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彼女はこの碧い海を心から愛していた。
澄みわたった碧い水面に黄金色の太陽の光が反射してキラキラと煌めく様はまさに、神の与えたもうた奇跡のような景色だと思っていたらしい。
そして陽気で明るい海都の民を誇りに思い、いつも愛して止まない故郷のために自分が出来ることは何か、と彼女はいつも考えていた。
彼が十五才で神殿に入った時には、既に彼女は神殿の住人だった。
彼女は市民階級の生まれで、父親は海都で歴史を教える教師をしていたと聞いた。至って平凡な育ちの彼女は十歳の時に志願して巫女見習いになったそうだ。そして海都の娘たちの類に漏れず、毎年、夏祭りの際に巫女たちが海神に捧げる舞の美しさに惹かれ、いつか自分もあの舞台で舞いたいと憧れていた。
海都の中枢であるといっても過言ではない神殿に仕えることは、海都の民にとってこれ以上ない栄誉で、彼女は自ら神殿の門を叩いた。家柄から神殿騎士になることを義務付けられて、惰性でやってきた彼とはまるで志が違った。
二人の初対面の印象は最悪で、彼女は彼のことを不真面目な男だと眉を顰めたことだろう。訓練や礼拝はサボる、講義中に居眠りをする、先輩の神官や巫女を敬わない、今から思い返せば彼はとんだ問題児だったに違いない。二つ年下の彼女は彼とは正反対の優等生だった。誰よりも熱心で成績優秀な模範生徒、それが彼女だった。
一方彼は不真面目だったが何をやらせても平均以上どころか首席級の成績を保っていて、高位貴族の生まれでなければ相当なやっかみの的にされただろう。だが、幸か不幸か彼は政治的な意味では敵にしようもない存在で、そういう意味では自由気ままに神殿生活を自由に過ごしていた。
その彼に、他の者とは違う接し方をしてきたのが彼女だった。
彼女は誰よりも、血の滲むような努力を重ねてきているのに、生まれの平凡さからその努力と才能が報われない立場に甘んじていた。別に彼女は卑しい身分ではない。しかし、平凡でしかない生まれはこの階級社会では何の価値もない。神殿に入る者の多くが支配階級――所謂王侯貴族で、市民階級という名の平民はそれだけで軽んじられた。そのような状況に立たされれば、殆どのものが諦め、分相応な居場所で妥協するのが一般的だったが、彼女は違った。だからといって権力欲に駆られてのことではない。彼女は自分の力の全てを海都に捧げたいと願い、それが叶う立場を望んだだけだった。そんな彼女だったから敵も多かった。絶世の美女という程でもなく、天才というわけでもない。行儀見習いを兼ねて神殿に上がった良家の令嬢たちからは陰湿な嫌がらせも多かったと後から知ったが、彼女はそんなことはおくびにも出さないで、誰よりも熱心に修練に励んでいた。
初めは珍しいものを見掛けた、程度のものだった。
彼女は彼に、才能があるのに十二分にそれを活かそうとしないのは悪だと迫った。正直神殿騎士になりたくもなかった彼にとっては小うるさい存在でしかなかったのに、いつの間にか彼女の情熱に巻き込まれている自分が、心地好いと感じるようになっていた。それは不思議な感覚ではあったが、しかし不快感はなかった。そして、彼女自身に惹かれていくのも自然に受け入れられた。
そして彼女の情熱と努力は身を結び、彼が筆頭騎士になるのと同時に彼女は筆頭巫女に選ばれた。市民階級からの抜擢は異例のことであった。彼からすれば、霊力の高さにおいても、知識においてもその清楚な美貌においても巫女姫より彼女の方が数段素質が上であると思われたが、巫女姫に選ばれた少女の家柄には敵わなかったようだ。しかし、彼女は自分の努力が認められたことを心から喜んでいた。
『聖婚の儀式が終わったら俺と――――』
彼女にそう告げたのは儀式の半年前のこと。
この頃の彼にとって彼女は何よりも大切な存在となっていたから、彼女のいない未来など有り得ないことだった。故に彼には迷いなど全くなかった。そうして彼女から受諾の返事をもらった時は、喜びのあまりに我を忘れかけたほどだ。そうして、この先の明るい未来を信じて疑わなかった。それなのに……
『巫女姫が死んだ、その代理は筆頭巫女に』
『巫女姫とは海神に捧げる贄のこと。海都のためにその身を捧げるんだ』
『お前は海都のために全てを捧げることを望んでいたし、そうと誓っただろう』
高位神官たちの甲高い声が禍言のように耳に纏わりつく。粘着質で生温い湿度を孕んだそれは、聞いている側から不快感しか感じられない。
一体何がどうなって、今の事態を引き起こしたのか。何故巫女姫は死んだのか、神官長は何故巫女姫を外へ逃そうとしたのか。
何故、何故、何故―――――!
気がつけば、彼女は永遠に手の届かない場所に逝ってしまった。彼女は最終的に幼い頃からの望みを叶えたのかもしれない。けれど、彼女がそれと引き換えに知った真実はそれ以上の絶望を齎したに違いなかった。
『ねえ、一体私はこの美しい海の向こうに何を見ていたんだろうね』
『…………』
夕陽を頬に受けて、呟いた彼女の横顔はひどく美しかった。神々しいとも言えた。彼女の中に結ばれた決意を変えることが出来なかった失意に沈む彼に、彼女は今でも思い出せるほどはっきりと思い出せる鮮やかな笑顔を見せた。今まで見た彼女の表情の中で一番綺麗な表情だった。それが彼女を見た最後だった。
『どうか、私で最後にしてほしい』
未来を喪った彼女の最後の願い。
それが彼の全てになった。
彼女が冥い海の底に消えてから、彼は全てを棄てて彼女の願いを叶えるために全てを捧げた。初めは海都の古文書を読み漁り、そして神官長の残した手記を見つけたのは神官長の遺志なのか、彼女の導きなのか。
手掛かりを辿り、大陸を何度も縦断するほどに駆け回り、漸くたどり着いた先にあったのはあの日の彼女にそっくりな瞳を持つ少女。
運命の鍵穴にカチリと鍵が填まったような、そんな快感。
やっと掴んだ、『未来』
唯一無二の約束のために彼はここにいる。
「カレンシェリナ……」
彼女の名前を唇に乗せるだけで、甘く切ない想いに囚われる。胸を刺し貫くような痛みとともに生きてきた彼に、やっと見えた光。
(もうすぐ、もうすぐだ……)
この日のために、これまでの痛みはあったのだと信じたい。彼女の――カレンシェリナの祈りに神が本当にいるのなら応えてくれるはず。だから、
(――どうか見ていてくれ)
祈るように瞳を伏せていたナイジェルはゆっくりと顔を上げる。
目の前には海都の民が神と信じた魔物がいた。瞬きもせずにそのおぞましい姿を見据えて、彼はそっと胸元に忍ばせたそれに手を伸ばした。




