呪われた弟を救うために
『大丈夫か? 光輝』
境内の掃除を手伝っている時、兄貴に声を掛けられた。
『……何が?』
ぼんやりとして振り向くと、浅葱色の袴を穿いた若い神主は溜め息をつく。
『憑いてるよ』
その一言だけで、兄貴が何を言いたいのか分かった。
『……どんな感じ? 気づかなかった』
俺は苦笑いをし、箒を持ったまま兄貴に歩み寄る。
自分では霊をくっきりと見えるのに、憑かれるとまったく自覚症状がないのは困ったものだ。
でもうちは三兄妹とも視えるタイプなので、お互い注意し合えるのがいい点だ。
おまけに実家が神社だから、祖父や父にお祓いを頼める。
兄貴は俺の肩越しの〝何か〟を見て息を吐く。
『……割と根深そうだ。手強くなる前に祓ってもらったほうがいい』
『分かった。そうする』
その後、参拝客と重ならない時間帯に、俺は手水舎で手と口を清め、拝殿の中で正座をした。
狩衣に身を包んだ祖父は大麻を持ち、穢れを祓うための修祓の祝詞を奏上する。
そして御神酒や米などの供物を捧げ、再び祝詞を唱えていく。
最後に俺は祖父から渡された玉串を、祈りを込めて捧げる。
これで一般的なお祓いは終わりで、視えるからといって他に特別な事は何もしない。
視えようが視えまいが、宮司がする事は同じなのだ。
一応安堵したものの、お祓いを終えたあとに兄貴に声を掛けても、彼の表情は曇ったままだった。
それからほどなくして、俺はいきなり高熱を出して倒れた。
酷い頭痛に倦怠感、吐き気に咳、ありとあらゆる体調不良が襲ったものの、病院ではこれといった診断はつけられず、風邪と診断され薬を出されて終わってしまった。
薬を呑んでも症状は回復せず、たまたま電話を掛けてきた母に状況を説明すると『一人暮らしじゃ誰も看病してくれないでしょう』と車で迎えに来てくれた。
そのまま実家で看病された俺は、熱にうなされる中、夜ごと拝殿に連れて行かれ、祖父や父、兄貴たちが祝詞を唱えているのを耳にした。
ボーッとした意識の中で目を開くと、真っ黒になった形代が幾つも落ちているのが見え、呪いを移すのに失敗しているのを理解した。
ある晩、兄貴は思い詰めた表情で言った。
『このままじゃ光輝は死んでしまう。俺が代わりに呪いを請け負う』
当時は一週間近く高熱にうなされて体力を奪われ、まともに家族と会話できる状況になかった。
『馬鹿を言うな、和輝。こんなもの、祓えば……』
父の声に、兄貴は反発する。
『俺は父さんより視えるから分かるんだ。これはただのお祓いでは太刀打ちできない。一般的な恨み辛みでつく生き霊や、その辺の浮遊霊が憑いたのとは訳が違う。……何か特殊な、呪物を使った禍々しい呪いだ』
その声には怖れが混じっていた。
けれど、兄貴は弟のために自ら呪いを請け負うと言ってきかなかった。
『光輝は俺より才能がある。光輝を失ってはいけない。……それに会社もあるしね。期間限定とはいえ、普通の人生を歩めて楽しそうにしてるじゃないか。その生活を奪ったら可哀想だ。……俺は普段から鍛えてるし、多少体力を削られても大丈夫だ』
『速まるな。今、方々に助けを求めているから、それを待ちなさい』
『何日待ってる? その間に光輝が死ぬだろう!』
昂ぶった兄貴の声を聞き、父は気まずく黙り込んだ。
『なら、父さんが……』
『駄目だ。呪われれば体力を奪われる。歳を取った祖父ちゃんや父さんより、俺のほうが適任だ』
そのやり取りを聞いた時、こう言いたかった。
――そこまでしなくていい。俺は大丈夫だから悩まないでくれ。
伝えたかったのに、憔悴しきった俺は声を発する事すらできずにいた。
それから数日後、俺はやけにスッキリして目覚めた。
何が起こったのか分からず、自分がどうして実家で寝ていたのか分からない。
『光輝、もういいの?』
疲弊した表情の母が部屋を訪れ、顔を覗き込んでくる。
『よく分からないけど、元気だよ。…………やべっ!』
俺は充電されっぱなしのスマホを見て声を上げる。
会社に体調を崩したと連絡したものの、気がついたら一週間近く経っていて心臓が止まるかと思った。
『会社のほうはお母さんから電話をして、話せる状態ではないと伝えておいたわ。元気になったら連絡させますと言ったから、復帰できそうなら一言伝えてから出社しなさい』
『分かった』
何も覚えていなかったのは、呪いが体から離れた事によって、呪われていた事そのものを忘れてしまったからだと思う。
でも体調を崩した自覚はあったので、看病してくれた母に礼を言った。
『ご飯食べられる?』
『ああ』
久しぶりのシャワーを浴びたあとに食卓についたけれど、家族は全員口が重たい。
『兄貴はまだ家か。兄貴がいれば全員揃ったのにな』
『……そうだね』
妹の返事がやけに暗かったのをよく覚えている。
その日、午後まで実家にいたけれど、兄貴とは顔を合わせなかった。
神職でも休みはあるので特に疑わず、俺は家族に礼を言ってから神田にある自宅に戻った。




