幕間 マールエル
うーん、うーん、と唸る声が絶えず聞こえてくる。
静かに本を読んでいた少年は向かい側から聞こえてくる唸り声に集中力を乱され、たまらず顔を上げた。
「師匠、お腹でも痛いんですか」
まだ十歳に満たない少年……セレストの声はやや高い。その声に促されるように、向かい側で手記らしきものを読んでいたセレストの師・マールエルも顔を上げた。
少し癖のある淡い金色の髪がふわりと揺れて、青みがかった銀色の瞳が真っ直ぐ弟子へと向けられる。
「うっ……いや、その……大丈夫。気にしないで」
そう告げるとマールエルは改めて手元の書物に向き直った。
「そもそも魔力が多すぎる……それを調整するには……ていうかここ、なんて書いてあるんだろう」
再びぶつぶつと呟き始めた師の様子に、セレストは読書を諦めライアーを手に取った。
「ちょっと外に出てきます」
「うん、気をつけてね」
弟子が楽器を手にしているのを確認して向かう先を察したマールエルは、笑顔で弟子を送り出す。
そうしてひとりになると、再々度、手元の書物に視線を落とした。そしてぼやく。
「師匠……悪筆にもほどがあるよ……」
半ば涙目になりながら、手元の書物──マールエルにとっての師であるソルシスの手記を眺める。
この手記には『子供とのつきあい方』という、短いのに字がきたなすぎて解読に時間を要したタイトルが付けられており、中身を見てみればソルシスがマールエルを弟子にとった日以降の日誌のようなものが書かれている。
内容としては主に、子供の扱いに慣れていなかった師が当時まだ子供だったマールエルへの対応で困ったことを挙げ、続いて対処に関する考察、知人からの助言などが書かれている。
……が、記されているのはそれだけではない。
そういった内容の他に、弟子にどのような手順で魔法を教えていくかや、うまく伝わらたなかった際の別視点からの教え方など、魔法を教えるという点に関しても事細かに記されているのだ。
師の手記を眺めながら解読を終える度に「そんなこともあったなぁ」とか「そうだったっけ?」などと昔を思い出しつつ、現在弟子を持つ身として師の思想を取り入れ、行き詰まったときの教科書として活用しているのだが……いかんせん、悪筆すぎて解読に時間がかかりすぎる。
これでもだいぶ見慣れてきたので以前よりは解読速度も上がったのだが。
(せっかくの良書なのに、この読み難さがほんとうに、ほんっとうに勿体ない。せめてカバーをかけ替えて、表紙と背表紙はきれいに書き直そう)
ため息ひとつ。そう決意してぱらりぱらりと頁をさかのぼっていく。
そうしていくうちに、最初の頁……序文に辿り着き、マールエルの視線がある一点で止まる。
「“あの子”……ね」
複雑な気持ちがわきあがる。
師が恩人と呼ぶその相手が誰を示しているのかを、マールエルは知っている。
無意識に自らの髪に触れ、目を伏せる。
「今のあたしはもう、その子とは似てないと思うよ……師匠」
そんなことをつぶやき、天井を見上げた。
(結局、師匠は目的を達成できなかった。最後には『失われた時間を取り戻そうだなんて傲慢だった』って言ってたけど……本当に? 本当に納得して、手を引いたの?)
ぐるぐる、ぐるぐると思考が巡っていく。終点が見通せない螺旋のように、疑問は延々と紡がれて──
「いや、考えたってしょうがない! もう師匠はいないんだからっ!」
唐突に自らの両頬を叩き、勢い良く立ち上がる。
当人がいない今、答えなど二度と手に入らない。ならば考えるだけ無駄だろう。
それよりも、今のマールエルには優先すべきことがある。
手記を閉じ、家の外へと駆け出す。
玄関を抜けて右手側を見遣れば、眼前に広がるのは大きな泉。その手前、石に腰掛けてライアーを奏でているのは、手塩にかけて育てた最愛の弟子であり養い子。
「セレスト!」
空色の髪が揺れて騒がしい自分の方を振り返る。
その新緑色の目は面倒くさいのが来たと言わんばかりの心情と、それでもそんな師を受け入れている親しみが浮かんでいた。
「なんですか、師匠」
師の威勢の良さに反し静かに問いかけてくる弟子に、マールエルは満面の笑みを向けた。
「今日はもう休みにしよう!」
「はぁ?」
あからさまに顔をしかめるセレスト。
しかしマールエルは笑顔を崩さず、あっけらかんと言い放った。
「だって、いい解決方法が見つからないんだもの」
師の答えにセレストは黙り込んだ。
現在セレストは魔力の調整がうまくできずにいる。マールエルはその解決方法を探しているのだ。
それを思えば、不平など口にすることはできない。
「まぁ任せてよ。そう心配しなくても、かならずあた……じゃない、私が解決方法を見つけるから」
ちょっと頭を休めたら閃くかもしれないし! と、マールエルが楽観的なことを口にし、セレストはしばしそんな師を見上げ、やがて静かにライアーを奏で始めた。
静かな森の中、輝く泉の畔で心地のいい音色に耳を傾け、マールエルは静かに目を閉じる。
(師匠。あたしも、この子を立派に育て上げようと思ってるよ。だから、力を貸してね)
そんなことを、考えながら。
 




