ep52:違和感の正体
────心なしか、ノエルの元気がない。
これは私だけが感じている違和感ではなく、白銀の護衛卿と夜誓部隊からは「稽古中も上の空である」と報告があり、モルガントやルシファーからも「心ここにあらず状態」だと言われた。
私もいつも通り他愛ない話をしていても、いまいち盛り上がらないというか、リアクションに物足りなさを感じていた。
「ノエル、何か悩み事でもあるの?」
直接そう聞いてみたけれど、ノエルは一瞬驚いたように目を見開いた後、困ったように笑って見せた。
「ううん、最近やることがいっぱいで、ちょっとキャパオーバーだっただけ」
そう言うノエルに、それ以上聞くこともできず。私は言葉を飲み込むことしかできなかった。
「────ノエル殿が気がかりですか?」
そう聞いてきたのはルシファーである。ルシファーが淹れてくれた紅茶を啜り、俯く。揺れる赤い水面には歪んだ私が映っていた。
「うん……。何か、隠しているというか……、深く考えている何かがあるんだと思う」
最近のノエルの様子を反芻しながらそう零すと、吐息で水面が揺れる。
「時に────ノエル殿の読んでいた古書をご存知でしょうか」
「古書?」
「ええ。私が思うに、あの古書を読んでから、ノエル殿はどこか上の空になったような気がいたします」
本当にこいつは、どこまで把握しているんだか。
ルシファーの優秀さと共に一種の恐怖を抱き、その端正な顔を見つめるけれど、彫刻のようなその表情は動かない。
「なんていう本?」
「確か────……“負の感情の行方”だったかと」
なんだその、面白そうなタイトルは!と、思ったのはここだけの話。
魔王城の図書館では見かけたことのないタイトルのため、おそらくノエルが深紅の都の市場で購入したのだろう。
「同じものを入手して」
「……そう仰るかと思いまして、既に手配しております」
「え、こわ……」
ノエルに直接貸してと言えば、貸してくれるかもしれない。けれど、もしルシファーが言う通り古書の内容が原因で元気がないのであれば、簡単に貸してほしいとは言えない。そんな思いからルシファーに頼んだのだが、予想の斜め上の答えが返ってきて震えた。
え?そんな簡単な感じ?思わず声出たわ。怖……。
ルシファーもいつの間にやら空間魔法が使えるようになったのか、何もない空に手を突っ込み、一冊の古びた本を取り出した。これ、ちゃんと正規のルートで入手してる?
疑いながら塗装の剥げかけた表紙の本を受け取る。タイトルには“負の感情の行方”と書かれており、ルシファーの言っていたものと一致していた。
古い本特有のどこかかびや埃臭いような匂いを感じながら、一ページ、一ページと捲っていく。
「────……これって……」
思わずページを捲る手が止まる。人間界側で書かれた内容とは思えないほど、魔素について詳しく書かれていたのである。
私は止まり木にいる蝙蝠に声をかけた。
「────モルガント」
『はい、ただいま』
***
「どう思う?」
モルガントを呼び、古書の信憑性について話し合う。モルガントはうーん、と唸りながら古書のページを捲ったり戻したりを繰り返していた。
「かなり、魔素について正確に書かれていると思います」
「やっぱりそうだよねぇ」
この古書がどういう経緯で書かれたかは分からない。けれど、明らかに魔界側の事情に精通している。魔王城にも魔素の研究内容の記録は保管されているが、同等並に細かな内容が、人間界で書かれた古書に残されているという事実が異様だった。
「少なくとも、適当に書かれた本ではありませんな」
モルガントはそう言いながら数ページを戻し、一文を指差した。
「こちらをご覧ください」
そこには、人間の負の感情が魔素へと変換され、魔界へ流れ込む仕組みが図付きで描かれていた。
「……これ、ほとんど合ってる」
私が思わず零すと、モルガントも静かに頷く。
「ええ。私の記憶している内容とも一致しております」
部屋が静まり返る。
もし、この本の前半が真実ならば。
「じゃあ、この続きも……」
自然と視線は次のページへと落ちた。
────魔王は所謂、負の感情の受け皿なのだ。
「…………」
その一文に、思わず目を細める。
「……受け皿?」
私は眉を寄せた。
「そんな話は聞いたことがない」
魔王は魔素の発生源。それが、歴代魔王へと受け継がれてきた常識だった。受け皿などという話は、一度たりとも耳にしたことがない。
「モルガント、どう思う?」
「……分かりません」
珍しく、モルガントが即答しなかった。
「ですが……」
彼は古書へ指先を滑らせる。
「魔王様が魔素を無尽蔵に生み出しているという理論も、実のところ証明されたことはございません」
「……え?」
「……魔界ではそう教わり、そう認識してきただけです」
モルガントの言葉に、思わず息を呑む。
「魔王は魔素の発生源である、と。それは歴代魔王から受け継がれてきた知識です。しかし、その魔素がどこから生まれるのかを証明した者は一人もおりません」
「……」
モルガントの言葉を、私は黙って飲み込むことしかできない。
「魔素は魔王から放出される。それは事実です。しかし、その魔素を魔王自身が"生成"しているのか、それとも何かを"変換"しているだけなのかは、実は誰にも分からないのです」
部屋が静まり返る。確かに考えたこともなかった。呼吸をするように魔素が生まれる。だから"そういうもの"なのだと、誰も疑わなかった。
私はもう一度、古書へと目を落とした。
「……もし、この本が正しいなら」
自然と声が漏れる。
「私は、人間の負の感情を魔素へ変換しているだけ……?」
「……可能性はございます」
モルガントは静かに頷いた。
「負の感情から魔素溜まりが生まれることは、既に確認しております。ならば、その延長線上に魔王がおられると考えても、理屈は通ります」
「……」
私は続きを読む。ページを捲る指が、ほんの少しだけ重い。そこには、さらにこう記されていた。
────こうして魔王は強さを得るが、飽和すればやがて入れ物である魔王は崩壊する。────
。
「入れ物……」
嫌な言葉だった。まるで私自身ではなく、何かの道具だと言われているようで。
モルガントも無言で続きを追っている。そして、二人の視線が……、同じ一文で止まった。
────そうなる前に、《聖》属性の祈りを与えた剣を携えた勇者によって、ため込んだ負の感情諸共浄化することで、世界は一時の平穏を得るのだ。────
「…………」
部屋から音が消えた。紅茶から立ち上る湯気だけが、ゆっくりと揺れている。
「……モルガント」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「これ、本当だと思う?」
モルガントは長い沈黙の末、小さく首を横へ振った。
「分かりません」
即答だった。しかし、その表情は今まで見たことがないほど険しい。
「ですが、この古書を書いた人物は、少なくとも魔素について我々と同等……あるいは、それ以上の知識を持っていた可能性があります。少なくとも、私が人間として生きていた時代に、そのような知識を持つ人物は存じ上げません」
モルガントは一度そこで言葉を区切ると、ばつの悪い顔をして視線を落とす。
「……つまり……、全てを否定できる材料も、ございません」
モルガントの言葉は静かで、穏やかだったのに。その言葉が落ちた瞬間、水面に雫が落ちたように波紋を広げ心の内をざわつかせる。
(ノエルは……、ノエルはこれを読んでどう思ったのだろう……)
取り繕ったような笑顔を張り付けたノエルを思い出し、私の胸はひどく軋んだ。




