第28話 湖面を渡る風と、焚き火を囲む夜
マイアミ浜オートキャンプ場を照らす心地よい日差しのなか、キャンプの醍醐味であるレイクサイド・アクティビティの時間がやってきた。
マイアミ浜の最大の魅力の一つは、何と言っても目の前の琵琶湖ビーチからそのままカヤックを出すことができるという抜群のロケーションにある。
広大な湖面は波がとても穏やかで、初心者であっても安心して、まるで水の上を歩くような感覚で気軽に湖面散歩を楽しむことができるのだ。
「うわあ。水がすごく透き通ってて綺麗……。お天気も最高だね」
ライフジャケットをしっかりと身にまとった美波さんが、打ち寄せるさざ波を優しく見つめながら嬉しそうに声を弾ませる。
その傍らで、七柰もパドルを両手で持ち上げ、早く水に入りたくて仕方のないといった様子でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「ねえねえ、早く乗ろうよ! 私、テレビとかでこういうの見たことあるけど、実際に自分で漕ぐのは初めてだからすっごく楽しみ!」
「焦らないの、七柰ちゃん。まずは岸辺でパドルの持ち方と、基本的な漕ぎ方のレクチャーをしっかり聞いてからよ」
咲さんが上品に笑いながら、自分のパドルの角度を確かめる。
その隣では、カヤックをやりたいと熱望していた美怜さんが、凛とした佇まいで真剣にインストラクターのスタッフさんの説明に耳を傾けていた。
プロのカメラマンである正樹叔父さんは、すでに防水ケースに入れた一眼レフカメラを首から下げ、少し離れた位置から「おーい、みんなこっち向いて! いい写真を撮るから最高の笑顔を見せてくれよ!」とシャッターチャンスを狙っている。
叶姉さんも小型のカメラを手に、「みんな、湖に落ちないように気をつけるんだよー」と楽しそうに声をかけていた。
「それじゃあ、順番に乗り込んでいきましょうか」
夢乃さんが穏やかな微笑みを浮かべながら、みんなの誘導を手伝う。
まずは、七柰が一人乗りのカヤックに挑戦することになった。すっきりとライフジャケットを着こなし、浅瀬にカヤックを浮かべる。
「ちょっと緊張するけど、なんだか風が心地いい。それじゃあ、行ってくるね!」
七柰がパドルを水面にザブンと差し込み、見事な手つきでスイスイと漕ぎ出す。
初挑戦とは思えないほど安定したフォームで沖へと進んでいく姿に、岸で見守っていた姫子さんが「うわあ、七柰ちゃんすごい! もうすっかりベテランの漕ぎ方じゃん!」と大きな歓声を上げた。
続いて、美波さんと美怜さんの姉妹ペアが二人乗りのカヤックに乗り込む。
「美怜、しっかり息を合わせるよ。右、左って声を掛け合いながら漕ごうね」
「うん、お姉ちゃん。任せて」
美波さんが後ろから優しく声をかけ、息の合ったパドルさばきで水面を滑るように進んでいく。
その後を追うように、僕や姫子さん、咲さん、夢乃さんたちもそれぞれのカヤックに乗り込み、次々と琵琶湖の広大な湖面へと漕ぎ出していった。
「わあ、すごい! 本当に水面が鏡みたいになってて、自分たちが空を飛んでるみたい!」
姫子さんが驚きと興奮の入り交じった声を上げる。
湖面に浮かびながら見上げる空はどこまでも青く、遠くに見える対岸の山並みと、自分たちの周りを囲む澄み切った水が、日常の喧騒を完全に忘れさせてくれる。パドルを漕ぐたびに水音がチャプンと心地よく響き、時折通り抜ける初夏の涼しい風が、火照った頬を優しく撫で付けていく。
美怜さんは、美波さんと示し合わせて少し開けた湖面の中央付近でカヤックを一度止め、深く息を吸い込んだ。
「……気持ちいい。こんな風に、みんなで水の上を散歩できるなんて思っていなかったわ。奏多君、こっちの景色もすごく綺麗よ」
少し離れたところでパドルを休めていた僕に声をかけ、美怜さんは心から嬉しそうな、柔らかな微笑みを浮かべた。その表情は、普段のクールビューティーな雰囲気の中に少女のような無邪気さが混ざり合っていて、見ていて胸が温かくなるほどだった。
§
たっぷりと湖上の散歩を満喫し、ワイワイと笑い合いながら全員で岸へと戻ってきた頃には、空の色はゆっくりとオレンジ色から茜色のグラデーションへと変わり始めていた。
心地よい疲労感と充実感に包まれながらテントサイトへと戻り一息つくと、あっという間に辺りは夕暮れの静かな時間に包まれる。
「ふう、カヤック最高だったね! お腹もペコペコになっちゃった!」
姫子さんがお腹をさすりながら、待ちに待った夕食の準備に取り掛かろうと気合を入れる。
今日の夕飯のメニューについて、姫子さんが大きな声で宣言した。
「今日の夕飯はね、私と美波さん、そして前回のキャンプのときにも言っていた通り、美怜さんが作るよ!」
「そうなの。私たちが担当する今日のメインディッシュ、みんなに美味しいって言ってもらえるように気合を入れて作るからね」
美波さんが優しく微笑みながら、エプロンをキュッと結び直す。
料理の舞台となるのは、僕が持参したユニフレームの信頼性抜群な薪グリルだ。
頑丈なステンレス製のボディに、パチパチと心地よい音を立てて燃え盛る薪の赤く熱い炎が、夕闇の迫るキャンプサイトを温かく照らし出している。
姫子さんと美波さんは、そのユニフレームの薪グリルの網の上を使って、じっくりと火を通すダイナミックな料理の準備を始めていた。
「私たちが担当するのは、名付けて『鮭とキノコのちゃんちゃんホイル焼き』だよ!」
姫子さんが自信満々に食材を並べていく。
その作り方はとてもシンプルでありながら、キャンプの醍醐味が詰まっていた。
まず、大きなアルミホイルの上に、新鮮で肉厚な生鮭の切り身をドンと乗せる。その周りに、マイタケやエリンギといった香り高いキノコ類、シャキッとした食感の玉ねぎ、そしてキャベツをこれでもかとばかりにたっぷりと乗せていく。
最後に、贅沢にバターをひとかけポンと置き、あらかじめ合わせておいた特製の味噌、みりん、酒を混ぜ合わせたコクのあるタレを上から回しかける。
そして、旨味や水分が外に逃げないようにアルミホイルをしっかりとピッチリ包み込む。
「よし、これで準備完了! これを薪グリルの網の上に乗せて、薪の熱でじっくりと蒸し焼きにするの!」
姫子さんが満足そうに手を叩く。
薪の熱でゆっくりと加熱されていくホイルの中では、キノコから極上のダシがじわじわと染み出し、香ばしい味噌の香りが周囲にふわっと漂い始めた。
薪グリルの半分でホイル焼きがぐつぐつと音を立て始める中、七柰がふと首をかしげて、もう一人の料理担当である美怜さんのほうを興味深そうに見つめた。
「あの、美怜さんは何を作るんですか?」
七柰の問いかけに、美怜さんはすっと微笑み、持参したシルバーの調理器具を見せた。
「私が作るメインはね、『エビとキノコのアヒージョ』よ」
「アヒージョ! 絶対においしいやつだ!」
姫子さんが目を輝かせて飛び跳ねる。
すると、近くでコーヒーを淹れていた咲さんが、懐かしそうに目を細めて口を開いた。
「アヒージョ……。私たちが初めてのキャンプで、一緒に囲んで『美味しいね』って感動した、あの思い出のメニューじゃない。私たちがキャンプにハマるきっかけにもなった、本当に特別なメニューね」
「そうね、咲さん。話に聞いていたそのときの楽しかった雰囲気を、今日のこのマイアミ浜でも再現したかったの」
美怜さんが優しくうなずく。
「わあ、アヒージョ大好きです! ぐつぐつしたオイルにバゲットを浸して食べるの、本当に楽しみです!」
夢乃さんも両手を胸の前で軽く組み、うっとりとした表情で期待を膨らませた。
このアヒージョ作りにおいて、美怜さんが考えた調理の工夫が絶妙だった。
アヒージョは大きめのフライパン1つでまとめて作ると決めていたのだ。少し大きめのフライパンにドカンとまとめて作れば、薪グリルの網の半分をホイル焼き、もう半分をフライパン、というように綺麗にスペースに収まり、効率よく同時に調理を進めることができる。
美怜さんの手際の良い下準備が始まる。
「まずは下準備ね。エビはしっかりと背ワタを取って、キッチンペーパーで水気をしっかり拭き取るの。これをしておかないと、油に入れたときに激しく油はねしちゃうから大切なポイントよ」
美怜さんが丁寧かつ手際よくエビの下処理を終えると、続いてマッシュルームを手で食べやすい大きさに裂いたりカットしたりしていく。
「そして、香りを引き出すために……」
スキレットを兼ねた大きめのフライパンにたっぷりのオリーブオイルを注ぎ、潰したニンニクと鷹の爪を投入して弱火にかける。じっくりと時間をかけて熱していくと、ニンニクの香ばしい食欲をそそる香りがふわっと周囲に立ち込めてきた。
「んーーっ、この香りだけで白ご飯が食べられそう……!」
七柰が思わずゴクリと喉を鳴らす。
「ふふ、まだ早いわよ。ここからが本番だからね」
美怜さんは優しく微笑みながら、下処理を終えたプリプリのエビとキノコをフライパンへと一気に投入し、イタリアンな塩をパラリとふりかけた。
エビの鮮やかな赤色へと変わりゆく様子と、キノコにしんなりと火が通っていく様子が、薪グリルの強力な火力のなかでグツグツと美味しそうな音を奏でる。オイルの中で踊るように煮込まれていく具材たちに、見ている全員が釘付けになっていた。
「最後に仕上げのパセリを散らせば……『エビとキノコの旨味たっぷりアヒージョ』の完成よ」
美怜さんが鮮やかな緑のパセリをパラリと散らすと、そこにはプロ顔負けの美しく、そして最高に食欲をそそる一品が仕上がっていた。
薪グリルの上では、姫子さんと美波さんが仕込んだ「鮭とキノコのちゃんちゃんホイル焼き」も最高のタイミングで完成を迎え、アルミの包みを開けた瞬間、もうもうと立ち上る湯気とともに、バターと味噌のたまらない芳香が夜空へと広がっていった。
「お待たせ! それでは、みんなでアチアチのうちにいただきましょう!」
姫子さんの掛け声に合わせて、全員がそれぞれの小皿とフォーク、スプーンを手に持って薪グリルの周りに集まった。
「「「いただきます」」」
まずは、『鮭とキノコのちゃんちゃんホイル焼き』を一口食べた七柰が、「うわっ、なにこれ! 鮭がめちゃくちゃふっくらしてて、キノコから出たお出汁とバター味噌のコクが体に染みるーっ!」と大絶賛した。
そして、もう一つのメインである美怜さんが作った『エビとキノコの旨味たっぷりアヒージョ』を一口。カリッと焼いたバゲットに、ニンニクの効いたオリーブオイルをたっぷり染み込ませ、プリプリのエビを乗せて口へと運ぶ。
「んんーーーーっ!! 美味しすぎるっ……!!」
姫子さんが両手でほっぺたを両側から押さえて、その美味しさにのけぞるように感動した。
「ほんとうに……! ニンニクの香ばしさとエビの旨味がオイルに完全に溶け込んでいて、バゲットがいくらでも食べられちゃいそうよ」
咲さんが上品に目を丸くしながら、もう一口バゲットをオイルに浸す。
「キノコにもしっかり味が染み込んでいて、食感も最高ですね。美怜さん、本当にすごいです!」
夢乃さんも満面の笑みを浮かべて絶賛の声を送る。
みんなからのあまりの絶賛の嵐に、普段はクールで何事にも動じない美怜さんの頬が、わずかに紅潮した。
「そ、そんなに褒められると、なんだか少し照れくさいわね……。みんなに美味しいって言ってもらえて、私も作った甲斐があったけれど」
恥ずかしそうに視線を少し逸らしながら、照れ笑いを浮かべる美怜さん。その素直で可愛らしい様子に、周りからクスクスと温かい笑い声が漏れる。
すると、その様子を優しく見守っていた美波さんが、ふっと柔らかい微笑みを浮かべながらそっと美怜さんの隣へと歩み寄った。
「美怜、本当にお疲れ様。すごく美味しかったよ。ね?」
美波さんは優しいお姉さんらしく、トントンと美怜さんの頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃん、ちょっと、みんなの前で子供扱いしないでよ……でも、ありがとう」
美怜さんはさらに顔を赤らめながらも、どこか嬉しそうな、愛おしさに満ちた表情を浮かべて美波さんの手にそっと自分の手を重ねた。
その微笑ましいやり取りを、僕や七柰、そして叔父の正樹や叶姉さんも、焚き火の柔らかな炎に照らされながら温かい眼差しで見守っている。
満天の星空が広がり始めたマイアミ浜の夜空の下、薪グリルのパチパチという心地よい爆ぜる音と、美味しい料理を囲むみんなの楽しげな笑い声が、どこまでも優しく響き渡っていっていた。




