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そこはとても日当たりのよい、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
南向きの大きな窓の向こうには美しいマーレヴィーナの紺碧の海を見ることができる。窓から吹き込む潮風も心地よく頬を撫で、ゆったりと開放的な気分にさせてくれる、そんな場所だった。
そこは不思議と現実の煩わしさから遠く離れ、穏やかな別の時間が流れているようにさえ感じられる。
その場所には奇跡が眠っていた。
何の説明もないまま連れて来られたレイスルディアードは早く神殿に向かいたい気持ちを何とか宥めながら、先導するローゼリシアの後をついていく。その後ろにはライドールとナイジェルの姿もあった。ナイジェルも時間差で公爵家に挨拶に来ていたところに、丁度いいからと声を掛けられたのだ。
長い回廊を無言で歩く。
まるで奥殿に案内された時のようだと、レイスルディアードは当時に思いを馳せる。あの時は目的地にたどり着く前に、彼女に出会ったのだ。今から思えばあの時彼女はとても苛立っていたに違いない。グラントの思惑に気付いていたらしい彼女は、報酬目当てに罠に掛かったかつての主君にこれ以上ないほど絶望したのだろうし、連れてきたグラントに殺意を抱いたのかもしれない。
それが再会時の嫌悪の籠った眼差しに繋がるのだろう、とレイスルディアードは今なら思う。
ようやく辿り着いた部屋は、オルシュタット公爵家の屋敷の離れに位置していた。離れといっても、ここは特に趣向を凝らして作られたようで、南国様式の粋を凝縮したとても趣味のいい建物だった。白亜の壁が南国特有の強い陽光を受けて、まるで光を放っているかのようだ。
ローゼリシアは入り口に控えていた衛兵に声を掛けてから振り返った。
「先ずはルディ様お一人で中へお入り下さいませ」
ローゼリシアに促されて、レイスルディアードは重厚な扉に手を掛けて、ゆっくりと押し開いた。
扉はその見た目に反して軽い音を軋ませて開く。その瞬間、不思議な芳香がレイスルディアードの鼻腔を擽った。窓の外から吹き込む潮の香りかと思ったが、どうにも違う気がする。それよりもずっと甘い、優しい……懐かしい香り。
一瞬立ち止まったレイスルディアードは、気を取り直して部屋の中へと進む。思ったよりも小さい、けれど白一色で統一された調度品に囲まれた室内は、持ち主の趣味の良さを窺わせた。
部屋の中央に、部屋の大きさには少しそぐわない立派な寝台があった。繊細な、これまた純白のレースの天蓋に包まれたそこには誰かが眠っているようだった。
「………………」
レイスルディアードは天蓋のレースに手を伸ばし掛けて、一瞬躊躇った。
何故か、確信に近い予感がした。
それはこの一年、ずっとそうなることを望んで、祈り続けて、そして必死に目を背け続けたことに繋がっていると。知らず、手が震えて自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「――――――っ!」
どうしようもなく怖かった、それが思い違いであればと。過剰な期待はそれ以上の絶望をもたらすことを、彼は身に沁みて痛いほどに覚えがある。
けれど、一縷の期待に賭けたい気持ちが勝った。
レイスルディアードは乱暴にすら見える勢いで、天蓋のレースを払いのけた。
「……………」
彼は寝台の中を凝視する。そこにいるはずの人物が誰か、知りたくて。
「………………………っ?」
声が掠れる。そっと身を乗り出すと、寝台に静かに横たわる人物の白い横顔が僅かに見えた。
純白のシーツに紛れてしまうような、真っ白い肌。その中にあって小さく紅く見えるのは、唇。レイスルディアードは引き寄せられるようにそこへ指を伸ばす。と、微かな息を指先に感じた。唇に触れ、もう一方の手で頬を包み込むように撫でる。滑らかな肌触りが、それが夢でないことを彼に教えてくれた。
「クラウティーエ……」
愛しい少女の名を呼ぶ。ようやくその顔をしっかりと見つめることができる。この一年、いや、あの雪の日からずっと、片時も忘れたことなどなかった。唯一無二の、彼の愛おしい希望。
眠るクラウティーエはとても安らかな表情をしていた。長い睫毛が揺れて、あの深い蒼の瞳が見たいと思ったが、残念ながらその気配はない。
「二月ほど前のことです。隣国の商船が海で不思議な宝を見つけたとの噂が聞こえてきたのです。虹色の海の泡に包まれていた、女神もかくやという美しい女性を」
いつの間にか側に立っていたローゼリシアが、切なそうに寝台の中へ視線を投げ掛けながら話し始めた。
ローゼリシアは直ぐに使者を遣り、その予感が的中したことを確認すると、父公爵に頼み込んでその女性の身柄を引き渡してもらうよう懇願したのだという。そうしてローゼリシアは最後の巫女姫となった少女に再会する。
「けれど幾ら経ってもクラウティーエ様は目を覚まされませんでした。マーレヴィーナの名医という名医に診てもらいましたが、結局原因は分からないまま……。病ではないようなのですが。このような状態でしたので、ご報告が遅れてしまったのです」
申し訳なさそうに頭を下げるローゼリシアに、レイスルディアードは頭を上げるように言った。
「いや、貴女のお陰で俺は掛け替えのない、大切な人を取り戻すことができた。本当に感謝の言葉もない」
そう話すレイスルディアードの表情は、今までローゼリシアが知る彼の表情の中で最も優しく穏やかなものだった。彼は再びクラウティーエの頬にそっと触れ、その目蓋に口付けた。
一年の半分以上を純白の雪が覆う北の果ての王宮で彼は毎日、一日の初めと終わりにそこを訪れる。
そこに希望が眠っていた。
その場所は王宮で最も陽当たりのよい、心地よい風の流れる場所だった。部屋の中には今年初めて花開いた、春を告げる可憐な花が優しい香りを漂わせて彼女の眠りを守っている。
静かに、穏やかな眠りの中に揺蕩う愛しい少女に、彼は毎日のように語りかける。今までのこと、今日のこと、そして未来のことを。
約束は果たした。
国を取り戻すこと、お前を迎えに行くこと。
「クラウティーエ……」
名前を囁きながら、髪に、頬に、唇に口付けて。
彼は願い続ける。
早く目覚めて、声を聞かせてほしい。
そうしたら、彼女に教えてあげたいことがたくさんある。
お前は神から見離された存在ではなかったこと、お前を大事に思っている人がたくさんいること、世界はこんなに優しく、美しいこと。
そしてこんなにもお前のことを愛おしく思っている者が、ここにいることを。
やがて暁の時が訪れたら、伝えよう。
以上で本編完結となります。
更新ペースが不定期且つ拙い話で大変読みづらかったかと思いますが、ここまでお付き合いいただきました心優しい方に最大級の感謝を。
ありがとうございました。




