閉ざされた部屋
クロベルが同居人に加わって、ひと月が経過した。
ヒューティリアは引き続きセレストから時繰り魔法の基礎を教えられており、現在は呼びかける際の思考の仕方について習っていた。
そんなある日のこと。
この日はセレストがレグに呼ばれて急遽クルーエ村に向かうことになり、ヒューティリアはひとり留守番をしながら本を読んでいた。
すると。
『ヒューティリア、ちょっとこっちに来てくれ』
廊下の方からクロベルに呼ばれて、ヒューティリアは本を閉じるとソファーから立ち上がった。
「どうしたの?」
声と気配を頼りに歩いていくと、クロベルの気配がセレストの部屋でもヒューティリアの部屋でもない、もうひとつ部屋の前から感じられた。
何気なくその部屋の扉を眺める。その部屋は、ヒューティリアがこの家に来てから一度として開かれたことのない部屋──マールエルの部屋だった。
『この扉を開けてみろ』
クロベルの言葉に、ヒューティリアは咄嗟に「えっ」と声を上げた。
「無理だよ。その部屋はずっと開かずの間だったし……セレストにだって開けられなかったんだから」
さすがに掃除もせず何年も放置するわけにもいかなかったのか、二年程前にセレストが解錠を試みたことがある。しかし、セレストの呼びかけに応えた妖精たちの力でも鍵を開けることは適わず。結局開けることを諦めたのだ。
そんな部屋を、ヒューティリアの力で開けられるとは思えなかった。
『大丈夫だ。わたしが解錠したからな』
ほら、と再度促され、半信半疑ながらも取っ手に手をかける。
恐る恐る押してみると、これまでびくともしなかった扉が、何の抵抗もなく開いた。
驚き固まるヒューティリアを、クロベルが『ほら、入って入って』と急かす。急き立てられながら部屋に足を踏み入れると、途端に音を立てて部屋の扉が閉まった。
「えっ!? ちょっと……!?」
慌てて取っ手を引くがびくともせず、押してみても微動だにしない。
『そう心配しなくても、用件が終われば出してやるから安心しろ』
その口振りから、ヒューティリアをこの部屋に閉じ込めたのはクロベルで間違いないだろう。
だからこそ、聞こえてきたクロベルの声がヒューティリアには恐ろしげに聞こえた。
「用件……?」
震える声で問いかければ、空気から染み出すようにクロベルが姿を現した。その姿を視認した瞬間、ヒューティリアは体の力が抜けていくような感覚を覚える。
思わず座り込みそうになるヒューティリアを、目に見えない何かが支えた。恐らくクロベルが何らかの魔法を使ったのだろうとは思ったが、それがどういった魔法なのかまでは察せなかった。
『セレストには反対されたが……やはりないと不便だろう』
困ったような笑みを浮かべながらクロベルが近付いてくる。ヒューティリアは後ずさったがすぐに追いつかれ、更に体が縛り付けられたように身動きが取れなくなった。
何が起こるのか、何をされるのかわからず恐ろしくなり、ぎゅっと目を閉じる。
すると。
掠めるように、ヒューティリアの額に何かが触れた──ように感じた。
『目を開けてみろ』
そう促され、ヒューティリアはそっと目を開く。
続いてぱちぱちと瞬きをしてから周囲を見回してみたが、視界に映る景色に変わりはない。
一体何をしたのか問いかけようと、ヒューティリアはクロベルに向き直り……クロベルの姿を見ているだけで力が抜けていくようなあの感覚が、消え去っていることに気が付いた。
驚きのあまり目を見開き、額に手を当てる。
「いまの、なに……?」
純粋な疑問が口から零れ出た。
何かが触れた額付近から、不思議な力が流れ込んでくるのがわかる。
『このひと月様子をみていて、ヒューティリアは祝福を与えるに値する人間であると判断した。まぁ、本当はそれ以前からこうするつもりでいたんだが、ずっとセレストが張り付いていたからな……』
祝福。
その言葉が耳に届き、ゆっくりと思考の中に染み込んでいく。
『ヒューティリアに祝福?』
『精霊の?』
こそこそと話す声の方を見遣れば、人間に近い形の小さな輪郭と、猫のような輪郭が薄っすらと揺らめいていた。
目を凝らせば段々輪郭がはっきりしてきて、やがてその姿どころか彼らの纏う色までも、しっかりと視認できるようになる。
「まさか!」
『まさか!?』
目に映る光景に驚きの声を上げたヒューティリアと、視線の先にいた猫の姿の精霊、そして小人のような姿の精霊が同時に飛び退る。
『えっ、本当に視えるの!?』
『えぇ〜、いいなぁ。ぼくら妖精の姿も視えるようになればいいのに』
わらわらと集まってくる様々な姿をした精霊たちに、ヒューティリアはただひたすら戸惑った。
一方で不満げなのは妖精たちだ。自分たちの姿が視えていないとわかるや、あちらこちらから不満の声があがる。
『まぁまぁ。とりあえずきみたちは散ってくれ。ヒューティリアにはわたしの用事でここに来て貰ったんだから』
収集がつかなくなりつつあった場を収めたのは、クロベルだった。
原初の精霊の一言に、『はぁ〜い』と、まるで聞き分けのない子供が渋々応じるような声と態度で精霊や妖精たちが散っていく。
その姿を見送り、ヒューティリアはバクバクと音を立てている心臓を鎮めるように、深く息を吐き出した。
『断りもなく祝福を与えて悪かったとは思うが、今後のことを思うとこの方が互いのためだと思ったんだ。とりあえず、そこの机の引き出しを開けてくれないか』
「引き出し?」
何とか心臓を落ち着けて、ヒューティリアはクロベルが示す机を見遣った。
セレストの部屋と比べて物が多い室内。その片隅に、書類が積まれた机がひとつ置かれていた。
近づいてみると無造作に置かれた書類の文字に見覚えがあり、この部屋はマールエルの部屋なのだと改めて実感する。
『ほら、早く。セレストが帰ってくるまでに用件を済ませたい』
クロベルに急かされて、ヒューティリアは何が何だかわからないまま、クロベルが示す引き出しを開けた。
途端に、ふわりと柔らかい光の筋がいくつも立ち上る。
ヒューティリアは咄嗟に手をかざし、あまりの眩しさに目を細めた。
その光もしばらくすると収まり、指の隙間、狭い視界の中に何かが映り込む。ヒューティリアはその何かを確認すべく、ゆっくりと手を退け、しっかりと目を開き────
目の前に、ひとりの女性が佇んでいた。
春の陽射しのような淡い金色の髪。静寂の月を思わせる、青みがかった銀色の瞳。
二十代半ばくらいに見えるその女性は優しい微笑みを浮かべ、静かな眼差しをヒューティリアへと注いでいる。
その姿を認めた瞬間、ヒューティリアは直感した。
この人は、マールエルだと。
同時に、これは魔法が見せている幻なのだと確信した。
マールエルの死はセレストから聞かされている。だから一瞬、目の前に現れたマールエルはその魂の残滓かと思った。
しかし、すぐに違うと否定する。これは魔法が見せている幻。そんな確信がある。
(あたし──この人のこと、知ってる……?)
自然とそう思った。
手を伸ばせば、鏡映しのように幻のマールエルも手を伸ばしてくる。
しかし触れようと思っても通り抜けるだけで、やはり幻なのだと実感する。
そんなヒューティリアの視線を導くように、幻のマールエルはゆっくりと瞬くと、静かに、開けられた引き出しを指し示した。
そちらを見遣れば、引き出しの中から一冊の手記が顔をのぞかせている。
無意識に手に取り、表紙を眺めた。臙脂色の外装が施された表紙には、何も書かれていない。
しばらく無地の表紙を眺めていると、ふわりと光を帯びた手が伸びてくる。見上げてみれば、幻のマールエルが手の動きで手記を開くよう促してきた。
ヒューティリアは頷き、慎重に、ゆっくりと表紙をめくる。
最初の頁には、何も書かれていなかった。
正確には、何かは書かれていたが、黒いインクでぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。
更に次の頁をめくる。
するとそこには、マールエルが書き記した過去の記録と記憶が綴られていた。




