2…殺伐gamer-Part/γ3
「やぁッ!」
「ァっ!」
ギン、ギン、ギン、と重たい金属音を響かせ、ヒバリと幽霊との戦いは続く。
向こうが刀を振れば、ヒバリはチャクラムで器用にそれを弾き頭部に蹴りを入れる。幽霊はそれをものともせずにかわし、再び刀で袈裟斬りにしようと振りかぶる。
「ふむ」
私は顎の下に手をあて、
「不思議なものだと思わないか、氷室」
「え? まぁ、何を今さら、って感じだな」
ヒバリは押しも押されもせず戦っているが、どこか余裕のありそうな表情にも見える。
必死に、というよりは楽しんでいる感じだ。
「こうして私達が普通に立っていられるのも、私達が無事に生きていられるのも」
「うむ」
「なんだか不思議なものだと思わないか」
「まぁなー」
「だが、私はひとつ思うわけだ。氷室、私の悩みを聞いてくれるか」
「はいはい、なんですか」
ぐぅう~……。
「腹が減った」
「……んなこと言われても」
「お前ならその辺の死体とか、理科室の薬品とかでも調理できるだろう。早くしろ」
「俺はどこかの魔法少女か」
氷室は苦笑する。
「帰れるまで待てよ」
「もう待てん。ここで飯を食わせてくれるまで私は動かないからな」
床に座り、あぐらをかく。
木の床はほどよく湿っていて、絨毯のような柔らかさがある。涼しげな夜の月と相まって、たいそう雅な気持ちにさせられる。
目の前で殺し合いのひとつでもしていなければだが。
「いっ、意外と……しつこいっすね……!」
ヒバリはそう漏らしながら、
「ふんッ!」
チャクラムの嵌められた左の拳で、アッパーカットを決める。
「ゴっ」
幽霊はかわしもせずに、顎に一撃を受けて浮かびあがり、天井へと後頭部をしたたかに打ちつけた。
ボゴ、という鈍い音を立てて、手に握っていた刀を取り落とす。
「うっわ。絶対意識飛ぶレベルだぞ、あれ……」
氷室は苦々しい表情を浮かべる。
幽霊はそのまま気を失ったように、どちゃ、と液体じみた音を立てて廊下に倒れ込んだ。倒れた場所からは血の様な赤黒い液体が流れ出し、ぐったりと動かない。
「……動かないな」
「つまり、やっつけた……ってことか?」
私達が並んで立ちつくすと、ヒバリが「ふぅっ」と溜息をつき、額をぬぐう。
「なかなか骨のある相手だったっすね~」
「おいおい、刃物で殴ってる訳だろ。へたすりゃ相手死ぬぞ」
「もう死んでるっすよ? 問題ナッシングっす。無くて七癖っす」
ヒバリは振り返ってにひ、と氷室に駆け寄ってきた。
「氷室さ~ん、どうっすか? 自分、結構出来るんすよ。惚れ直してくれても……いいんすよっ」
「そう言うことは冗談でも言うなって。隣に危険人物がいるだろうが」
「何だと?」
「もーぅ御琴さん、怒るとお肌に悪いっすよ? ストレスは美容と健康の敵っす」
「ふん」
もっともらしい事を言うようになったが、私にとっては心配に足ることではない。
「そんな事をしなくても、私はずっと美人のままだからな。原河の家系は代々、女性には美人しかいない」
「なんだそりゃ!? 初めて知ったぞそんな事実」
「私とお母様を見ていればわかるだろう」
実際に、原河の家系には美人が多いらしい。それはたびたび聞いていた事でもあり、お母様を見ればあながち間違いでもないことが分かる。
反面、原河の家の男性はたいていろくな目を見ないことが多い、らしい。私の父然り、なかなか長生きしたり成功を収めたりすることが無い、らしい。原河は遺伝子レベルで、女性に優位な家なのだ。
「いろいろと、女は得だな。男にはわからない色々な物を背負っているが」
「そうっすね。男にはわからない、あんなことやこんなこと……」
「へぇ……?」
氷室は疑問符を頭に浮かべながら、それでも曖昧に頷いている。
「んもー、氷室さんは女心が分かってないっす」
「ハハハ、よく言われるよ」
氷室とヒバリが二人で笑い合うと、私もなんだか微笑ましい気分になるのだった。
「さぁ、氷室。早く帰るぞ。そして私に飯を振るまえ」
「はいはい。ま、今日も何か涼めるものを作ってやるよ。コーヒーゼリーとかな」
「ぜりー……氷室さん、それ、自分は作った事ないっすかね?」
「え? 一回くらい教えた気がするけどな」
「まぁ、何でもよい。美味い物なら、な」
「ハードルをあげてくるっすねぇ」
ひとしきり会話を終えたところで、私はとりあえず足先を幽霊の死体に向けた。
「…………」
相変わらず倒れたままで微動だにしていない。見事な死にっぷりではある。とっくに死んでいるのだろうが。
黒い髪をおどろおどろしく半端に伸ばし、うつ伏せに倒れているそれは、やはり身体つきから男の物らしいことが窺える。
廊下の床に広がる赤い液体はひんやりとしていて、触ってみるとねたねた、と糸を引くほどだ。さらに言えば腐臭の様な物も漂い、中々に気味が悪い。
「これはやはり、間違いないな。しかし、なぜ私達の身を狙うのか」
明らかに敵意を以て、こちらへ向かってきていた。おまけに刀という長得物まで携えて、だ。こちらにヒバリがいなければ、私とて死んでいたかも分からない。
「御琴、お前、こんなやつに恨まれるようなことしたのか?」
「覚えはないが」
もしかしたらやっているだけで、覚えていないのかもしれないが。
「ともかく、このまま放っておくのはなんとも後味が悪いな。どうする氷室」
「う~む」
とっぷりと考え込んだ後、氷室は顎に手をあてておもむろに呟いた。
「放っておこうぜ」
「え~」
「お前がぶーたれてどうすんだヒバリ」
唇を尖らせるヒバリにチョップをかまして、氷室は続けた。
「持って帰ってもただ邪魔なだけだし、臭いし……食材に腐臭が移っても困るしな。仮にも俺達がいるのは旅館な訳だから」
「ふむ、確かに家を汚されるのは困るな」
「それに、幽霊なんだから勝手に成仏とかするんじゃねぇかな……放っといても消えてなくなりそうだし、解剖しても何が分かるわけでもなさそうだし」
「まぁ、確かにそうっすねぇ」
「ヒバリ、お前が殺すからだぞ。生きていれば事情聴取くらいは出来そうだったものを」
「自分のせいっすか!?」
ヒバリがうろたえるのを横目に、私はもう一度、幽霊の死体(おかしな表現ではあるが)を見下ろす。
ぐったりとした身体と、汚れた容姿、ただよう腐臭。確かにこれ以上はどうしようもなさそうである。しかし、
「勿体ないな」
私の口からは、自然とそんな言葉が漏れた。
「せっかくの貴重な機会だというのに、勿体ない。勿体ない」
幽霊。
おまけに刀を持っている。今までたびたび話題に上がることもあり、よく桐葉や青嵐とふざけて話をしていたりしたものだ。青嵐の妙にリアリティな物語に桐葉が震えあがり、ベッドにもぐりこんでしまうこともしばしばあった病院の一室での思い出。
リアリティがあるとは言っても、そこはすれ、たんなる空想だ。幽霊なんていないモノ――誰もがそんな先入観のもと、娯楽として楽しんでいた。
それが今、目の前にいるのだ。ただ殺してハイおしまいでは、後ろ髪をそっと握られているような気持ち悪い後悔の念が残る。
「と、言ってもっすねぇ」
ヒバリが後ろ頭を掻きながら、
「こればっかりはしょうがないっすよ。折り合いつけて見切るのも大切っす。塞翁が馬っす」
「何があるか分からんからな。勿体ないけど諦めようぜ、御琴」
「…………う~む」
見上げると、氷室も苦笑交じりに、
「ま、幽霊なんて滅多に見れたもんじゃないし、お前が気になるのも分かるけどな。ちょっとこれは、勘弁して欲しいな」
「氷室……」
「仮にも、お前ん家の厨房を借りてる身だからさ。分かってくれよ」
困ったように告げられると、いよいよ私も立つ瀬がない。
「……分かった」
渋々、そう告げるよりほかないのだ。
倒れた幽霊を目の前にして、私はうなだれるように頷いた。
「仕方ないな。今回のところは諦めてやるとしよう」
ふん、と息をつく。
「大人になったなぁ、御琴。前はこれをする! って言ったら聞かないガキだったくせに」
「いつの話をしている。女は、目を覚ますたびに磨かれるのだ。……いつまでも子供扱いするんじゃない」
ふんっ、とそっぽを向いて見せると、氷室は呆れたように溜息をつく。
「まだまだガキだよ、御琴は」
「はッ。お前に言われたくないね」
「んーふふ。お二人とも、似た者同士っすねぇ」
「とにかく帰るぞ。早く階段を辿って私は飯を食うんだ」
私が幽霊の横を通り過ぎて進もうとした瞬間に、
ぱし。
と、乾いた音を立てて――
「……!」
私の左の足首を、幽霊の手が握り締めていた。
「ウウゥ……」
唸り声を上げながら、こちらを覗く真っ赤な瞳。
うつ伏せの状態のままで、手だけが私の足首を握りしめている。細くひんやりした指が絡みつき、私の足を完全に固定している。
動けない。
「おらッ!」
一瞬だけ硬直していた私の代わりに、氷室が動いてくれた。幽霊の脇腹に爪先蹴りを入れる。
ドス、と気味のいい音がして、幽霊の身体は数メートル先まで吹っ飛んでいく。はずみで指も離れたようで、私も自由を手に入れた。
「ふい、あぶねーなぁ。大丈夫か、御琴?」
首をこきり、と鳴らして氷室が尋ねる。
「ああ、何とか……驚きはしたが」
「しっかし氷室さん、ナイスキックっすねぇ。ワザマエっす」
「いや、東京いたら嫌でも喧嘩慣れするもんだぜ。道端で絡まれるなんてしょっちゅうしょっちゅう」
絶対嘘だ。東京がそんな殺伐とした町でいられるわけがない。仮にも法治国家のおひざ元だ。
「どうせ、槍介になにか吹き込まれたんだろ?」
「いえいえそんな」
まぁ、あいつのことだから誰に何をどうしていてもなんら疑問ではない。とことん自由気ままに勝手な事をするやつだからな。
「氷室さん、御琴さん!」
ヒバリの刺すような声で、はっと我に返る。
「あいつ、まだ元気みたいっすよ! 医者の不養生っす!」
「元気満々だな……!」
幽霊はゆらり、と立ち上がって、こちらをぎらりと睨んでいる。
刀こそ無くなってしまっているが、ただこちらを睨むだけでもかなりの迫力がある。正直、何も知らない奴が放り込まれれば失神していてもおかしくないだろう。
私達がこうして平常心を保っていられるのは、ひとえに天使などと言う非常識な存在に慣れ親しんでいるからに違いない。
さて。
「どうする?」
「もう一遍、自分がやっつけてもいいっすよ?」
「う~ん、確かにただ逃げてても追っかけてきそうだな。どうするか」
こんな状況下でも、わりあい私達は落ち着いていた。
「ウゥ……!!」
幽霊はそんな私達の様子を不服にでも思っているのか、一層強く唸り声を上げる。
そして、少しだけ身体を屈めると――
「――オォっ!!」
まるで獣のように、こちらへ飛びかかってきたのだ。
「っ!」
驚異的な跳躍力。
人間の常識から考えると、かなり異常な距離をひと跳びに詰めてくる。それでいて速い。
反応できない私達の視界には、さらに異常な光景が飛び込んできた。
突然、幽霊の頭が、首からすっぱりと吹き飛んだのだ。
「御琴!」
続けて聞こえてきたのは、声だった。
鈴を鳴らすようにか細いが、はっきりと強い意志を秘めた声。首を切り離され、崩れ落ちる幽霊の身体の向こう側に、その声の主がいた。
そこにいたのは、巨大な鎌を手に握ったイロウだった。
「大丈夫?」
「グッドタイミングだ、イロウ」
私がサムアップすると、イロウはホッとしたように溜息をついた。
「よかった……」
「後で上手い飯を振る舞ってやる。氷室とヒバリがな」
「俺達かよ」
「自分らっすか」
○
首を切断されると死ぬのは、幽霊も一緒のようだ。
イロウの鎌で首を切り落とされた幽霊は、今度こそ動かなくなるどころか、胴体はあっという間に風化して、まるで砂が風に舞いあげられるように消えて行った。
落とされた首も同じように消えてしまったのか、いつの間にやら影も形も無い。
「あぶなかった」
イロウはいつも通りの調子で呟いた。
「しかし、よくあのタイミングで戻ってこられたものだ。狙ってたのか?」
ふるふる。
「たまたま」
「女の勘ってやつか。鋭いもんだな」
氷室が感心したように言うと、イロウは少しだけ顔を赤らめて俯いた。
「それよりもイロウさん、結局、だれか見つかったんすか?」
話を切り直すように、ヒバリが尋ねると、
「…………」
イロウは少し困ったように、頷きも否定もしなかった。
はじめてみる表情だ。
「どうした?」
「……」
首をかしげている。イロウは何と言ったらよいか分からないような、そんな調子だ。
「誰もいなかったから喋らないんじゃないのか?」
「いや、イロウはそう言う時ははっきり言うからな。別の理由があるのだろう」
こくり。イロウが頷いた。
「なんとも……」
そして、短く一言、そう呟いた。
「いいがたい」
「? ……まさか、お前も幽霊みたいなのに会ってたのか?」
ふるふる。
氷室の言葉に、イロウは首を振って否定の意。
思わず腕をくんで、考え込んでしまう。はて、これはどういう状況だろう。
三条たちを探しに行かせたのは私だ。そしてそれを言い出さないということは、彼女たちを見つけたわけでもなさそうだ。幽霊とやらを見つけたわけでもないらしい。
となると、可能性は絞られてくる。
「何があった?」
ストレートに尋ねてみると、イロウは少し目を見開いて、
「知らないひとがいる」
「知らない人……っすか」
こくり。イロウは首を縦に振った。
「見たことない、ひと」
「じゃあ、俺達以外にもここに来てるやつがいるってことか」
氷室の言葉が正しいだろう。私も肯定する。
「それで間違いないだろう」
「よかったな御琴。この廃校の中に、お前と趣味の合う奴がいるらしいぜ?」
「なら、まずはこの迷路を抜け出すことからだな」
そう、現状私達はこの無限に続く階段から抜け出すことが出来ないでいるのだ。これをどうにかしない限り、状況は進展しない。良くも悪くも、だ。
「イロウ、別の階には行けたか?」
こくり。
「そうか。では、三条たちを見つけたか?」
ふるふる。
「いろいろ、やったけど」
「ほう、どんな事を?」
「変な置物を置いたり……ガラスを割ったり……」
たのしかった、とイロウは微笑むが、ともかく、ここから三条たちのいる場所へは、どうにかして繋がっているということだ。
つまり、私達がそこに辿りつけないのは道理が合わない。どうにかすれば、この堂々巡りから抜け出せるのだろう。
「しかし、どうするよ」
氷室が腕を組み、
「だとしたって、現に俺達は階段で別の階に移動できない訳だろ? 廊下を真っ直ぐ進んだって、また階段があるだけだ」
「うむ、おかしな話だな。イロウ、お前はどうやって移動した?」
「階段をおりて」
そうなると、この階段は別の階に繋がっていることになる。
「……う~む」
「難しい難問っすねぇ」
「意味が被ってるぞ」
こんな時でも、私達は相変わらずだ。
「ともかく、イロウの言う通りに階段をもう一度通ってみるぞ。なにか変化があるかも知れん」
「そうっすねぇ。あの変なのをイロウさんが消してくれたから、状況は進展してるかもしれないっす。蛍雪の功って奴っすね」
「夏真っ盛りだけどな。ま、何事もチャレンジだろ」
こくこく。
イロウも頷くことで肯定の意を示した。
私達は再び4人そろって、廊下を少し進んで階段へと足を踏み入れ、かつかつ、と音を立てて下っていく。
ひとつ下の階に着き、窓からの景色を確かめると、
「ちょっと、地面が近くなってるな」
氷室が窓から半分身を乗り出して、そう告げた。
「下の階についたみたいだ」
「そうか」
言いながら、氷室の背中を掌で思いっきりプッシュしてやる。
「うをあああああああ!? 何やってんだお前殺す気か!」
「バカは死なねばなんとやら、だ。一度死んで、あの幽霊みたいに戻って来い」
「いきなりどうした!? てか止めろ! お前、細っこい癖に力強いな……やーめー!」
必死で叫ぶ幼馴染に、寛大な私は背を押すのをやめてやる。
氷室は廊下にどっかり、と座りこみ、
「はぁ、マジで死ぬかと思ったわ! 御琴、今のは冗談きついぜ……」
「ともかく、あの幽霊がやはり鍵だったわけだな。あれを排除したことで、階段のループが途切れたわけだ」
「てことは、自分とイロウさんのお手柄っすね!」
「よかった……」
ヒバリとイロウは一緒になって嬉しそうにはにかんでいる。
まさしくお手柄だ。アレばかりは私と氷室でも、どうしようもなかっただろう。天使という、心強い味方のいたおかげと言える。
「助かったよ」
「えへへ~、もう、御琴さんったら。褒めても氷室さんの命くらいしか出ないっすよぅ」
「さらっと何言ってんだ俺の守護天使」
そんな会話を含めて、どうやら私達は危機を脱したようだ。一応、解決したと言える。
嵐のように過ぎ去った時間だったが、
「まぁ、なかなかに面白かったな。いい物も見せてもらった」
「……ホント、お前ってば相変わらずだよな」
「何事も楽しむことが、人生の調味料だ」
実際、そうでなければ私はとっくにダメになっていただろう。
父が亡くなった日も、氷室がいなくなった日も。そればかりにとらわれずに、新しいことを探し、楽しみ続けることで、私はずっとこうしていられた。
「それを今さら、曲げてなるものか」
「御琴さんは、強い人っすね」
ヒバリが呟き、氷室が笑う。
「俺も、見習わないとな。そういうところは」
「お互い様だ」
こくり。イロウがひとつ、頷いた。
「結局、似た者同士」
まぁ、そうなってしまうのだろう。
結局、私も氷室も、性根が似ているからこうして一緒にいられる。
似ている人間を見つけるのは、思った以上に難しい。私達が共に過ごせる日々は、まさに運命の巡り合わせ、だ。
「ともかく」
そんな事を口に出すのも小恥ずかしいので、私は少し氷室から顔を背けて、
「三条たちと合流してみるか。向こうも向こうで、どんなあり様か確かめてみるのも一興だ」
「趣味悪いなぁ」
氷室の言葉に、私は肩をすくめた。
「私よりも趣味の悪い奴なんてごまんといるさ。青嵐だとか、槍介だとかな」
「はは、青嵐さんはともかく、槍介はそうかもしれねぇな」
「さ、行くぞ」
「お~っす!」
「お~……」
私達はとりあえず、今いる階の廊下を真っ直ぐ進むことにした。
廊下の奥は当然のように真っ暗で、視界も悪い。しかし、窓から差し込む月の光が、しっかり行く末を照らしてくれている。
不思議と、気分が高揚するのも、私の性分だ。この先でいったい、何が起こるやら。
私達はゆっくりと廊下を踏みしめ、軍歌を歌うように意気揚々と歩きだした。
○
もしもし、お兄ちゃん?
うん、そう。なんかね、『ターゲット』を先に倒されちゃった。
そうそう。長い黒髪の、おっきな鎌を持った天使に。
うん、うん……大丈夫。多分、気付かれては無いから。……フリをしてるだけ? 流石に、それは無いと思うけど……。
うん、だって『ターゲット』に足首つかまれて、すっごく動揺してたし……。
…………。
……電話口で、大声で笑うのやめてよ……耳が痛いよ。
お兄ちゃん、ホントあの人のことになると必死って言うか……一生懸命だよね。
……大事な人だから、かぁ。うん、うん……。
まぁ、私にとっても親戚みたいな人なんだろうけどね……。
うん、分かってるよ。ちゃんとノルマはこなすから。すぐ移動して、もうちょっとやっつけておくね。大丈夫、困った時は戻るから。
すぐ戻ってこられるかって?
安心してよ、お兄ちゃん。私を誰だと思ってるのさ。お兄ちゃんの妹なんだから、気にしないで。
お互いにこんな仕事だし、集中しよ。
うん、じゃあ切るね……うん……帰ったら、また宿題手伝ってよね。
それじゃ。
「う~ん」
私は背伸びをして、もう一度、窓の中を覗き込む。
長い黒髪をたなびかせ、さっそうと歩くその人は、同じ女性として見ても格段に――かっこいい。
お兄ちゃんが気にかけるのも、分かる気がする。あんなに綺麗な人なら、異性の気を惹かずにはいられないのかもしれない。
もちろん、お兄ちゃんに限って、そんな目であの人を見ることは無いんだろうけれど……。
「いけない、いけない」
首を振って気持ちを整える。
仮にも、アルバイトの途中。余計な事を考えてちゃいけない。
「綾矢」
私の隣に浮かぶ女性が、尋ねかける。
紺色の癖のあるロングヘアと、色白で細身の身体。黒い服に身を包んでいるせいで、余計に細く見える。口元には笑みがたたえられているけれど、真っ黒い瞳は少しも笑っていない。
本人は笑っているつもりなんだろうけれど、全然それが伝わってこない。肩書通りに、ひねくれた正確なのだ。
「上の方にもうちょっといそうね。行ってみましょうか?」
「うん」
彼女の言葉に従って、私は上を目指して、
跳んだ。
2階部分の窓枠を蹴って、壁に足をつき、屋上へ向かって駆ける。
隣にはさっきの女性が付いてきている。彼女は自分で浮いていられるから、私みたいに壁を走る必要はない。
「うんうん」
彼女は今度こそ、嬉しそうに微笑んだ。
「だんだんと使いこなし始めてるわね、吊り男の力。なんだか嬉しいわ」
「ありがとね、キサラ」
最後に一段壁を蹴って、廃校の屋上へ着地する。
キサラの言うには、この辺りに『ターゲット』の気配を感じるらしい。しかし、
「……誰もいないじゃん」
屋上は屋上らしく、誰一人としていない。ターゲットは愚か、ちいさな虫すらいなさそうな雰囲気だ。
夜風だけが虚しく、私のほほを撫でる。
「あらァ、ごめんなさいね」
キサラは悪戯っぽく笑って、
「屋上にはいないみたいね。クスクスクス……」
「わざとなの?」
「いいえ? 私は真剣よ。ただ、ちょっと私のほうは慣れてないのよねぇ、こういうのに」
キサラは紺色の髪を風になびかせて、私の前に躍り出た。
「とりあえず、探して見ましょう? 屋上にはいなくても、この辺りにはいそうな気がするのよ」
「……はぁ。分かったよ」
私はしぶしぶ頷いて、キサラのあとについていく。
屋上から見上げる、満天の星空と、明るい月。
私は見上げて、はぁ、と一度溜息をついた。
父さん、母さん。
私はこんなですが――
「さっ、――やりますか」
なんとか、元気でやってます。