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結局のところ、自分が望んでいたのは何だったというのだろうか。
あの人を喪った直後はそのあまりにも大きい喪失感に圧倒され、ただ何をする気力もないままに海を見つめるばかりだった。そうしているうちにあの人の家は力を失い我が一族の権威は失墜して、あの人を敬愛していたはずの親族までも、あの人を口汚く罵るようになった。それは、彼にとっては何よりも許されざることだった。燻っていた暗い感情が、チリチリと音をたてて爆ぜて、次第に大きな炎を巻き上げて自身の心を包むようになった頃、彼はもはや望みもしないのに以前からの予定通り神殿に上がることになった。
神殿ではあの人の親類ということで、上からはかつての身分に相応しくない侮辱を受けることも少なくなかった。
建前上、神殿の名誉を守るために儀式の前に巫女姫が死んだことも、先の神殿長だったあの人が失墜して神殿を追われたことも伏せられていたから、殆どの神殿の住人は真実を知らないため表面的には何の問題なかったが、裏では高位神官たちからことあるごとに辱しめられた。
彼はそれを甘んじて受け止めたが、内に秘めた炎は一層激しさを増していた。
(――――一体、どうしてくれようか)
一族のためとは思わない。あの人を見放した一族には何の価値もない。しかし、あの人の無念を、想いをどうにかして叶え、晴らしたい。
初めは純粋な願いだったのに、どこから歯車が狂いだしたのかは分からない。この閉鎖的な神殿の中で、行き場を失った炎の行く先は彼自身にも制御することができず、この頃には全てに絶望していた彼にとってはどうでもいいことになっていた。
(全てを壊してしまえばいい。あの人を受け入れなかった神殿も、巫女姫も、一族も海都でさえも全て全て海の底に沈んでしまえばいい……)
(だが、あの人に絶望を与えたものには倍以上の苦しみを与えなければ)
彼は復讐を誓う。
そしてそのための舞台を整えるために、自分が出来ることは思い付くだけした。
それなりの立場を得た後は、裏の世界に通じて力を蓄えた。
成り上がりの現神殿長の黒幕であるオルシュタット公爵やその一派に一矢報いなければ。同じ屈辱を味わさなければ、あの人が浮かばれない。その一心でここまできた。オルシュタット公爵が自分の愛娘を巫女姫に――魔物の贄にしないために霊力の高い娘を浚ってきて巫女姫に据えたのをみて、これだと思った。これまで数百年続いてきた儀式を、故意にねじ曲げようとしている。オルシュタット公爵は娘可愛さに、海都の伝統に背こうとしている。巫女姫は海神の花嫁だ。始まりの巫女ラヴィアータの生まれ変わりのはずだ。神殿は当初最も巫女姫に相応しい娘として、オルシュタット公爵令嬢ローゼリシアを選ぼうとしていた。彼女はその家柄でも霊力も清楚な美貌でも、慈愛に満ちた気質でも並み居る候補者の中で軍を抜いていた。問題なく選出されると誰もが信じていたのに、直前になって神殿長が『巫女姫』を連れてきた。何もかも『別格』の少女は全てを見透かすような昏い瞳で一瞥すると、全ての神殿人を沈黙させた。
この『巫女姫』がどこの誰であっても、正直彼にはどうでも良かった。
ただ、今回の交代劇が、敵が唯一見せた『付け入る隙』であることは間違いなかった。巫女姫の反対派を裏で扇動し、儀式の前にさも狙われているように工作して『護衛』という名の余所者を招き入れる。もともとローゼリシアに親しい立場の神殿騎士たちはライドールを筆頭に巫女姫にいい印象を持っていない。それを逆手にどこぞの馬の骨を神殿に入れて状態をかき回す。そうしてできた隙に『巫女姫』を消し、部外者を『暗殺者』に見立てて消す。そうしてオルシュタットの令嬢を『巫女姫』として海に捧げるのと同時に、オルシュタット公爵の地位を陥れるのだ――神殿の闇を暴露し、少女の犠牲の上に胡座をかいていた海都の民に絶望を与えてやろう。
全てを巻き添えに。
全てを海の底に沈めてしまおう。
そうして辿り行く先にあるはずの地獄で彼に報告しよう。
――――あなたの守ろうとしたものはこんなに醜い、と。
自分はいつの間にか壊れてしまったのだろう。
何がしたいのか自分でさえも良く分からない。いや、ただこの淀んだ心の奥で明瞭に在るのは、全てをめちゃめちゃに破壊してしまいたいという、衝動。
叶わないなら、望まなければいいのだということが、諦めではなくて、結論として胸の中にストンと落ちて、それは彼の中で不思議なほどに馴染んで、融合した。
後は、舞台を整えてそれを横から眺めるはずだった。
誤算は幾つも数えられる。
雇った傭兵の力量を見誤ったこと。
先の筆頭騎士が帰ってきて、対抗するように動き始めたこと。
巫女姫が霊力だけのか弱い少女ではなかったこと……
数え上げたらまだまだ出てきそうだが、お陰で計画は狂いっぱなしだった。
そしてその成れの果てがこれだというのか……?
最後に、封じられていた海神を解放して小娘二人を消してやろうと思った。もはや計画など、筋書きも何もかも跡形もない。どうにもならないなら全てを巻き添えにしてもろともに、昏い海の底に沈めてやろうと思った。海神の居場所や、封印の解き方は、神殿の奥に秘された過去の文献から知識を得ていた。自分にはもう後がない。所詮出来損ないの、中途半端な自分の企てなど上手くいくはずもなかった。後先を考えない計画に自分の未来は初めから描かれていなかった。だから、それを解き放つことの重大さを自分は全く理解していなかった。
視界を覆いつくすかのような巨大なそれは、直視に堪えかねるような何とも形容できない悪夢。海底の泥を捏ねて作ったような闇色に、蝋のように溶けだした表皮、見上げるだけで体が訳もなく恐怖に凍りつく。目の端では二人の巫女姫が対称的な行動に出ていた。一人は自分と同じように腰を抜かして動けなくなり、震える瞳で海神と呼ばれたおぞましいものを凝視していた。そして神殿騎士の鎧に身を包んだもう一人は真っ直ぐに悪夢を見上げながら、剣を構えていた。その切っ先に震えはなく、澄んだ眼光に迷いも見られない。どうして、と聞くと彼女はこちらを振り返らなかったが、力強く答えた。
「わたしはわたしの信じるものの前には誠実でありたい。我が唯一の方のために全てを捧げること、それだけのためにわたしの命は存在するのです」
彼女の答えは彼の中に厳重に封じられていた何かを開放していた。彼自身気付かない内に、心の奥底に何重にも鍵を掛けていたものに触れていた。
『光があればその傍らに闇がある。分かつことの出来ない表裏一体の存在なんだ。そしてこの美しく輝く海の底には悲しくも醜い闇がある。わたしは自分のできる全てを持って、この美しい海都のために何かを残したい。それは例え何かを壊すことになったとしても、未来の海都のためになることであれば、わたしは勇気を持って立ち向かいたいんだ』
あの人の言葉。あの人の高潔な魂はきっと神の国にいるのだろう。地獄であろうはずはない。
自分はどこで間違えたのか。このままでは永遠にあの人に会えない。敬愛していた唯一のひと。尊敬していた、いつも目指す先にはあの人の存在があったのに……!
唐突に視界が歪んだ。
どこか遠いところから少女の悲鳴が聞こえたが、それも直ぐに聞こえなくなった。
一体何が起きたというのか。それを考える時間も与えられないまま、全てが闇に閉ざされる。
(――――ああ、……)
終わった、と彼は思う。何もかも終わった、と。
なにもなさぬまま、無意味な生が幕を下ろす。
後悔は山のようにあるのに、未練も溢れるほどにあるのに、何故か心は凪いでいた。
(――――――)
最期に浮かんだのはあの人の悲しげな眼差し。
深い闇の底に墜ちていくのを感じながら、彼はありったけの想いを込めて、本当に久しぶりに最も大切な人の名前を口に乗せた。




