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ローゼリシアは混乱の嵐の中に突然投げ込まれたような、ひどく恐ろしい気持ちに襲われていた。
冷静に状況の整理など出来る余裕など全くない。一体どうしてこんな事態になったのか分からずに、発狂したいと訴える心を抑え込むことで精一杯だった。
あの時、巫女姫――クラウティーエにこの奥殿のさらに最奥にあるらしい小部屋に連れ込まれ、ここで儀式が終わるまで大人しくしているよう言われたまでは何とか覚えている。勿論そんな話は受け入れられないと彼女にキッパリ告げた。経緯はどうであれ自分はこの聖婚の儀式を『巫女姫』として執り行ってきた。本来は自分の務めではないことは今は分かっているし、どうして目の前のクラウティーエではなく自分が務めることになったのかは分からないが、事実としてローゼリシアが執り行ってきたのだ。自分には完遂する義務があると。しかし、クラウティーエの方も全く譲る気配もなく、もしかするとクラウティーエが強行策に出るのではないかと思われたその時、それは何の前触れもなく突然現れた。
いきなり壁を突き破ってきた巨大な岩の塊のようなものが、ローゼリシアに襲い掛かってきたのだ。あまりに突然のことで、ローゼリシアは目を見開いて固まるばかりでまるで無防備だった。間一髪異変に気付いて動いたクラウティーエに突き飛ばされなければ、ローゼリシアはあの赤黒い塊に圧し潰されていただろう。
「…………何が…………、っ……」
地面に倒れこんだ衝撃で、一瞬意識が飛んでしまう。しかし、どうにか気を奮い立たせて見上げるとそこには世にもおぞましい物体が、いた。
泥水のように濁った双眸をゆっくりと巡らせて、ふとローゼリシアのそれと合う。ニヤリ、とそのおぞましいモノは嗤ったような気がして、けれど発することの出来なかった唇から微妙な音が零れ出た。
ガタガタと震えだす体を両腕で抱き締めるように支えて、ローゼリシアは意識を失わないようにするだけで限界だった。ふと、自分に影が落ちたのに気づいて視線を上げると、そこにはローゼリシアを恐ろしい魔物から守るように立ち塞がるクラウティーエの姿があった。彼女は剣を構え、その切っ先は真っ直ぐに魔物を捕らえている。震えることしか出来ないローゼリシアとは雲泥の差だ。その落差にローゼリシアは情けなくなったが、だからといってどうしようもなかった。
「いいですか、私が引き付けておきますから貴女は奥に逃げなさい」
振り返りもせず、クラウティーエが静かに命じる。言われて部屋の奥、魔物の飛び出してきた岩壁の端に小さな扉が見えた。そして魔物の背後に立つ男の姿も――あれは……?!
「――グラント殿?」
魔物の影に立つ男は確かにグラントだった。白地に金の刺繍の入った儀礼用の一際立派な長衣に、細長い帽子。見間違えではない。
グラントはクラウティーエに何やら声を掛けていたが、ローゼリシアのところまで届かず何を話しているのかは分からなかった。しかし、グラントが静かに目を瞠って視線を落としたのが見えた。
何故か彼がここにいるのか、あのおぞましい魔物は一体何なのか?
いつも何かあれば必要以上に大袈裟な反応を見せる彼の、その目に嫌悪の色が見て取れ、震えてはいるものの取り乱したりはしていないということは、グラントはあの魔物が何であるか知っているようだった。そして魔物に対峙しているクラウティーエも。
この異常な状態の中で取り残されたような感覚に捕らわれて、足掻いてみようにも脚が震えて言うことを聞かない。腰も完全に抜けてしまったようだ。これではどれだけ焦ろうとも、自力ではどうにも出来ない。このままではあの低い唸り声を上げてこちらを見ている魔物が襲い掛かって来たらなす術がない!
――――――――!!
再び魔物が巨大な腕を振り上げた。その重そうな外見に見合わず、捉えられないほどの速さだった。グチャ、と何かが潰れるような生々しい音がする。同時にガチャンと盛大な金属音も聞こえる。
恐る恐る顔を上げ、魔物の方を見ればその背後に払い飛ばされた二人の姿が見えた。
床にゆっくりと広がっていく赤い液体を逆に辿るっていくと、その行き着く先にはとても直視に堪えない光景が広がっていた。グラントの頭部はほとんど原形を留めていないほどに潰されており、クラウティーエの姿はここからははっきりと見えない。物陰に銀色の髪が微かに見えるだけだ。
「きゃあああああああっ!!!」
喉が嗄れるほど叫んだはずなのに何故か、自分の悲鳴をどこか他人のもののように聞いていた。
余りにも壮絶な光景にもはや感覚もおかしくなってきた。
グラントがあの様子なら、側にいたクラウティーエも無事ではあるまい。
もう何をどうしたらいいか。
混乱する頭の中は、意味のあることを何一つ形作らない。騒々しく色んな物が浮かんでは消えて、さらに混乱の嵐が強さを増す。
もう何に縋ればいいのか分からなかった。祈りの言葉も思い浮かばない。このまま目の前の悪夢のような魔物に喰われてしまうのだろうか……?
絶望的な思いで目を瞠ったとき、再び今度は背後の扉が派手な音を響かせて蹴破られ、新たな人物がこの空間に飛び込んで来たのが分かる。
「ローゼリシア」
そしてすぐ側で齎された優しい声に彼女はゆっくりと瞬きをした。
差し伸ばされた手は天使の救いか、悪魔の見せた甘い幻覚か――。
未だに悪夢を彷徨うローゼリシアは、深い闇の中に足を捕られたまま、そこから逃れる術を見出だせずにいた。




