ショートカット
人間は勝手に環境に適用していく。周りが高校生ばかりだとノリまでそうなるし、おっさんばかりだとそれなりの仕事や世間話に興じるようになる。人間の脳みそとは、そうできているのかもしれない。
それはともかく、46階層を抜けた後の47階層までの途中にある裂け目の洞窟の、その先でバンドーは目覚め、周囲を見渡して一人である事を確認する。硬い地面の上で寝たせいで身体の方々が痛いが気にしない。
バンドーは若いのだ。身体的には。
誰もいない一人の目覚めは、何故か彼の心に余裕をもたらす。今まで何度となく往復した50階層までの道程の、そのほとんどは一人だったし、ここでの目覚めも初めてではない。火をおこすと裸になって、目覚まし代わりに滝に打たれ、そして簡単な食事をとる。栄養も何も考えない、あるものを食うだけ。多少空腹のほうが感覚は研ぎ澄まされる。それは経験的に判っていた。
また前かがみになって洞窟の裂け目を抜け、通常の通路に戻る。次は47階層、ここから50階層までは恐怖のエリアと言われている。お馴染みのリッチロードに加え、死神ノイエス、ヴァンパイアロードに背悪魔イビルロードが加わる。そして50階層のボスとして、ハイエンシェントリッチが鎮座している筈だった。いずれも恐怖の魔法を撃ってくる。耐性のない冒険者なら、即死してもおかしくはない。
47階層に入ってしばらく行くと通称、憤怒の教会と呼ばれる崩れた教会があるのだが、ここに至るまで魔物の気配すら感じられない。あっさりと階層を突破して48階層に侵入した時点で、流石にバンドーも足を止めた。
気配感知最大、相変わらず静かだ。
「……誘ってやがるのか? 」
思い当たる節と言えば、アンが連れ去られそうになった一件。あの時に現れた小柄な少女は、確かにサムニウムの領域で出会った少女に見えた。イルミダのスキル覚醒を促した張本人であり、レイ教授に言わせれば、魔神の尖兵であるという。
そこまで考えて、ふとアンの事が気にかかるが、今考えても仕方ないと思考を振り切る。むしろ、これまで以上に速く進む事が、彼女の安全にもつながるであろうと、無理矢理思い込む。
自分は、アンを置いて先に進む、この道を選んだのだ。ならば途上で迷うべきではない。迷っても、何ももたらしはしない。ならば行けるところまで行くしかない。
「……そうだよな? 」
バンドーは加速した。何も遮る物が無い48階層を抜け、49階層を越え、ボス部屋がある50階層に至る。ここに至るも、魔物の姿はまるでない。明らかに故意。その理由は判らないが、どうも魔神はバンドーをご所望とみえる。
「へっ、へへへ…… 」
無人の迷宮を駆け抜けながら、彼の口元には自然に笑みがこぼれる。だってそうだろう、魔神が自分に会いたいが為に、迷宮の魔物を空にした? その想像が当たっているかどうかは判らないものの、愉快と言うか、
「馬鹿じゃね? 」
その言葉の意味は、そこまでやるか? である。
ふと気になったのは、この現象が一体どこまで及んでいるのか、という事だった。47階層から先、限定なのか。あるいは全迷宮階層に及んでいるのだろうか。
55階層まで抜けたところで、一旦休憩する。無人の野を行くとは言え体力は消耗するし腹は減る。そして、この55階層が、実は今までバンドーが潜った最下層だからでもある。以前、ここにティアやカササギ達と来た時は、成体ヴァンパイア・サキュバスのミリアに襲われ、何とか降して撤退した。まあ、多分に偶然の産物ではあったが。
ふと、頭の中でミリアの切れ長の瞳が浮かんだ。そう言えばあいつは、何故俺に頼み事をしたのだろう。
戦闘が無い中で一人でいると、ついいろいろな事を考えてしまう。いけない、ここから先は自分にとって未踏エリア、例え魔物の気配が感じられなくてもマッピングは必要だろう。
「そういやー、レイ教授は75階層まで降りた事があるんだよな」
今更ではあるが、もう少し深層の状況を聞いておくべきだった、とも思う。急ぎ降りたい気持ちもあるが、もう一人の自分が慎重に行くべきだと忠告している。相変わらず魔物は出ない。60階層まで降りたところで、空のボス部屋を発見した。経験上、ボス部屋と次の階層の間には魔物のスパンは無い。
「一旦、置くか」
そう決断し、仮眠を取る事にする。魔物に出会わない事が逆に、神経を過敏にしている。いつ襲われるか判らない状態が続いたせいだろう。今まで出会った事が無い魔物が現れる可能性だってあるのだから。
その翌日も同じだった。
さらに数えて65階層、そこまで降りた時、ようやく気配感知に引っかかるものがある。反応は二つ、動きはない。現れたのは恐らくヴァンパイア・サキュバス種であろうか。
ひとりは、所謂、冒険者の間では戦闘巫女と言われるスタイルをしている。そう言う職業クラスがあるのだ。今一人は、どこか既視感があるメイド姿をしている。とはいえ二人はそれぞれ灰と黒の翼を背負っている。
「アーハイトと申します、バンドー様」
「……アンズーです、バンドーさん」
バンドーは一瞬、身構えるが殺気は感じられない。それどころか、アンズーと自己紹介したメイドは何故かにこやかに笑顔を振りまいている。
「戦う、……訳じゃないよな? 」
「さあ、どうでしょう? ヴァル様は面倒くさいから取りあえず連れて来いと申しておりましたが…… 」
魔神ヴァルケラスス、それがヴァル様なのだろう。その後ろで、戦闘巫女姿のアーハイトが軽やかに舞い、そして空間が裂ける。
「階層破りは10階層までがルールですのよ? ですから、ここでお待ち申しておりましたの」
裂けた空間のその先は、つまり75階層ということか。そこに魔神がいるという……
バンドーの口は自然、半開きになっている。展開が早すぎる。
「臆したか、バンドー? 」
先程とは打って変わった口調で、戦闘巫女姿のアーハイトが問いかける。その形の良い顎で空間の裂け目の、その先に向かうよう促す。
是非もない。もとより行くつもりの75階層が目の前にあるのだ。断る理由など無かった。アーハイトとアンズーに挟まれる形で、バンドーは裂け目を跨ぐ。
目の前には天井も壁も磨き上げられた黒曜石に覆われ、唯一存在する建物はこれも黒光りのする三角錐。そしてそれを囲む深い谷とそこにかかる一本の道。レイ教授に聞いた通りの75階層の情景が広がっている。
背後で空間の裂け目が、音もなく閉じた。
「あれが、ヴァル様がいらっしゃる黒曜宮です。ここからはどうぞ、一人でお進みください」
バンドーは左肘の双頭蛇に手をやった後、歩き始める。もう振り返らない。その背後では、深々と礼をするアーハイトとアンズーの姿があった。