契約書の前文は
「……本当にいいのかい、セシリア。こんな理由で結婚を決めてしまって」
閣下と顔を合わせてから二日、我が家の話題は契約結婚一色だ。また今日も兄のハンネスが気づかわしそうに声を上げた。
「すまない、私が不甲斐ないばっかりに……」
「ああ……っ! あの人が早世したばっかりに、孫のあなたにこんな苦労をかけるだなんて……!」
父が、祖母が手で顔を覆い嘆きの声を上げる。ですがお祖母様、お祖父様が若くして亡くなられたことは悲しくありますが、我が家はそれよりずっと前の代から傾いておりましたよ。お祖父様やお祖母様、お父様のせいではありませんよ。
「……お断りしてもいいのよ、セシリア。大丈夫、私たちが、きっとどうにかするわ」
フェール家だけではどうにもならなかったから現状があると重々承知しているだろうに、それどころか、侯爵家のお申し入れを断れば父や兄にどんな影響が出るかと恐ろしく思っているだろうに。母は私の手を握りしめ、ただただ『幸せであれ』と言う。――私も、そんな家族の幸せを願っているのに。
「大丈夫よお母様、お兄様。……お父様もお祖母様も、嘆かないで。私、本当に良いお話だと思ったのよ。きっと悪いことにはならないわ。閣下は契約内容を書面にするとお約束くださって――」
繰り返された会話の途中、ドアノッカーの音が鳴る。兄が「こんなときに……!」と苛立たしげにつぶやき玄関に向かった。我が家には使用人なんていないから。
慎ましい家だ。居間で騒いでいると玄関にまで声が届いてしまう。皆が口をつぐんで重いため息を吐いたとき、兄の素っ頓狂な声が響いた。
何事か、と顔を見合わせ、皆そそくさと扉に向かう。開け放たれたままの扉からそっと玄関を覗けば、驚き固まった兄の向こうには、フォーマルウェアに身を包んだ上品な老紳士が立っていた。
「これはこれは、お出迎えいただき痛み入ります。突然の訪問どうかご寛恕ください。私はラウテル家で家令を勤めております、シモンと申します。どうぞお見知りおきください」
老紳士――シモン氏が胸に手を当て腰を折る。家令と言えば屋敷運営全般を総括する方。当主の右腕のような存在だ。気軽にお使いに出るような立場の方ではないのに、とたまらずあんぐり口を開くと、シモン氏が顔を上げ柔らかな笑みを浮かべた。
「旦那様より、契約書をお届けするよう言付かって参りました」
客人を迎えるに相応しい応接間などなく、ひとまず居間にと思えばやんわりと辞退された。「ゆめゆめご負担をおかけせぬようにと申し付かっております」と温和な笑みを浮かべるシモン氏におずおずと頭を下げ、兄が契約書を受け取る。ご家族の皆様で、と同時に差し出されたのは、手土産の菓子折り。
そっと手招きされ、私は兄の隣に立つ。両親も祖母も、及び腰で後ろについてきた。兄から契約書を受け取り、シモン氏を伺う。彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、柔らかく頷いた。
「どうぞご家族皆様で内容を検めていただければ幸いです。ご不審な点がございましたら何なりとお申し付けください」
ためらいがちに頷き返し、表紙を開く。家族全員で契約書をのぞき込んだ。記載されているのは、顔合わせの際に話し合った内容を、さらに精査してくださったのであろう破格の条件。
フェール家への援助も、兄の後ろ盾となることもきちんと織り込まれた文書には、私が言い出してさえいなかったほどの、『私の意思を尊重する』文章が連なる。
最後まで読み、もう一度じっくりと頭から読み返したころ、シモン氏が胸元から上等な万年筆を取り出した。
「ご納得いただけましたらサインを頂戴したく存じます。一通は当家に、もう一通はセシリア様がお手元にお置きください」
ぐるりと家族の顔を見回せば、皆がとまどいながら頷いた。シモン氏から万年筆を受け取り、二通の契約書にサインを入れる。隣にはすでに、ラウテル閣下のサインが。
いとまの挨拶と共に深々と礼をとり、契約書を一通持ってお帰りになるシモン氏を呆然と見送った。どこか信じられない気持ちがあれども、兄の手に菓子折りが、私の手には一通の契約書が確かに残されている。
侯爵閣下にここまでご配慮いただいてしまっては……と家族全員が黙った契約書。その前文には、こう記されていた。
エルンスト・イェフ・デ・ラウテル(以下、甲という)は、セシリア・デ・フェール(以下、乙という)を正当なる妻と認め、その権利を保証するものとする。甲は乙を生涯の伴侶として尊重し、誠意を尽くすことを約束し、本契約を締結する――








