第十一章 帝都への道
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第十一章 帝都への道
砦に戻ったのは、出発から五日後だった。
門をくぐると、エリアスが待っていた。
いつもの無表情だったが、アルスを見た瞬間、その目が少しだけ緩んだ。
「生きていたか」
「生きていました」
「ロイも」
「俺はいつも生きてる」ロイが後ろから言った。
エリアスは小さく頷いた。それだけで、三日間何も言わなかったことが伝わった。心配していた、という言葉を、この人は使わない。
「将軍が待っている」
ゲオルグ将軍は、報告を最後まで黙って聞いた。
ヴァルターが名前を知っていたこと。両国の記録が一致したこと。将軍が安全な経路を案内させたこと。
全て話し終えると、将軍は長い息を吐いた。
「ヴァルター・シュミットは、動くと思うか」エリアスが聞いた。
「わかりません」アルスは正直に言った。「ただ、あの将軍は、知った上で放置する人間ではないと思います。どう動くかは、将軍自身の判断です」
「こちらがコントロールできない変数だ」エリアスは言った。
「はい。ただし、悪い変数ではないと思います」
将軍は地図を見ていた。
「橋を落とした部隊が戻った」将軍は言った。「三箇所のうち、二箇所は成功した。一箇所は敵の斥候に見つかり、退いた」
「進軍速度は」
「予測より遅い。ヴァルター軍が、慎重になっている」エリアスが言った。「理由は不明だが、昨日から動きが鈍くなっている」
アルスは、少し考えた。
ヴァルターが慎重になっている。
昨日から。
アルスが野営地を出たのが、昨日の朝だった。
「将軍が、考えているんだと思います」アルスは言った。
エリアスとゲオルグは、アルスを見た。
「裏切り者の助けを借りた形になっている進軍を、どう整理するか。あの人は、そういうことを気にする将軍です」
沈黙があった。
「だとすれば」エリアスが静かに言った。「増援が来るまでの時間が、もう少し伸びるかもしれない」
「可能性はあります」アルスは言った。「ただし、確かではない」
「確かでない話を、判断の根拠にはできない」将軍は言った。「ただし、想定に入れておくことはできる」
将軍は立ち上がった。
「帝都への件、準備を始める。アルス、三日後に出発できるか」
「はい」
「エリアスが書状を用意する。お前が持っていく」将軍は言った。「帝都で会うべき人間の名前も、エリアスから聞け」
「わかりました」
「一つだけ言っておく」将軍はアルスを見た。「帝都は、戦場より複雑だ。正しいことをしても、正しい結果になるとは限らない。それを覚えておけ」
「覚えておきます」
「それと」将軍は少し声のトーンを変えた。「お前を伝令兵のまま帝都に送るわけにはいかない。今日付けで、士官補に任命する」
アルスは、一瞬だけ言葉を失った。
士官補。正式な将校の入口だった。
「俺に、その資格は」
「俺が判断する」将軍は言った。「士官学校の卒業証書より、お前がここ数ヶ月でやったことの方が、俺には重く見える」
エリアスが横から言った。「異論はありません」
アルスは、深く頭を下げた。
言葉が、出なかった。
三日間は、準備と引き継ぎに費やした。
エリアスと毎日話し合い、帝都で会うべき人物の情報を頭に入れた。宮廷の勢力図、各貴族の立場、皇帝の側近の構成。戦場より複雑な地図だったが、アルスは全てを書き留め、読み返した。
ロイは、一緒に帝都に行けないことを残念がった。
「俺は戦場に残れということか」
「ここでの役割がある」アルスは言った。「将軍の傍にいてくれ」
「将軍の守りをしろということか」
「エリアス先輩と、将軍を頼む」アルスは真剣な顔で言った。「俺が帝都にいる間、ここが崩れたら意味がない」
ロイは少しの間、アルスを見た。
「わかった」ロイは言った。「ただし、帝都で何かあったら呼べ。すぐに行く」
「帝都まで何日かかると思っている」
「気合いで三日だ」
「十日かかる」
「気合いで三日だ」
アルスは諦めた。「わかった。何かあったら呼ぶ」
出発前夜、エリアスがアルスを呼んだ。
二人だけで、小屋に入った。
エリアスは机の上に、一通の書状を置いた。
「将軍の書状とは別に、俺個人の書状だ」エリアスは言った。「帝都に、俺の師の弟子がいる」
「ガレン・ロースの弟子が」
「直接会ったことはない。ただ、ガレンが手紙を送り続けた相手だ」エリアスは言った。「宮廷の中に、その人間がいる。名前と居場所を書いた。探せ」
「信頼できる人間ですか」
「わからない」エリアスは正直に言った。「二十五年間、帝都にいた人間だ。変わっているかもしれない。しかしガレンは最後まで手紙を送り続けた。ガレンが信じた人間だ」
アルスは書状を受け取った。
「エリアス先輩」アルスは言った。「先輩は、なぜここに残るんですか。先輩が帝都に行った方が、繋がりも知識もある」
エリアスは少し間を置いた。
「将軍が必要だからだ」静かに言った。「ゲオルグ将軍は、一人では帝都と戦えない。俺がここで補佐する必要がある」
「それだけですか」
エリアスはアルスを見た。
「お前が帝都で動くには、ここで誰かが支えていなければならない」エリアスは言った。「前線が崩れれば、帝都の話も崩れる。俺の場所は、ここだ」
アルスは、その言葉の重さを感じた。
この人は、自分が帝都に行けないことを、わかっていてここに残る。
「ありがとうございます」
「礼は、終わってから言え」エリアスは言った。「終わる前に礼を言うのは、縁起が悪い」
「わかりました」
「もう一つ」エリアスは言った。「帝都で、誰かに試されることがある。お前の素性、知識の出処、老司祭との繋がりを、根掘り葉掘り聞いてくる者がいる。その場合」
「どうすれば」
「正直に話せ」エリアスは言った。「帝都の人間は、嘘が得意な者ばかりだ。だからこそ、正直な人間に免疫がない。お前の武器は、知識と、正直さだ」
アルスは頷いた。
「それともう一つ」エリアスは机の引き出しから、小さな包みを取り出した。「これを持っていけ」
包みを開くと、中に一冊の本が入っていた。
薄い、古い本だった。表紙に、細かい字で題名が書かれていた。
帝都宮廷案内記 帝暦三百年改訂版
「宮廷の地図だ」エリアスは言った。「建物の配置、各省の場所、謁見の手順。古い版だが、建物はそう変わらない」
アルスは本を開いた。余白に、細かい書き込みがあった。
エリアスの字だった。
「先輩の書き込みが」
「役に立つかもしれない。立たないかもしれない」エリアスは言った。「ただ、知識は持っていて損はない」
アルスは、その本を布袋に加えた。
四冊になった。
老司祭の三冊と、エリアスの一冊。
翌朝、アルスは砦を出た。
護衛として、二名の兵が付いた。どちらも信頼できる古参兵だとエリアスが選んだ。
ゲオルグ将軍は門のところまで来た。
何も言わなかった。ただ、右手を上げた。
それだけだった。
しかしその仕草の中に、将軍の全てが込められていた気がした。
ロイは門の外まで出てきた。
「帰って来い」ロイは言った。
「帰る」
「絶対だぞ」
「絶対だ」
二人は、握手をした。
子供のころ、村を出るとき交わした約束を思い出した。二人合わせて一人前、という話を。
あのときより、少しだけ一人前に近づいた気がした。
しかしまだ、遠かった。
アルスは馬に乗り、街道に出た。
振り返ると、砦の門が見えた。ロイがまだそこに立っていた。
アルスは前を向いた。
帝都まで、十日の道のりだった。
街道を進みながら、アルスは四冊の本を順番に頭の中で開いた。
ハルデン戦役記。知恵を、死者から受け取る本。
地理誌。世界の形を、頭の中に入れる本。
機密戦術集覧。老司祭が二十五年間守り続けた本。
帝都宮廷案内記。エリアスが余白を埋めた本。
四冊の本が、それぞれ違うことを教えてくれた。
しかし根っこは同じだった。
知ることで、動ける。知ることで、考えられる。考えることで、前に進める。
老司祭が七歳のアルスに言った言葉が、今更のように腑に落ちた。
死んだ人間の言葉も、遠くにいる人間の言葉も、ここに入っている。
本の中にある言葉たちが、今のアルスを作っていた。
そして今から向かう帝都で、その言葉たちを使う。
老司祭のために。
将軍のために。
死んだ兵士たちのために。
そして、まだ続くこの戦争を、正しく終わらせるために。
馬の蹄が、街道を打つ音が続いた。
帝都の空は、まだ遠かった。
四日目の夕方、街道沿いの宿場町で、異変があった。
宿に入ろうとしたとき、護衛の古参兵の一人が小声で言った。「後ろに、二人います。昨日から、ずっと同じ距離で付いてきています」
アルスは振り返らなかった。
「気づいたのはいつからですか」
「昨日の昼ごろです。顔を変えていますが、馬の模様が同じです」
アルスは少し考えた。
「グライム公爵の者ですか」
「わかりません。ただ、帝都方面から来た様子はない。砦の方向から来ています」
砦の方向から。
アルスは頭を動かした。
砦にいて、アルスの出発を知っていて、この道を辿れる者。
グライム公爵の息がかかった人間が、砦の中にもいる可能性があった。
「今夜、宿で別れましょう」アルスは護衛に言った。「あなたたちは表から入って、俺は裏から出る」
「士官補殿を一人にするわけには」
「俺を追っている者の目的が俺なら、あなたたちを傷つけることに意味がない」アルスは言った。「俺が一人で動く方が、あなたたちも安全です」
護衛は不服そうだったが、アルスの目を見て黙った。
「合流場所を決めましょう」アルスは言った。「町の東の水車小屋、明朝の日の出に」
その夜、アルスは宿の裏口から一人で出た。
路地を抜け、町の外れへ向かった。
尾行者が付いてくるかどうか、わかっていた。
付いてきた。
一人だった。もう一人は、護衛の方に残ったらしい。
アルスは路地の角で立ち止まり、振り返った。
「話があるなら、正面から来てください」
しばらく沈黙があった。
それから、人影が路地の暗がりから出てきた。
若い男だった。二十代前半、見たことのない顔だった。
しかし着ている服の裏側の縫い方が、アルスには見覚えがあった。
聖王国の仕立て方だった。
「聖王国の方ですか」アルスは言った。
男は少し驚いた顔をした。「……よく気づいた」
「縫い方が違います」アルスは言った。「何の用ですか」
「ヴァルター将軍からの伝言を持っている」男は言った。
アルスは、息を止めた。
「将軍から」
「将軍が言っていた。『帝都で名前を使っていい』と」男は小さな紙を差し出した。「将軍の署名入りの書状だ。帝都の宮廷で、この名前を出せば動く者がいる」
アルスは紙を受け取った。
ランプの光にかざして読んだ。
短い文章だった。しかし将軍の署名と、聖王国の印章が押されていた。
「将軍は、なぜこれを」
「俺には理由まではわからない」男は言った。「ただ、将軍は言っていた。『正しい戦いをしている者を、後ろから撃ちたくない』と」
アルスは、その言葉をゆっくりと受け取った。
ヴァルター・シュミットは、動いた。
敵将が、アルスに援護を送ってきた。
「将軍に、礼を伝えてください」アルスは言った。
「伝える」男は言った。「もう一つ。将軍は言っていた。『次に戦場で会ったとき、手加減はしない』と」
「覚えています」アルスは言った。「俺も、考え続けると伝えてください」
男は頷き、路地の暗がりに戻っていった。
足音が消えた。
アルスは一人、夜の路地に立っていた。
手の中に、書状があった。
敵将からの、援護だった。
老司祭が書き込みを残した本。エリアスが余白を埋めた本。将軍が送り出した書状。敵将が渡した書状。
それら全てが、一本の線になっていた。
一人の少年が辺境の村で本を読み始めた日から、今この夜まで、繋がっている線が。
アルスは夜空を見上げた。
星が出ていた。
ベルン村で見た星と、同じ星だった。
しかし今、その星の下で、アルスは全く違う場所に立っていた。
布袋を持ち直した。
四冊の本の重さが、手に伝わった。
明日また、歩き続ける。
帝都まで、まだ六日ある。
次回もお楽しみに




