幕間 書の賢者の最後の願い
「気をつけて」
「はい」
見送りに来た師の言葉に、セレストは素直に頷いた。
「道中何があるかわからないから、食料は充分に持っておくんだよ」
「わかりました」
「乗合馬車の乗り継ぎ経路はちゃんと覚えてる?」
「大丈夫です」
「忘れ物はない?」
「ないです」
「そうだ! 知らない人に声をかけられてもついていっちゃだめだよ」
「……」
この問答はいつまで続くのだろうかと、セレストが黙り込む。するとマールエルも自分の過保護ぶりに気付いて一度口を閉ざした。
それから弟子の手を取り、強く握る。
「……元気でね」
「師匠も」
そのやり取りを最後に、セレストは王都へと旅立った。
セレストが十八歳のときのことだった。
『行ったか』
小さくなっていく後ろ姿を見送っていると、不意に声をかけられた。
振り返ればそこには、原初の精霊クロベルがいた。とは言ってもマールエルには精霊の祝福がないので、気配が感じられるだけなのだが。
「行っちゃったね」
『寂しくなるな?』
「それはしょうがないよ」
答えながら、家の中に戻る。
しんと静まり返った室内。
賑やかなのはいつもマールエルの方でセレストはおとなしかったが、やはりひとりいなくなると静けさが際立っているように思えた。
『ひとりで大丈夫か?』
「さぁ。でも、覚悟はしてたから」
まだ早朝なのに弟子を見送っただけで脱力してしまい、マールエルはソファーに座り込んだ。
クロベルもこれ以上かける言葉が見つからないのか、静かにその場に留まっている。
「……クロベルも、もういいんだよ」
『何が?』
「私のために、ここに留まってくれていたんでしょう?」
マールエルの問いに、クロベルは答えない。マールエルは苦笑を漏らした。
「私はもう大丈夫。これで少しは師匠から受けた恩に報いることができたんじゃないかって、思えるようになったから」
あの瞬間。代償も魔法の影響も全て引き受けたソルシス。
その行動の意図が、自分が弟子を持つようになったことでより深く理解出来た。
(師匠は、私を守ろうとしてくれた。私を生かそうとしてくれた)
師を犠牲にしたことがマールエルの心を苛んだのも事実。
けれど、意図してか意図せずなのか、師は赤子という形でマールエルの許に留まってくれた。そしてその子供を育て、魔法使いとして独り立ちさせるまで頑張らなければという生きる指針を与え、今日まで生かし続けてくれた。
(師匠は紛う事無き『偉大なる魔法使い』だった)
同じ呼び名を得るには、自分は何と矮小なことか。遥か高みにいる師の下に辿り着く日はきっとこない。
けれどセレストを無事独り立ちさせた今は、少しは師に近づけたのではないかと思えた。
『また様子を見にくる』
唐突にクロベルが声をかけてきた。
マールエルはこちらを気遣う原初の精霊に、つい吹き出して笑ってしまう。
「気にしなくていいのに」
『遊びにくるだけだ』
「そう。じゃあその時はクロベルが好きな楽器で好きな曲を演奏してあげる」
『楽しみにしている』
その言葉を残して、クロベルの気配は消えていった。
マールエルはしばらくクロベルがいた空間を眺めていたが、じわりと押し寄せてくる静寂を嫌うように、ぽつりと言葉を零す。
「あーあ。ついにひとりになっちゃった」
『ひとりじゃないよ!』
『わたしたちがいるじゃない』
間髪入れずに室内が賑やかになる。マールエルは虚をつかれたように目を瞬かせ、森の精霊や妖精たちがわらわらと周囲に集まってくるのを感じ取ると、歯を見せて笑った。
「そうだった! みんながいるから全っ然寂しくないね!」
『そうだよー』
『わすれないでよー』
不満げな精霊や妖精たちの声にマールエルは「ごめんごめん」と謝り、勢い良く立ち上がるとフルートを手に取った。
その意図を察した精霊たちは喜び、妖精たちは『ぼくたちはサクサクのクッキーがいいな!』『色んなジャムをつけて食べるの!』と要望を出すのだった。
セレストから手紙が届いた。
どうやら王国魔法師団に入団したらしい。それも、王都に到着して間もなく。
「何故その知らせが三年越しで届くのかがわからないよ、セレスト」
相変わらずの弟子の調子に懐かしさすら感じながら、マールエルは苦笑した。
家のことをやらせてもほぼ何もできなかった自らの師を思い、セレストには何でもできるように仕込んでおいた。文字も悪筆にならないよう、念入りに形を教え込み、きれいな文字を書くように育て上げた。おかげで手紙も読みやすい。
そのことに満足しつつも、この感覚のズレだけはどうにもならなかったなと溜息を漏らす。
「師匠は喜怒哀楽がそれなりにわかりやすかったけど、どうしてセレストはああなっちゃったのかな」
この家にいた頃、セレストは仕方なさそうにしながらもマールエルの世話を焼いてくれていた。
けれど、基本的に他人への興味が薄い。加えて他人の気持ちにも疎い。何より、本人の感情の起伏が少なく、表情の変化も希薄だ。
あれだけ……それこそしつこいくらいに愛情表現をして育てたのに、何故。
(あれ? もしかして、それが逆効果だった?)
自分が感情を出さずとも、マールエルが十二分に喜怒哀楽を発揮していたから充分だと思ってしまった?
それとも、マールエルが構い過ぎたから面倒に思って感情表現が薄くなってしまった?
その方向で考えてみるとどれも正解な気がして、マールエルは頭を抱えた。
(家事から何から完璧に育て上げたと思ったのに、まさか感情面を育てるのに失敗するとか……!)
そこ凄く大事でしょ! と、己を罵倒しながら、ぱたりと机に突っ伏す。
(今更気付くなんて、ばかだ。私のばーか)
ぐりぐりと机に頭を押し付けるが、そんなことをしても何ひとつ解決しない。そして、確実に手遅れだった。
(でもなぁ……あれがセレストだからなぁ)
感情表現豊かなセレストなんて、想像もつかない。
むしろ想像しようとした瞬間に吹き出して笑ってしまった。
「ないない。うん、あれでいいんだよ。セレストは」
ひとり納得して体を起こす。
その瞬間。
くらりと目眩がした。かと思ったら、目に映る世界がぐるぐると回り始める。
体を起こしていられず、再び机に突っ伏した。
ただの目眩ではないようにも思うが、気持ちが悪過ぎて思考するのもままならない。
そのまましばらく動かずにいたが、調子が良くなることはなく。
その後、様子を見に来たクロベルの手で自室に運ばれたことだけは、薄らと記憶に残っていた。
『セレストに連絡すべきだ』
「大丈夫だってば」
マールエルが体調を崩して一年が経過していた。
時々同じような症状が出ることもあるが、それさえなければ問題なく生活できている。
手持ちの医学書を見ても目眩以外に該当する病はなく、症状が出ても数日間安静にしていれば治るため、マールエルは問題視していなかった。
『だが』
「あのセレストが王国魔法師団で頑張ってるんだよ。この程度の不調で呼び戻す必要はないよ」
どうせ年のせいなんだから、と笑うマールエルに、相手に見えていないと知りながらもクロベルは渋い表情を浮かべた。
「心配してくれてありがとう、クロベル。でもね、お願いだからセレストには黙っておいて。本当にだめだと思ったらちゃんと連絡するから」
『……わかった』
結局、クロベルはマールエルの言葉に従うことにした。
その後も何度となく同じようなことを繰り返しながら、更に日々は過ぎていき──
『嘘つきだな』
「……ごめんごめん」
ベッドに横たわったまま力なく笑うマールエルを、クロベルのみならず、森の精霊や妖精、長たちまでもが心配そうな表情で見守っている。
『これではセレストに知らせを出しても間に合わないじゃないか』
「そうだね……。でも、私はそれでよかったと思うよ」
こんな姿、見せられない。
小さく呟かれた言葉に、クロベルは俯いた。
『……望みは』
「え?」
『何か、望みはないか。叶えられるものなら、叶えてやる』
唐突な申し出に、マールエルは告げられた言葉の意味がうまく理解出来なかった。
しかし降りた沈黙の中、ゆっくりとクロベルの言葉を頭の中で反芻するうちにその意味を理解し、静かに微笑む。
「ああ……私は、本当にもうだめなんだね」
返事はない。
しかしマールエルはひとつ頷くと、真っ直ぐ天井を見上げた。
「そっか……そっかぁ。いや、わかってたけどね。でも、そっかぁ」
何度も同じ音を繰り返し、改めてその事実を心に刻み込む。
そうして全てを受け入れたマールエルの表情は、ただただ穏やかだった。
「それなら、叶わないことは重々承知の上で、ひとつだけ」
そう前置きして、マールエルは切実な願いを口にした。
「師匠と、また出会いからやり直したいなぁ……。今度は失敗しないように。今度こそ、師匠の願いを叶えられるように──」




