第1話 夜の森の迷子たちと、カマンベールアヒージョ
夜の闇に深く沈み込む滋賀・マキノの林の中で、パチパチと乾いた薪の爆ぜる音が心地よく鳴り響いていた。
京都市左京区の喧騒を離れ、ゴールデンウィークの前半を利用してやってきた『マキノ高原キャンプ場』。
周囲を囲むクヌギの木立が夜風に揺れ、遠くで虫の音が微かに聞こえる。
ランタンの柔らかな暖色に照らされた小さなテーブルの上では、シングルバーナーの青白い炎にかけられたクッカーのお湯が、コポコポと優しい泡を立てていた。
おもむろにドリッパーにセットした中挽きの豆に熱めのお湯を落とすと、ふわっと香ばしい湯気が立ち上り、鼻腔を心地よくくすぐる。
「ふぅ……」
カップを両手で包み込み、一口。深みのある苦味と爽やかな酸味が、旅の疲れをじんわりと溶かしていく。
こうして一人静かに、満天の星空を眺めながらこだわりのコーヒーを味わう。これ以上ないほど贅沢で、完璧なソロキャンプの時間だった。ここには、大学の講義のプレッシャーも、日常のわずらわしさもない。ただ、穏やかな自然の時間だけが流れている。
だけど、その静寂は、唐突に破られた。
「きゃーっ! 待って、嘘、そっち暗いって!」
「なんか今、木の根っこ踏んだわ!」
「もうやだ、帰りたい……誰か助けてくださいよぉ!」
静まり返った林の奥から、恐怖に怯えた女性の悲鳴が聞こえてきた。
ガサガサと草木を揺らす音が近づいてくる。何事かと身構えた僕──水守奏多の視線の先、暗がりから、青い顔をした三人の女の子たちが飛び出してきた。
手にしたスマホの頼りないライトの光が、彼女たちの青ざめた顔を照らし出す。
「だ、誰かいる!? 幽霊、じゃないよね……人間だよね!?」
パニックに陥り、半泣きになりながら僕にしがみつきそうになったのは、栗色のミディアムボブがよく似合う可愛らしい女の子だった。
「大丈夫。キャンプをしている人間だから、幽霊じゃないよ」
驚かせないように、できるだけ穏やかなトーンで声をかける。
怯えきった彼女たちを落ち着かせるため、僕は慌ててお湯を紙コップに分け、温かいインスタントスープを作って手渡した。
「ほら、まずはこれ飲んで落ち着いて」
「「「あ……ありがとう(ございます)……」」」
震える手でカップを受け取り、スープを口にした彼女たちは、ようやく人心地ついたように深く息を吐き出した。
そうして落ち着いたところで自己紹介を始める。
「私は桐嶋咲よ。こっちは宇都宮姫子で、あっちが永澤夢乃」
年長者らしく、銀縁眼鏡をかけた理知的なハーフアップの女の子──桐嶋さんが代表して頭を下げる。
先ほどパニックになって飛び込んできたムードメーカーっぽいミディアムボブが宇都宮さん。
そして、片サイドに赤いリボンを結んだショートヘアの小柄な女の子が、まだ心細そうに服の裾を握っている永澤さんだった。
「私たち、京都の大学のサークル仲間なの。『まったり乙女会』っていう名前の……普段はただまったりお喋りするだけの、ガチじゃないエンジョイサークルなんだけど」
桐嶋さんが話した後に、宇都宮さんがトホホといった顔で続ける。
「近くの民宿に泊まっていて、夕食のあと『肝試しがてら近くの林に行ってみようか』ってノリで軽い気持ちで入ったら、見事に道に迷っちゃって……気づいたらスマホの電波も完全な『圏外』になってて……」
「で、暗いし怖いし、足元は見えないし……そしたら茂みが急にガサガサって鳴ったから、もしかしてホンモノの熊が出るんじゃないかってパニックになって、泣きながら走って逃げてきたんです……」
永澤さんが、まだ少し震えながらそう付け足した。
「なるほどね。スマホが圏外になるのは、このあたりの林間サイトじゃよくあることだから焦ったろ。ところで、泊まってる宿の名前はわかる?」
「はい、『まきの館』です」
「それなら、ここから少し下ったところだから、あとでちゃんと案内してあげるよ」
「本当!? やったぁ……よかったぁ、生きて帰れる……!」
全員の緊張の糸がプツリと切れた瞬間のタイミングで、宇都宮さんの小さなお腹から、「キュルルル……」と可愛らしい音が響いた。
宇都宮さんが真っ赤になってお腹を押さえる。
「あ、はは……。肝試しで歩き回ったから、すっかりお腹ペコペコ……」
「お腹が減ってるのか。じゃあ、ちょうどよかった。今夜食を作ろうとしていたところなんだ」
「えっ、ご馳走してくれるの?」
「うん。簡単な料理だけどね。すぐに作るからしばらく待ってて」
目を丸くする三人に向けて、僕は笑いながら調理の準備を始めた。
バーナーの火力を安定させ、キャンプ用の小さなスキレットを取り出す。
「何を作るの?」
さっきまでの恐怖はどこへやら、宇都宮さんが興味津々といった様子でピタリと僕の横に寄ってくる。
「今夜はね、悪魔的な美味しさの『カマンベールアヒージョ』だよ」
「あひーじょ……? おしゃれな響き!」
目を輝かせる宇都宮さんの前で、僕は材料を手際よく並べた。
カマンベールチーズ(1個)、シーフードミックス(冷凍のエビやイカ)、ニンニクチューブ、オリーブオイル、ミニトマト、そして買ってきたばかりのフランスパン(バゲット)。
「作り方は簡単さ。まず、小さめのスキレットにオリーブオイルとニンニクをたっぷり入れて、解凍したシーフードと半分に切ったミニトマトをゴロゴロ入れる」
「うわ、もうすでにニンニクの香りがズルいです……」
と永澤さんがゴクリと喉を鳴らす。
「そして、この真ん中に、カマンベールチーズを丸ごとドスンと置く。あらかじめチーズの上の白い皮に十字の切れ目を入れておくと、中がトロトロに溶け出すんだ」
バーナーの火にかけられたスキレットから、ジューッという香ばしい音が立ち上る。オリーブオイルの中でニンニクとシーフードが踊り、真ん中のカマンベールチーズがじわじわと柔らかくなっていく。
「これであとは火が通るのを待つだけ。どう? 簡単でしょ?」
「簡単なのに、ビジュアルがすでに爆弾級なんですけど……!」
数分後、グツグツと煮えたぎるオイルの海と、中心でとろけ出した濃厚なチーズの海が一体化した。
仕上げにパセリを散らせば、完璧な『カマンベールアヒージョ』の完成だ。
トロトロに溶けたチーズとニンニクの香ばしい匂いが、夜の冷えた林の空気に一気に広がる。
「お待たせ。フランスパンをちぎって、チーズの海にたっぷりダイブさせて食べてみて」
促されて、一口食べた瞬間、三人の動きがピタリと止まった。
「「「……っ、おいしーーっ!!」」」
夜の林に、三人の絶叫に近い感動の声が響きわたる。
「なにこれ!? 外側カリカリのパンに、このガーリック香る濃厚チーズとエビの旨味が絡みついて……脳が溶ける!」
宇都宮さんが夢中でバゲットを追加投入し、桐嶋さんも眼鏡を押し上げながら、「これは……反則的な美味しさね。キャンプでこんな本格的な料理が食べられるなんて思わなかったわ」と目を輝かせている。
小柄な永澤さんも、無言でハフハフ言いながらリスのようにパンを頬張っていた。
「ご馳走様です、生き返ったよ!」
お腹が満たされ、ようやく全員の表情に余裕が戻ってきたところで、焚き火のパチパチという音を聞きながら緩やかな会話が始まった。
「お兄さんはいつも一人でキャンプしてるんですか?」
スープの温かさにすっかりリラックスした様子で、永澤さんが尋ねる。
「そうだね。週末とか連休になると、この静けさが欲しくなってついつい一人でキャンプしちゃうんだ。たまに僕にアウトドアのイロハを教えてくれた叔父さんや、従姉妹のお姉さんと一緒に来ることもあるけど、基本はソロキャン派かな」
「私たちも似たようなものよ。私たち三人、同じ大学の、学部も同じの幼馴染みで、小さい頃からずっと一緒につるんでるの。『まったり乙女会』っていう名前のサークルだし、今日は文字通りまったり旅行しに来たはずだったのに、まさか夜の森で遭難しかけて、知らないお兄さんに美味しいアヒージョをご馳走になるなんて思ってなかったけど……」
苦笑いする桐嶋さんに、僕も思わず笑ってしまった。
その時だった。
「ねえ、みんな……空、見て……」
ふと、それまで穏やかに談笑していた桐嶋さんが、言葉を失ったように夜空を指差した。
全員が釣られて、視線を上に向ける。
「──っ!」
言葉が出なかった。
木々の隙間に広がる漆黒の夜空。その天井いっぱいに、夜空のあちこちから、眩い光の尾が幾筋も描かれた。
流星雨だ。
次から次へと、まるで夜空のカーテンが裂けるかのように、無数の流れ星が尾を引いて降り注いでいく。
「うわっ……すごい……!」
宇都宮さんが両手で口を押さえ、言葉を失う。
誰もが声の出ない圧倒的な光景の前に立ち尽くし、ただただ頭上の宇宙のショーに見入っていた。静まり返った林の中、パチパチと薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
しばらくして、少しずつ正気を取り戻した宇都宮さんが、慌てて空に向かって手を合わせた。
「え、待って、待って! 何個流れた!? 今の間に願い事三回言えた!?」
「無理です! 早すぎてそんな暇なかったですよ!」
永澤さんがキャッキャと笑いながら、慌てて空を見上げる。
桐嶋さんも、眼鏡の奥の目をキラキラと輝かせながら、「こんなの、映画のワンシーンじゃない……」と呟いた。
肝試しで肝を冷やした彼女たちの恐怖の夜は、いつの間にか、一生忘れられないほどの極上の奇跡に塗り替えられていた。
満天の流星雨の下、焚き火の温もりを囲みながら、僕たちは言葉を失うほどの星空をただ見上げていた。




