5 雪が降っているよ。
あと五分。
デフォルメされた壁掛け時計の文字盤に度々目をやりながら、店の掃除をした。
あまりお客さんの多くない土日は、入念に掃除をする。壁の絵や時計、飾り、テーブルのクロスの上などは、はたきではたく。それから商品の合間を縫って、テーブルを水拭きして、別の乾いた布巾で乾拭きする。
小さいシャンデリアやお伽話の切り絵のモビール、星の飾りが下がる天井。エッチングの天使絵、モジリアニやクリムトの複製画や、アール・ヌーヴォー調の鏡、シンプルな白い額、金属の枠の鏡などが壁にかかる。天道虫や蝶々や猫をモチーフにした、銀のアクセサリーを展示するガラスケース、石膏の彫りもの細工が台になっている砂時計にはさらさらと虹色の光沢を持った白い砂粒が流れ、ステンドグラスの置物はほんのりと光を受け、色とりどりのアロマに、赤いガラスのランプが調和している。
燭台に目を留める。はたきをかける。
僕が「Calm」で仕入れをするようになって痛感したのは、売れるものを仕入れ、ディスプレイするのが、如何に難しいか、ということだ。
ただの売りものなら、仕入れて、置いておけばいい。だけど、商売なのだから、売らなければならない。
親父とお袋が如何に工夫して品物を配置しているのか、分かるようになった。例えば、アクセサリーでも、動物のモチーフのものと、花のモチーフのもの、アンティーク調のもので分けておく。似た雰囲気のピアスや、指輪などは、近くに配置する。店側で連想を働かせることで、好みに合ったアクセサリーの一通りを、まとめて買う人がいる。
最初は親父とお袋が選んだ商品の中に、どう調和する品物を仕入れるか腐心した。初めて仕入れたアンティーク調の燭台が売れなかったからだ。どうして売れないのだろう?と悶々としながら、タペストリーや鏡なんかを仕入れ、試して、ようやく商品が売れた。
その商品を仕入れたのは些細なきっかけだった。
日向ちゃんが淡いピンクの薔薇柄のマグカップを案外気に入っていたのを思い出して、似たようなテイストの便箋セットを仕入れてみたのだ。
「お願いします」
レジに立つと、そのお客さんは便箋セットを持っていた。
びっくりして、嬉しくなって、理解できた気がした。
誰が、どのように欲しいと思うか、考えながら仕入れるようにすればいいのだ。例えば、日向ちゃんが欲しいと思うかどうか。自分が使うかどうか。
そんな場面で、日向ちゃんの存在が僕の中に、ほんのり宿っている気がして、なくてはならないものになっている、と感じたのを覚えている。
葡萄の蔦の燭台はまだ店頭に残っている。
それにしても、あの頃よく日向ちゃんはお店に遊びにきてくれていたのに、よく僕は白々しく親父とお袋に黙っていたなぁ、と思う。日向ちゃんも飄々としているからあまり僕の両親に頓着していなかったようだし、純粋に店を面白いと思って来てくれている節があったけど。
掃除をしていたら、キャリアウーマン風の女性が入ってきたので、「いらっしゃいませ」と声をかける。彼女はゆっくりと店内の商品を眺め始めた。
ガラス窓をワックスかけて拭こうとしたら、レジ奥にいた親父がそばにやって来た。
「やす、終わっていいから、とっとと行って来い」
「え?」
「こういうのはな、スピード勝負なんだよ」
うんうん、分かっているぞ、と匂わせる言い方をされて、一瞬意味が分からなかったが親父が勘違いしているのを思い出して、「ああう」と変な返事をした。
そうだ、親父の誤解を解いてないんだった。僕と日向ちゃんが喧嘩して日向ちゃんが出て行っている前提で話している。早く日向ちゃんのところに行って来い、ということだ。
時計を見るとあと十分で十六時。いっそのこと、このまま喧嘩で実家帰りされたと思わせていた方が、親父が早くに送り出してくれそうだ。
「そのお言葉に甘えようかな・・・」
「おう、そうすればいい。日向ちゃんに鰤大根、結構良かったって言っておいてくれ」
よし。鰤大根のレシピを教えにもらいに行った嫁のもとへ行こう。
親父すまん。
ところが、昨日今日と、変わった出来事というのは続くものらしい。
エプロンの紐を解きながらレジの奥に行こうとしたところ、丁度お客さんがレジに立った。
「お願いします」
いやーお客さんタイミングがいいわー、と心の中でぼやきながら振り返って、レジの台に置いてある商品を見つけ思わず「あ」と小さく呟いた。
表に出ると、既に日が暮れていた。最近日が短くなったな、と感じる。
薄暗い商店街を歩く。シャッターを早々に閉める店もちらほらある。
黒いジャンパーを着込んでばっちりファスナーを閉めても、凍りついたような寒い空気が隙間から入り込む。手がかじかむので、ポケットに手を突っ込んで、途中顔見知りと出会って挨拶の会釈をしながら、小走りで商店街を抜けた。
町の駅のホームは遮るものがなく、冷たい風が吹き抜けて行くので、ホームに立っているととても寒い。蛍光灯はホームを明るく浮かび上がらせる。
電車を待ちながら、チョコレート色のスマートフォンを取り出して、メールを作成した。
彼女の実家は下り電車で一時間の、終点にある。この駅の周辺は栄えているけれど、彼女の実家のある町の最寄駅は、近くに店が数件建っているだけで、駅を降りるとほとんど住宅ばかりだ。
考えてみれば、夜なのに、よく僕は閑散とした街に彼女一人で行かせてしまったよな、と思う。十時過ぎだと暗いし寒いし。やっぱり止めるべきだった。お義母さんが心配しているのは、帰るの帰らないのより、寧ろ日向ちゃんの身の安全だろうな。なんだか申し訳無い。
メールの本文に随分前に撮った葡萄の蔦の燭台の写真を貼り付ける。
To:日向ちゃん
売れた。
送信。
ちゃんと見てくれるだろうか。
日向ちゃんには感謝している。だけど、商品を仕入れるのに、日向ちゃんの力をずっと借りているような気がして、少し引っかかっていた。やっぱり、自分の力で、自分が〝いい〟と思えるものを売りたかったから。
閉店間際にやって来たあのキャリアウーマン風のお客さんは、アンティーク趣味でいいなと思っていたのよ、と一声かけてくれた。
商品を仕入れた日の、期待と不安が拾われたような気がして、何故か心がすっとした。
僕が仕入れた商品が売れないんだ、と拗ねて愚痴ったときに、「大丈夫さ」と言ったのは彼女だった。
「君がいいと思って仕入れたのだから、違う誰かもいいと思うさ。お値段が少し高いだけだよ、きっと。いつかそれでも欲しいと来る人がいるさ。そうして待ち続ける物もきっとあるのさ」
思い返すと、一人の人間が好きなものが何なのか考えたり、知ろうとしたりするのは初めてだった。
相手の勝手な行動を、その人の言い分を認めて、許したのも初めてだった。
彼女がきりっとしていて、自然と尊敬できる人物である以外にも、僕には彼女を愛す根拠はある。
腹が立っても、どうしても彼女を許したくなる。離したくなくなる。
ちょっとしたフォローをしてくれたり、言葉をかけてくれたりする。
落ち着いた言葉を、凛とした佇まいを、僕を待っているときの表情を、思い出すと胸が温かくなる。
過去に恋人、と呼べる人がいても、そんな気持ちをくれたのは、日向ちゃんだけだった。
どんなマグカップだったら彼女は気に入るだろう。
そんな、他人に対する思慮を愛情と呼ぶのなら、僕は日向ちゃんから人を愛する心をもらった。
白い息を吐き、あれこれを思い出していると、ちらりと白いものが線路に着地したように見えた。瞬きすると、また違う所にちらりと、白いものが落ちる。
それをきっかけにしたように、後から後から、降って来る。
寒空を見上げた。
ああ、天気予報通り、降って来た。
無数にふわりふわりと落ちて来ているのが見えた。線路に枕木に白く散り落ちて、ホームの端を濡らす。
天気とは不思議なもので、素晴らしい晴れた青空を見上げればそんな日を思い出し、嵐の様な雨の日を見ればそんな日を思い出す。瞬時に、その天気の印象的な記憶を呼び起こす。まるで重石が取れて、水の底から浮かび上がる様に、自然に、その記憶は蘇る。
どうしようもなく、切ない様な、哀しい様な、虚しい気持ちになるよ。
心から、彼女に会いたくなる。
首に巻いたマフラーに口元を埋めて、視線を落とした。
雪は屑々と駅のホームに線路に屋根に、町に降る。
日向ちゃんは、今、外の様子を知っているのだろうか。
雪が降っているよ。
雪が降る。