空中散歩
この日もヒューティリアは湖の畔で空渡りの魔法の練習をしていた。
とは言っても、すでに風の精霊から太鼓判を貰えるほどに上達しており、あとは長時間滞空していられるようになれば完璧というところまできていた。
季節はすでに春の終わり。じわりと汗が浮かぶ日が増えてきている。
ヒューティリアは眩しさを増した陽光に目を細めると、ちらりと横目でセレストを見遣った。
森に侵入者が現れた日以降、セレストはよく考え込むようになっていた。時折何かを堪えるように、抑え込むように、眉間の皺を深めている。
深刻そうな様子から何があったのか問うことが憚られ、けれどどうしても気になって仕方がない。
そんな風に思考を堂々巡りさせながら、ヒューティリアは小さくため息をついた。
あの日、家に戻ってきたセレストは服が所々汚れていたものの怪我ひとつしておらず、ヒューティリアは安堵のあまり泣いてしまった。
そして、部屋に閉じ込められ、セレストの無事も確認できずにただ待つことしかできなかった恐怖が、ヒューティリアにこれまで以上に強い決意を抱かせる。
(もうこんな思いをしないためにも、セレストの足手纏いにならないくらい力をつけないと……!)
とは言ってもどうすればいいのかわからなかったので、目下の目標はこれまで通り魔法の知識と技術をしっかりと身に付けること。そして、いつでも冷静に魔法を扱えるようになることとした。
元々充分すぎるほど意欲的だったヒューティリアだが、あの日以降はそれまで以上に意欲的に学び、考え、身に付けるべく練習に打ち込んだ。
その成果こそが、苦手属性にもかかわらず短期間で習得した高難易度の魔法。空渡りの魔法なのだ。
「セレストはどうしちゃったんだろう?」
つい思ったことをそのまま零すと、傍らにいた風の精霊が励ますように微かな風を送ってきた。
『そのうち話してくれるだろう。そう心配しなくとも、お前の師は大丈夫だ』
「それはわかってるけど、それでも心配なんだもの」
『そうか。なら、元気づけてやったらどうだ?』
風の精霊の提案に、ヒューティリアは首を傾げた。風の精霊の口調が含みのあるものだったからだ。
「何かいい案でもあるの?」
『勿論。前に言っただろう? 空中散歩は最高だと』
そう言われた瞬間、ヒューティリアの表情がぱっと輝く。
思わず両手を打ち鳴らし、大きく頷いた。
「そっか! そうだね、それがいいかも!」
同意すると、善は急げと風の精霊に後押しされ、ヒューティリアはセレストに駆け寄った。空を見上げて考えごとをしているセレストの袖を引き、意識を自分の方へと向けさせる。
「……どうした?」
「あのね、あたし空渡りの魔法がかなり上達したんだよ。風の精霊からも、あとは滞空時間が長くなれば完璧だって言われたの」
「そうか。それは凄いな」
どこかぼんやりとした様相は抜けなかったものの、話はしっかり聞いてくれているようだ。ここ最近ではすっかり定番となりつつある動作で、セレストがヒューティリアの頭を撫でた。
「それでね、セレストに滞空時間を延ばす練習につきあってもらいたくて」
それで誘いに来たの、と、ヒューティリアは続けた。
ヒューティリアの誘いに、セレストはしばし思考を巡らせた。
確かに、一定以上の高度での練習は失敗した時が悲惨だ。地面に真っ逆さまに落ちていきかねない。
そうなった場合に備えてこれまでも練習を見守ってきたのだが、滞空時間を維持する練習は危険度が上がる。
自分の魔力量を正確に把握し、降りる際に必要となる魔力のことまで配慮できないと、やはり地面に真っ逆さまに落ちることになるからだ。
(万が一そうなった場合にも備えてはいるが……)
ずっと気を張って見守るより、一緒に上がってしまった方がいいのかも知れない。
それに、それなりの高度で滞空しながら移動されてしまうと追うのが大変だ。
「わかった」
決断と同時に頷くと、セレストはヒューティリアに手を差し出した。ヒューティリアは嬉しそうにその手を取る。
「楽しみだね、空中散歩!」
「空中散歩?」
「あのね、風の精霊が言ってたの。空の散歩は楽しいって。それにね、高いところから見る世界は広くて美しいんだって」
景色を一望できる高度に上がるくらいなら、ヒューティリア単独でもすでにできている。
しかしそこから見える景色を堪能する余裕などなく、ただ無事に着地することだけを考えていた。
けれど、セレストが手を繋いでいてくれるなら、落ちる心配なんてない。ゆっくり景色を見ることができそうだと、ヒューティリアは思った。
「頑張ったご褒美みたいで嬉しいな」
と、口にしたところでヒューティリアは我に返った。
本当はセレストを元気づけようとしていたはずなのに、いつの間にか自分が楽しむことばかりを考えてしまっている。
慌てて「あっ、えっと、違うの。そうじゃなくて……!」と否定しようとしたところで本心を否定してどうすると思い直し、「っていうわけでもなくて!」と更に否定を重ねるヒューティリアの混乱っぷりに、セレストは肩を震わせて笑い出した。
そんな風に笑うセレストを見るのは初めてで、ヒューティリアの動きがぴたりと止まる。
「褒美、か。褒美が俺との空中散歩でいいのか?」
笑いを収めたセレストが目を細めながら問いかけてくる。その口許はいつになく緩んでおり、先ほどまで眉間に皺を寄せて考え込んでいたのが嘘のように、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
その微笑みを目にして、ヒューティリアも自然と笑顔になる。
「うん! それがいいの!」
屈託のない答えに、セレストは心の底に重く沈んでいた澱が薄れていくように感じた。
靄がかかっているようだった頭も、すっと晴れていく。
師の不在。
手紙に書かれていたいつか戻ってくるという言葉を疑わずにいたが、再会は果たされないのだという事実を知り、自分でも驚くほど絶望した。
不在は喪失に変わり、抜け落ちてしまった存在と、楽観していた自分への怒り……これまで探しもしなかった後悔と自責の念で心も体も重く、鬱々としていた。
けれど。
繋いだ手に少しだけ力を込めると、それ以上の力で握り返された。
にこにこと笑顔を絶やさない弟子を見て、苦笑が漏れる。
(こういう気持ちは、何と呼ぶのだろう)
言い表し難い。けれどきっと、とても大切なもの。
ヒューティリアから寄せられている信頼が、繋がれている手から感じ取れる。
同時に、気づかぬうちに自分も弟子に支えられていたのだと、ようやく気付くことができた。
「行こう!」
ヒューティリアの声を合図に、精霊へと呼びかける。
すると、ふたりのやり取りを眺めていた風の精霊が景気よく力を貸し、セレストとヒューティリアを高空へと押し上げた。
あっという間に森の木の高さを越え、更に上昇していき──やがて眼前に広がった景色を、ヒューティリアは目を輝かせながら見回した。
「凄い! あっ、ねぇねぇセレスト! あれって王都だよね!?」
興奮しきりのヒューティリアが指し示す方を見遣り、セレストは頷いた。
「王都の背後に見える山脈を越えると隣国に入る。隣国は国境の半分以上が海に面しているから、港が多いと聞いたことがあるな」
「へぇ! 隣国って結構近いのね。でもちょっと残念。海を見たことがなかったから楽しみにしてたんだけど、ここからだと海は見えないんだ……」
見るもの全てが珍しいと言わんばかりのヒューティリアだったが、海が見えないとわかると残念そうな声をあげた。
落胆しているヒューティリアの様子に、セレストはしばし考える。
「もっと高度を上げれば見えるが……いや、左斜め後ろを振り返ってみろ」
セレストの言葉に従って振り返ってみれば、やや霞がかっているものの、遠くに青い水平線が見て取れた。
「あれって海!?」
「内海だ。あの内海を囲うような形でこの大陸があって、ガシュレン王国は大陸の北東に位置している」
「内海……!」
少しずつ空中を移動しつつ見える景色のひとつひとつをセレストが説明すると、その都度ヒューティリアは歓声をあげた。
そんなに興味があるなら地理の勉強もしてみるかと問いかければ大いに喜ばれ、「楽しみだなぁ」と、学べる日が待ち切れない様子で呟いている。
(好奇心の塊だな)
見知らぬものは全て興味の対象になり、知ることができるなら何でも知ろうとするヒューティリアは、ムルクと同じくセレストにとって未知の思考の持ち主だ。
ただムルクと異なるのは、その未知の思考に対してセレストが面白いと感じている点。
知っておいて損はないだろうという程度の認識でセレストが取り入れてきた知識が、ヒューティリアにはまるで違って見えていることが何とも不思議で、それでいて興味深いと感じている。
(生まれ持った性質の違いか)
そんなことを考えたところで、そろそろヒューティリアの魔力が尽きる頃だろうと見計らって地面へと降り立つ。
「楽しかったね!」
無事家の庭に降り立ったヒューティリアは満面の笑みをセレストに向けると、ややふらつきながら風の精霊の許へと走った。そして、楽しそうに空中散歩の感想を報告し始める。
その光景を見遣りながらセレストは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「師匠……」
ぽつりと呼びかけてみる。当然、返事が聞こえてくることはない。
けれど、それでいい。
セレストの中で、しっかりと区切りがついた。
「とりあえず、師匠の仰る通りにします」
──どうか私に代わって、私が君に教えた全てをその子に教えてやって欲しい。
──彼女が無事独り立ち出来るよう、見守ってやって。
手紙に書かれていた文面が、脳裏に蘇る。
始めは自分を拾い、養い、魔法使いとして育て上げてくれた師への恩返しのために、この言葉に従うつもりでいた。
けれど、今は。
「頼まれたからではなく、俺自身の意志で」
最後にそう付け加えて、玄関扉に視線を向けた。
春の陽射しのような淡い金色が、銀色の月を思わせる瞳が。「それでいいよ」と頷いたような気がした。




