開かない遺書
地下書庫には、朝が来ない。
冒険者ギルド本部の地下二階。
窓ひとつない石造りの部屋は、季節の移ろいとも、街の喧騒とも無縁だった。
魔導灯が放つ淡い青白い光だけが、幾列にも並ぶ書架を静かに照らしている。
ここには、誰かの人生が眠っている。
いや、正しくは――誰かの最後の言葉が。
エリアス・アッシュは、腰に下げた鍵束の中から、一番小さな真鍮の鍵を取り出した。
錠前へ差し込み、ゆっくりと回す。
乾いた金属音が、静まり返った地下通路に小さく響いた。
扉を開ける前に、一度だけ息を整える。
毎朝の習慣だった。
気持ちを切り替えるためではない。
これから向き合うものへ、礼を失しないためだった。
重い扉を押し開ける。
紙とインク、それに古い木材の匂いが静かに迎えた。
部屋の中央には長机が一つ。
左右の壁には天井まで届く書架。
そこへ、色も形も異なる封筒が整然と並べられている。
羊皮紙の質も違えば、封蝋の意匠も違う。
どれも持ち主が違うからだ。
しかし、すべての封筒には一つだけ共通点があった。
封の中央に描かれた、小さな魔法陣。
青く、静かな光を宿している。
エリアスは手袋を外し、机の上へ丁寧に畳んで置いた。
そして、一冊の台帳を開く。
今日の日付を書き入れ、棚をゆっくり見渡した。
一通。
また一通。
魔法陣の光を確かめる。
封印に異常はない。
今日も、この部屋に預けられた最後の言葉は、誰一人として持ち主を失ってはいなかった。
「おはようございます、エリアスさん」
静けさを壊さないよう控えめな声が響く。
振り返ると、栗色の髪を後ろでまとめた女性が、木箱を抱えて立っていた。
契約管理係、リシェル・アルノー。
危険任務管理局の中でも、この地下書庫への立ち入りを許されている数少ない職員だった。
「おはようございます。」
エリアスが短く返すと、リシェルは木箱を机へ置いた。
「昨日受理した危険任務分です。六名全員、提出済みになります。」
木箱の中には、折り畳まれた羊皮紙が入った封筒がいくつか並んでいた。
インクの香りが、まだかすかに残っている。
エリアスは一通を手に取る。
表には名前だけが記されていた。
余計な装飾はない。
ただ、誰かが震える手で書いたことだけは分かった。
「……若いですね。」
リシェルが名簿を見ながら呟く。
「今回の北部森林討伐隊、平均年齢二十二歳だそうです。」
「そうですか。」
それだけ答え、エリアスは封筒を棚へ収めた。
リシェルはその横顔を見つめる。
彼は、いつも変わらない。
遺書を前にしても表情を崩さない。
笑いもしない。
悲しみもしない。
初めて会った頃、リシェルは少し怖い人だと思っていた。
けれど今は違う。
感情がないのではない。
決して、仕事場へ持ち込まないだけなのだ。
誰かが泣けば、その人の分まで冷静でいる。
誰かが取り乱せば、その人の代わりに手続きを進める。
だから彼は、泣かない。
泣けないのではなく、泣かないと決めている。
それがエリアス・アッシュという職員だった。




