2026年 秋 3
長い金髪をバッサリ切って黒く染め、耳に針山の如く刺さっていたピアスがなくなり、ギラギラした服装が落ち着いていたからわからなかった。
光希の元恋人で、元同棲相手で、DVを振るっていた最低な男。馬場秀人。
岸さんとの約束で、もう光希にもランプにも関わらないようになっていたはずなのに、どうして。
「なんの用ですか」
警戒心剥き出しの声で言いながら日明がカウンターを出て、迷うことなく光希を守るように招かれざる客と向かい合った。
鋭い眼差しで見つめられてビクリとなったものの、腹に力を込めて見返した。相対しても以前より落ち着いていられた。
緊迫した空気が流れる中、秀人は思いもがけない行動に出た。
「申し訳ありませんでした!」
彼は光希がモップをかけたばかりの床に膝をつき、見事な土下座をしてのけた。
「えっ」
「いったいなんのつもり」
日明は戸惑い、光希は眉間にシワを寄せて冷ややかな声を浴びせかけた。
秀人は土下座したまま、顔を上げずに言葉を紡いだ。
「光希さんに最低なことをしてしまっていたことと、お店にご迷惑をおかけしてしまったこと。どちらも謝罪しにきたんです。本当に申し訳ありませんでした」
真っ直ぐな声に日明と光希は顔を見合わせて、どちらも眉をひそめた。
「とりあえず顔を上げてください。店に被害はほとんどありませんでしたから、それはいいんですが…」
日明が伺うような眼差しで光希を見やると、深いため息をついた。
「なんの恨みもない、なんて口が裂けても言えないけど、もういいよ。その様子だと岸さんから紹介してもらったとこでちゃんとやってるみたいだし。前みたいに人様に迷惑かけてないならいいんじゃないの」
光希から許しの言葉をもらい秀人はようやく顔を上げた。
「ありがとうございます。こんな、こんなオレを、許してくれて…」
顔を上げた秀人の目には涙がこんもりと溜まっていて唖然とした。
「だけどそれだけでは、オレの気が済まないんです。光希さん、どうか気が済むまで、オレのことを殴るなり蹴るなりしてください。けじめをつけたいんです!お願いします!」
「ええっ!?」
「はあっ!?」
今度は驚愕。秀人の情緒に二人はまったく追いつけずに、ただただ困惑するばかり。
「いや別に、あんたなんか殴りたくも蹴りたくもないし…」
「そんなこと言わずにお願いします!」
「だから嫌だってそんなの…なんなの気持ち悪い…」
取り付く島もなく断られた秀人の目が、今度は日明に向いて嫌な予感がした。
「じゃあお兄さん!お兄さんでもいいです!オレをボコボコにしてください!」
「いぃっ!?」
大の男に足元にすがりつかれるという経験を初めてして、思わず大きな声が漏れた。
「日明さんがそんな声出すなんて、珍しい」
光希は感心したように言ってさり気なく距離を取っている。なんて薄情な。
毛虫がゾワゾワ這い回るような感覚がして今すぐ振り払いたい。だけど手荒に扱うのもかわいそうに思えてそうもできない。
エプロンの裾を引っ掴まれて上目遣いに見上げられ、助けを求めるように光希に目を向けた。
「日明さんの判断にお任せしますけど、お店の中ではやめてくださいね」
「そんな他人事みたいに…」
執念深く手を離してくれない秀人に日明が困り果てていると、福音のようにドアベルが鳴り救世主が現れた。
「こら何やってんだ馬場!ぶっ飛ばすぞてめえ!」
「あっ、岸の兄貴!」
秋らしくえんじ色のネクタイを結んだ岸さんが秀人を引っ剥がしてくれた。だけどその剣幕がまるで抗争の真っ最中のように凄まじくて、礼を言う日明の声は情けなく震えていた。
◇
岸さんの紹介してくれた小さな土建屋で働き始めた秀人は、そこで事務員として働く女性と急速に関係を深めた。その結果、女性は妊娠し秀人は責任を取るために結婚することを決めた。
「それでこいつ、けじめをつけてえ、って言い出して聞かなくてな。光希ちゃんにしてきたことを謝ってけじめをつけてからでなけりゃ、父親になんてなれねえって言うんだ。光希ちゃんはもうお前の顔なんか見たくねえだろって止めてたんだが、うっかり今日パフェの試食会だって口が滑っちまって」
「それで通常営業でない今日ならお客さんの迷惑にならないと思い、居ても立っても居られなくて来てしまいました」
突然の襲来とわけのわからない言動の理由を聞いてようやく納得がいった。
テーブルの上に置かれた湯気の立つコーヒーカップに目を向けつつ、光希が冷めた口調で言った。
「それはおめでとうございます。私はもうあなたに恨み辛みとかはないから、私の知らないところでいい父親にでもなんでもなってください」
「ありがとうございます。でもオレがお前にしてきたことを考えると、どうしてもけじめをつけねえと気が済まなくて…」
「けじめって暴力を振るえって言うんでしょ?私はそんなことしたくない」
突き放すような口調で言う光希から、秀人はすがるように日明に目を移した。
「おれも嫌です。この店の中で暴力なんて、絶対に駄目です」
「そっか、このお店はひかりちゃんの…」
首を傾げる二人に、日明はランプの名前の由来について説明した。
「そうか、この店の名前はそんな由来だったんだな…」
「ううっ…そんなお店で、オレはなんてことを…」
腕を組んでうなる岸さんのとなりで、秀人は涙ぐんでいた。
「馬場よ、そんな大事な店ん中でお前の言う方法でけじめなんてつけちゃなんねえ。なにか別の方法を探すんだな」
「でも岸の兄貴、オレバカだからほかの方法なんて思いつかねえ…」
途方に暮れたような顔をする秀人を光希は透明な目で見つめた。
「だったらもうバカなことはしないで、真面目に働いていい父親になって。それがあなたのつけられる最大のけじめです」
「光希…」
秀人はずずっと鼻をすすり目をゴシゴシと拭った。
「本当にごめんな。岸の兄貴に紹介してもらった職場で働いて、エミリと出会って、やっとオレは本気で自分のしてきたことを反省できた。仲間外れにされんのが怖くてサッカー部の奴らがしてきたこと見て見ぬ振りして、そのせいで人生がオシャカになったって思い込んで、不幸のドン底にいるオレは何してもいいんだって開き直ってた。
ホストになって女に貢がせた金で好き勝手して、お前を疑って縛り付けて暴力振るって、そのくせ別の女の尻を追いかけて売ろうとしてた。ほんと最低だよな。オレと関わったせいで辛い思いしてんのに、そんなの自己責任だろって小賢しい理屈付けてオレのせいじゃねえことにしてきた。
でも違った。悪いのは全部弱いオレだ。部活の仲間だからって見て見ぬ振りなんてするべきじゃなかった。気持ちを弄んで金を搾り取るのなんて当たり前じゃねえ。暴力振るった相手に愛を説いて一緒にいるなんてまともじゃねえ。
やっとそんなことに気がつくなんて、本当にバカだよな」
「たぶん私もバカだったんだよ。なりふり構わず自分の居場所を求めてそれに依存して、私なんか暴力振るわれても当たり前だって思い込んでた。だけどそうじゃなかったんだって、友だちに教えてもらってやっと気がつけた。
暴力ってたぶん、振るった側にも傷を残すんだよ。本当に大切なものが出来て自分を顧みたときに、深く突き刺さって、抜けないトゲみたいに痛くなるんだと思う。
私があんたに願うのはただひとつ。その痛みを忘れないで、奥さんとこれから生まれてくる子には、絶対にそんな思いをさせないで」
「うっす。肝に銘じておきます」
神妙な顔でうなずく秀人に、光希は顔を和らげた。
「おめでとう、秀人。奥さんと子どもと三人で、幸せになってね」
心からの寿ぎに秀人は声を震わせながら答えた。
「ありがとう、光希…。本当にありがとう…」
結婚と出産の前祝いとして出したハロウィンパフェを秀人は、「あいつにも食べさせてやりてえ」と言って涙ぐみながら完食した。
岸さんはただ無言でうなずきながらパフェを平らげ、「日明くん、腕を上げたな」と去り際にさらりと言い残していった。
退店する二人を見送りながら、日明の胸にはある思いが芽生えていた。




