2026年 春 1
四月になっても冬の寒さがしつこく残っていたせいか、腰をやってしまった。
雨宮悠一は三十代後半あたりから腰痛に悩まされ、つい先日五十を迎えて付き合い方は心得ていたはずだった。
朝昼晩のストレッチは欠かさずに、早朝のジョギングもして体を動かすようにしている。運動不足は腰痛の大敵だ。重いものはなるべく息子の日明に持ってもらうようにして、腰を労ってきていた。
それなのに、悠一の努力を嘲笑うかのように襲ってきたギックリ腰。便座から立ち上がろうとしたところに狙いすました落雷のように襲いかかってきた。
立ち上がる動作ですら襲いかかってくる地獄の激痛にうめく悠一を、日明は呆れたような目で見下ろしている。
「その様子じゃしばらく店に出るのは無理なんじゃない」
悠一は五十になるとともに大学卒業後からずっと勤めていた銀行を早期退職して、長年の夢であった喫茶店を営んでいた。
こだわりの豆で淹れるブレンドと、どこか懐かしい軽食が売りのレトロな雰囲気の喫茶店、ランプ。ランプは大繁盛しているわけではないが、地元民たちに愛されている喫茶店だった。ランチ時には近くのオフィス街からけっこうな数の客が流れてきて、それが売上の大半になっている。
ランチ時を避ければ店は落ち着いた雰囲気でゆったりとコーヒーを楽しみ、思い思いの時間を過ごせる。
ランプで過ごすひとときを楽しみにしてくれている常連たちの顔が浮かび、店を休むことが歯噛みするくらい不甲斐なく思えた。
「しばらく店は休業にしようか」
なのにこの息子は淡々とこんな血も涙もないことを言う。おれ一人でやるよ、というくらいの気概はないのかと落胆したが、店に出て働けるようになっただけでも上等だと思い直した。
日明は引きこもりの不登校で、中学三年生から学校というものに通っていない。部屋からほとんど出てこず、食事もろくに食べず、言葉を交わすこともなく、部屋からする物音で生存確認してホッとするくらいの状態だった。
精神科に通いカウンセリングを受けて、なんとか立ち直れてきたのが二十歳のころ。
ボサボサに伸びた髪を切り、高卒認定試験を受け、バイトをしつつ調理の専門学校に通うようになった。
なんとか専門学校を卒業して無事に調理師免許は取れたのが二十三歳。でも日明はそこで精神力を使い果たして再び力尽きて抜け殻のようになり、しばしの休息を必要とした。
友人のつてで紹介してもらった居酒屋で働き出したのは二十五歳のとき。しかし店長のパワハラが原因で一年も経たないうちに辞めてしまい、日明はすっかり自信を無くして落ち込んでいた。
「やっとまともになれたと思ったのに」
と絶望しきった顔でこぼし、膝を抱えて謝り続ける日明に悠一はやるせなくなった。
どうしてこの子にはこんなにも試練ばかりが降りかかるのだろう。この子がこの子らしく生きていける、働ける場所があればいいのに。
こうして悠一は一念発起した。妻の香苗の反対を押し切って早期退職し、貯金と退職金を元手にランプを開いた。喫茶店巡りくらいしか趣味のない悠一の貯蓄額はけっこうなものだった。
現在、ランプは悠一と二十六歳になった日明の二人体制でなんとか回している状態だった。片方が欠けたらランチタイムに訪れる怒涛の客足は絶対にさばききれない。ランチタイム以外ならば一人でもじゅうぶんに回せるとは思うが、日明の抱えている事情のせいで不安だ。
しかし。
「いや、休業はだめだ。待ってくれてる人達がいるのに、何日も店を閉めることはできない」
休業を提案する日明に悠一はカッコよく答えたが、懐事情的にも休業は避けたかった。留まるところを知らない物価高で頭を抱えているのに、これ以上の損失は出せない。
看護師長をしている香苗の稼ぎを頼るのにも限度がある。ただでさえわがままを通してもらって肩身が狭いのに、これ以上頭が上がらなくなっては家の中でずっとひれ伏していなければならなくなってしまう。
「でも立つのもやっとでしょ」
しかし淡々と指摘されてぐうの音も出ない。かくなる上は仕方がない。前々から企んでいたことを、悠一はついに実行に移すことにした。
「バイトを雇おうじゃないか」
できるだけ威厳を保とうとして渋い声を出したが、腰痛で横になっている姿では余計にマヌケなだけだった。




