復調
「セレスト。特別な好きって、ドキドキしてフワフワして、嬉しくて幸せな気持ちになるけど、ぎゅうって苦しくなることもあるんだって。そういうのを切ないっていうみたい」
「……そうか」
クルーエ村に行った翌日、昼過ぎのこと。
ヒューティリアは真剣な面持ちでマールエルの愛読書を読んでいた。
かと思ったら、唐突にセレストに話しかけてきたのだが……当のセレストはどう反応すればいいのかわからず、気のない相槌を打った。しかし本に視線を落としたままのヒューティリアは、そんなセレストの心境に気付く様子もなく。
話しかけたことすら忘れたように読書に耽る弟子の横顔を見遣りながら、セレストは小さくため息を吐いた。
(だんだん似てきてるように思うのは、気のせい……だといいんだが)
夢みがちという点において師のようにはならないでほしいものだと密かに願いつつ、しかし不調の原因となっている考えごとが解決しつつあるらしき今は、ヒューティリアが納得して調子を取り戻すまで放って置くことにした。
なので適当に返事をしながら、セレストはセレストで自分のすべきことに集中する。
自分のすべきこと。
それは、悪筆でとても読めたものじゃない『子供とのつきあい方』を読み解くこと。
どうにも気になって数頁解読してみたのだが、どうやらこの本はソルシスが、拾い子であり初めての弟子でもあるマールエルと接する上で書き記したものらしい。
同時に、弟子に魔法を教える上での手順や手法に関する考察、実際教えてみてうまくいかなかったときの対処、更にその結果などもこと細かに書かれている。
内容は驚くほど自分が師から教えられた手順や手法と似ており、おそらくではあるが、師もこの本を参考にしていたのではないかと感じた。
ならばと、残りの頁も解読すべく向き合っているのだが……。
(心が折れる……)
というのが、セレストの正直な感想だ。
紙面に踊る文字は、どうしてそうなってしまったのか理解できないほど……いっそ他国の言語かと思えるほど原形を留めていないものもあり、文面も辛うじて読める文字で前後をつなぎ、不明箇所は意味が通る言葉を推察していくつも当て嵌め、同じ文字数かつ文字の形が近い言葉を探る。
ここまで頭脳労働を強いられるとは思いもしなかったセレストは、気を抜くとうめき声を上げてしまいそうになるのを必死にこらえた。
それでも定期的に目と頭を休めては解読を再開させる。
今後また何かにつまづいたり困ったことがあったとき、この本を……このソルシスの手記を読んでおけば、うまく解決できる事柄も出てくるかもしれない。
そう思えばこそ、内心頭を抱えながら解読を続行した。
それから更に数日後。
ヒューティリアは無事、不調を引き起こしていた原因に決着をつけることができたようだ。
その証のように、魔法植物の様子を見に行けばひとつとして枯らしておらず、試しに竃の火を任せてみれば見事に炎を調節してみせた。
「ずいぶん機嫌がいいな」
「だって、思い通りに魔法が使えて嬉しいんだもん」
よほど嬉しいのだろう、ヒューティリアが声を弾ませる。
「そうか」
にこにこと頷く弟子の様子にセレストも淡く笑みを浮かべると、一冊の本を差し出した。
本を受け取ったヒューティリアは、不思議そうにセレストを見上げる。
「調子が戻ったなら次の段階にも進めるだろう。基礎はもう充分できているから、その本に載っている魔法の中から次に覚えたい魔法を選んでくれ」
そう言い置くと、セレストはライアーを持って泉の方へと行ってしまった。
いつもならついていくのだが、ヒューティリアは渡された本をじっと見つめる。
ずしりと重いその本の表紙には『初級から中級の魔法』というタイトルが記されている。
リビングのソファに座ってさっそく本を開いてみれば、魔法の種類やどういった効果がある魔法なのかなどの説明に加え、図入りで解説が書かれていた。
じっくり読む姿勢になると、ほどなくして泉の方からライアーの音色が聞こえてきた。何度聞いても心地いいその音色にしばし聴き入り、ぱらぱらとページをめくる。
しかし徐々に落ち着きを失い本を閉じると、ソファから立ち上がった。走って自室に入りフルートを組み立て、そのまま外へと駆け出す。
結局ヒューティリアはいつも通りセレストの横でライアーの音色を聞き、その後自分もフルートを演奏して昼食時を迎えるのだった。
午後は未だ調整が苦手な温度調節の冷却魔法を練習し、妖精に贈るお菓子を作る。
その後は余分に作ったお菓子を食べ、再び外に出て冷却魔法の練習をし、日が沈む少し前に家に戻り夕食の支度を手伝う。
そして夕食の片付けを終えると、いつも通り各々自由に時間を過ごし始めた。
(次は何がいいかな)
まだ冷却魔法は苦手だが徐々にコツを掴み始めて成功しつつあるので、次に学ぶ魔法をどれにするか選ぶべく本を開いた。
まずはどんな魔法があるのか目を通し、その中で気になったものを黒板に書き出して更に取捨選択して絞り込んでいく。
思いの外種類が多いため、吟味しながら目を通すだけでも三日ほどかかった。
更に絞り込むのに五日かけ、その間にソーノから新たに本を三冊貸し出されて持ち帰っているが、今は『初級から中級の魔法』の方に夢中でまだ読めていない。
そこまで集中して『初級から中級の魔法』に目を通しているヒューティリアを、セレストは真面目だなと思いながら眺めていた。
もしヒューティリアが選べないと言った場合に備えて教える魔法をいくつか選出してはいるものの、あの様子なら不要になりそうだ、などと考えながら視線を手元の本に落とす。
ふたりともが本を読んでおり、静かな空間には頁をめくる音だけが時折聞こえてくる。
包み込むような静寂を、様子を窺っている精霊も妖精も決して壊そうとはしなかった。
ただただ静かに、同じように本を読み進める師弟を見守るのみ。
そうして様子を見守っていた精霊たちがそっと家から離れた。
『随分と落ち着いたね』
『本当、最初は大丈夫か心配だったけど』
『ちゃんと師匠と弟子になったね』
そうだね、と同意しながらくすくすと笑い声を漏らす精霊たちの周りに、妖精たちも集まってくる。
『マールエルはいないけど、森の方もセレストがいれば大丈夫そうだよね』
『あぁ、そっちの問題もあったんだっけ』
妖精からの言葉に、精霊は今思い出したように応じる。
『守護者がいるかどうかで森の状況も変わるからね』
『セレストは、マールエルがいない間は自分が代わりになろうって考えてるみたい』
『マールエルは、いい弟子を持ったね』
『マールエルも、いい弟子だったからね』
そうだね、と、今度は妖精たちも同意してくすくすと笑う。
『長たちも、きっとセレストを認めるだろうし』
『ぼくらも安心だ』
『本当に』
『もうソルシスが守護者になる前の森には、戻りたくないからね……』
この言葉に、その場にいた年長の精霊と妖精たちがぶるりと体を震わせた。それは明らかに恐れからくる震えだった。
昔を知らない若い精霊や妖精たちも、年長者たちほどでないにせよ顔色を悪くしていた。
精霊や妖精は、種族ごとに記憶を共有している。
彼らは個体で存在しているが意識の一部が繋がっており、長を頂点とした集合体でひとつの繋がりが、その更に上位では長たちと各種族の王が繋がっているのだ。
そうして繋がることにより、種族ごとに記憶が共有されている。
故に、この森で過去にあった重大な出来事は記憶として共有されていた。
ただし、人間に関する記憶は共有されていない。彼らには、彼らより寿命の短い人間の記憶を残そうという意識がないのだ。
そのため、この森の精霊や妖精でも若い世代になるとソルシスを知らないものたちが現れる、という現象が起こるのだが……。
『……セレストのことは、大事にしないとだね』
『その次代になるかもしれないヒューティリアもね』
うんうん、と頷き合って、妖精や精霊たちは再び家の様子を窺った。
室内には何やら本を指差してセレストに問いかけるヒューティリアと、それに応じているセレストの姿があった。
セレストの対応は淡々として見えるが、ヒューティリアがセレストに向けている全幅の信頼がその光景を和やかなものに見せている。
そんな師弟を改めて確認すると、妖精も精霊も自然と微笑みを浮かべていた。




