微妙なんですよ。ほぼ耐えられないと言っていい。さくらちゃんの手術は間違いなく彼女を生かす手術ですけど、僕の場合は殺す手術になりかねないんです」
爪先から、どんどん体温が地面に吸われていくみたいに冷えていく。
死んでほしくない。
ずっと生きていてほしい。なのに、耐えられないなんて。
「……一生推すって言ったじゃん」
不貞腐れた声色で、意味もなさない言葉を吐く。
してない約束を、したと言いかがりをつける。
私はどこまでも子供で、縁川天晴はどこまでも穏やかな態度を崩さない。
「はい。ヲタクは一生推しを推して、死んでいくんですよ」
「生きててよ。なんで、なんでよ。なんで死んじゃうの」
泣きながら欲しいものを強請る子供みたいだと自分でも思う。でも止められない。苦しい。生きててほしい。天晴がいない世界なんて考えられない。
「どうして──」
「僕だって、そうですよ……」
唸るような声に、追及の手が止まった。
顔を上げると、縁川天晴は私をまっすぐ射貫いていた。
「僕だって、そうですよ!」
押された肩を掴まれる。前を見れば縁川天晴が泣いていた。大粒の土砂降りのような雨と共に響く雷鳴のように、声をあげる。
「僕だって貴女に生きててほしい。生きようとしていて欲しかった! 黙ったままでいい! 謝らなくていい! 何か言うのに絶対事務所通さなくちゃいけなくて、黙ってなきゃいけないってのも、ファン皆分かってますよ! 俺らが弁明して、信者が必死になってるからって貴方が悪く言われないようにって僕らは黙ってた! なのになんで死のうとなんてするんですか!」
「天晴……」
縁川天晴が喜び以外で感情的になっているところを、初めて見た。怒鳴りつけるように、彼は拳に力を込めた。
「貴女のことが好きで、でも説明してほしいって奴らも確かにいた! でも僕は貴女が黙ってても良かった! なんの説明が無くても、僕は貴女を信じる! 信じた! なのに、なのに手首を切ったってなんですか。僕たちが気付けなかったのが悪いかもしれない。しつこいと思われても、コメントをもっと送ってれば良かった。ブロックされても好きだって、DМが罵詈雑言で埋まる前に、僕のコメントで埋めてれば良かったって、ずっと、ずっと思ってます! でも、僕らが反論して、貴女はそんなことしないって言っても、あいつら信者だからって聞く耳も持たない! どんなに説明してもバカ信者って言われて終わりですよ。貴女のことなんて何も知らない、アンチですらない浅い、あっさい奴らが! 僕たちが貴女を守ろうとすることを、貴女の為にならないなんて言う! 中立気取って正義気取って! 貴女を肯定することを咎めて! 挙句の果てに貴女が悪く言われる! どうしたらよかったんだろうって、貴女が自殺しようとしたって聞いてから、ずっと思ってます! 貴女を責めた奴ら全員、殺してやりたい。苦しめて、もう二度と貴女が視界に入れないように、ぐちゃぐちゃにして消してやりたい。でも、でもそうなったら果崎あかりのファンがって、貴女の名前が出されるじゃないですか。それしかないですよ殺さない理由なんて。法律なんて関係ない。人生なんてどうでもいい。それくらい、貴女に全部捧げられる! 責められると真っ暗になって、ひどい言葉ばかり目につくんだろうなって、分かりますよ。僕が想像も出来ないくらい、今までも酷いことされてたんだろうなって! だから僕は、貴女のしたことをとやかく言う筋合いなんてないのかもしれない! それでも!」
縁川天晴は、私の手に触れる。そして、静かに私を見上げた。
「……それでも、生きようとして欲しかった。果崎あかりには、何があってもちゃんと応援してるファンがいるって、信じてほしかった。身勝手だって分かってます。貴女の絶望を、俺は本当の意味で知ることが出来ない。アイドルじゃないから。でも、死のうとなんて、しないでくださいよ……なんで、自分から……」
縁川天晴は、しゃがみこむ。
置き去りにされた子供みたいに。拳を握りしめて、苦しみを抑えながら俯いた。
「ごめん」
私はそんな縁川天晴に近づく。涙が溢れて、視界が滲む。
「ごめんなさい……」
死のうとしたことを思い出すたび、どうして死ねなかったんだろうと思っていた。
両親を前にして、後悔に苛まれそうになった時は、死ななきゃ迷惑をかけてしまうからと誤魔化していた。
でも初めて、死ぬ以外に選択肢はなかったのかと、思ってしまった。
私はアイドルとして、彼の生きる希望になりたい。彼の支えになりたい。
ただただ、縁川天晴に生きていてほしい。
「僕は、もうどうしていいかわからない」
「天晴──」
「僕は、自分の人生に後悔はありません。推しを推して死ねるなら本望だった。でも今は、分不相応にも程がありますけど、貴女を孤独に追いやってしまうんじゃないかって怖いんです。でも、貴女がこの世界からいなくなるのなら、僕は死にたい。だからどう生きていいか、わからない。どうしていいか、わからない」
彼は凪いだ瞳で淡々と自分の絶望を語る。その陰りは私の行動が与えたものだ。
両親のもとへ行きたかった。
痛いことは怖いけど、明日寿命ですと言われれば喜んで受け入れることが出来た。
アイドルとして在ることが、存在理由でありこの世界で生きていていい赦しだった。
炎上で、「生きていていい理由」と「死んだほうがいい理由」の比重が、簡単に逆転した。
「あいつらに復讐してやりたい。あいつらを踏み台にして貴女をどこまでも高く、ゴミみたいな奴らの手の届かない光の先に飛ばしたい。なのに僕は、その力がなにもない。なにもできない。僕はずっと、透明な、なにもない存在でしかない」
あの時踏みとどまれていたら。
目を閉じてあの日を思い出して、もう少し待っていたらと後悔に苛まれる。そうしたら、私は彼と出会うことはなかったけど、死ぬこともなかったかもしれない。
私が死ねば全部好転すると思った。でも逆だ。何にもならなかった。
彼から、生きる気力を奪ってしまった。
「私は──」
何を言うかも決めてないままに、私は縁川天晴を呼びかける。でも、彼の後ろに建つ病棟の廊下に、見慣れた人の影が横切った。




