挫ける心
その日は特に冷え込んだ日だった。
泉も水面を凍らせ、室内にいても暖炉の近くでなければ凍えてしまいそうな寒さ。
外では風邪をひきかねないので、午前のライアーの練習は室内で行った。
精霊たちも家の中でその様子を見守っていたのだが……。
『ねぇ、ヒューティリア。もっと楽しく弾こうよ!』
『そんな暗い顔をしてたら、楽しい曲も楽しくなくなっちゃうよ?』
演奏の間もずっと気もそぞろでミスを繰り返し、ただでさえ落ち込んでいるのに更に深く落ち込んでいくヒューティリアに、精霊たちは努めて明るい声で話しかけた。
『元気出して!』
『魔法使いは誰でも最初は何かしらつまずいて、魔法が使えるようになるまで時間がかかってるんだから』
「……どれくらい?」
消え入りそうな声で問うヒューティリアに、精霊たちはぱっと体を光らせた。
『大体半年から一年で出来るよね』
『でも、遅い人は何年もかかるよね』
『最長で五年かかった人もいたね』
『いやいや、最長は十年でしょ! しかも十年やっても出来なくて、最後は諦めてたよね』
『うわっ、バカ!』
迂闊な言葉を発した精霊が他の精霊たちに体当たりされる。
しかし時すでに遅し。ヒューティリアにもばっちり聞こえてしまっており、「十年やっても出来ない……」と青ざめながら呟いた。
『ヒューティリアは大丈夫だよ。魔力を放出するところまではできてるんだから』
『あとは魔力のコントロールだよね』
『出しすぎてる魔力をもう少し絞って減らせれば、ぼくらも安心して力を貸せる。灯火を灯らせることができるよ!』
精霊たちの言葉は、失言のフォローというより実感からくる言葉のようだった。そのことがヒューティリアに微かな光明を見せる。
しかしすぐにヒューティリアは俯いてしまった。
「でも、どうやって魔力をコントロールしたらいいのかわからないの。魔力も何となくしかわからないし、どれだけ引き出せてるのかも、そもそも引き出せているのかどうかもわからないんだもん……」
二ヶ月近く魔力と向き合ってきたものの、ヒューティリアは魔力を扱うことに関しては一歩も進めていない気がしていた。
むしろ向き合ってきた時間が長い分、そして魔力について考え過ぎてしまっている分、ヒューティリアには魔力という存在がより一層よくわからない存在となっていた。
初めて魔力を掴んだときの方が余程、魔力がどんな感触なのかわかっていたような気さえする。
『そこは、ねぇ』
『わたしたち精霊は、人間の感覚がわからないから』
『セレストがもっとしっかりしてくれたらなぁ』
そう口々に言いながら、精霊たちはリビングがある方へと視線を向けた。
当のセレストは急な来客があって、そちらの対応をしている。ヒューティリアと一部の精霊たちは一旦ヒューティリアの自室に移動し、そこでライアーの練習をしていたのだ。
寒くないようにセレストが魔法を使ってくれているので室内はとても暖かいのだが、空気は暗く澱んでいた。
原因はもちろん、ヒューティリアが落ち込んでいるからだ。
しかし精霊たちには悩めるヒューティリアを救う手立てがなく、せめて元気づけようとするものの、それもままならず。
恐らく解決の手掛かりを持っているであろう……もしくはその手掛かりを見つけ出すことができるであろうセレストが、ヒューティリアが何に引っかかっているのか把握できていない状況に、精霊たちはもどかしさを感じていた。
一方セレストは、リビングで森に隣接する村の少年・グラとその父親と向き合っていた。
ふたりは昼食にはやや早いくらいの時間に訪れると、グラの父親であるレグが挨拶もそこそこに、「急な訪問で申し訳ない。今日は雑貨屋の使いとして来たんだ」と切り出した。
セレストは要件を聞くべくふたりをリビングに通し、ヒューティリアたちに部屋で練習を続けるようにと指示を出したのだが──
その間も含め現在に至るまで、レグとグラは深刻そうな表情を浮かべていた。
そんなふたりの様子とのしかかるような重い沈黙から、どうやら込み入った用件らしいと判断する。
(防音を頼む)
セレストが心の中で呼びかけると、精霊たちはセレストの魔力と引き換えに意図を汲み、力を行使する。
あっという間にヒューティリアの拙いライアーの音色がリビング側に聴こえてこなくなり、同時にヒューティリア側にもこちらの会話が聞こえないように防音が施された。
魔法が発動したことを確認すると、もてなしをするような雰囲気ではなかったため、セレストが率先してソファーに腰掛ける。
するとそれに続くようにレグとグラもソファーに腰を下ろした。
「……今日は魔法薬の依頼をしにきた。うちの村で、最近になってとある病が重症化した病人がいるんだが、その家族がこれまで溜めた貯蓄を全て使ってもいいからと魔法薬を欲しがっているそうだ」
レグはその大柄な体をソファーに沈めると早速、雑貨屋店主からの伝言をセレストに伝える。
対するセレストは眉間に皺を寄せた。
「病名はわかりますか」
「石化性なんちゃらっていう、段々皮膚が石みたいに固くなってくやつだ。最近までは進行が遅かったから薬を飲まずとも生活に不便はないだろうと医者も言っていたんだが、先日急に進行が早まって、今はもう片足が完全に石化している」
セレストはレグの話から記憶の糸をたぐり寄せて病名を思い出すと、ぽつりと口にした。
「石化性表皮硬化症」
「それだ!」
レグの反応を見て、セレストは小さく唸る。頭の中では調合部屋に揃っている材料を思い浮かべ、対処可能な魔法薬が作れるかめまぐるしく思考していた。
「魔法的な症状が見られる病気には確かに魔法薬の方が有効ですが、高価な上に作るのに時間がかかる。しかし症状の進行を抑える通常の薬も高価で手が出ない、といったところですか」
「そうなんだ。医者が言うには今の進行速度だと半年もつかどうかというところらしい」
もとの病の進行状況はセレストにはわからないが、進行が早まる以前なら薬を飲まずとも不便なく暮らせる程度だったとレグは言っていた。ならば症状は相当軽度であったはず。
それが進行が早まったことで僅か数日で片足が使えなくなり、命の期限も長くて半年と宣告されるほど酷い状況となると、一刻を争う事態であることは容易に想像できる。
「あまりこういうことは言いたくないのですが、国の定めがありますので確認します。用意できる代金はお幾らですか?」
セレストの問いに、魔法薬は国が定めている決まりに沿った価格でしか売れないことをレグも理解しているのだろう。深く頷いて「八百」と短く答える。
しかしここで、今までレグの横で大人しく話を聞いていたグラが勢い良く席から立ち上がった。
「人の命がかかってるのに、金の話かよ!」
「グラ!」
セレストに噛み付きかねない剣幕で叫ぶグラを、すかさずレグが押さえつける。その光景を、セレストはただ静かに見ていた。
そんなセレストの視線を正面から受けて、グラは声を震わせる。
「俺、魔法使いに憧れてたのに……あんた最低だな」
嫌悪に満ちた表情で軽蔑の言葉をぶつけられても、セレストは動じなかった。
こういったやり取りは、マールエルの弟子として過ごしていた間にも何度となく遭遇している。
幼い頃のセレストは何も知らない客に苛立ち、反論しない師の前に立ってよく言い返したものだ。「国が決めたことだ。文句があるなら国に言え」と。
しかしそんなセレストを窘めたのは他でもない、師であるマールエルだった。
「申し訳ない、セレストくん」
古い記憶が鮮明に蘇り、そのまま記憶と思考の渦に落ちかけていたセレストを呼び戻したのは、レグの謝罪の言葉だった。
セレストは現実に意識を引き戻し、静かにかぶりを振る。
「いえ……国の決定を覆すことができない俺たち魔法使いには、返す言葉もありません」
マールエルはセレストを窘めると、決まって憤っている客にこの言葉を向けていた。
そして一度だけ、客が帰ったあとに反論しない理由を話してくれたことがあった。
──相手が怒るのは当たり前なんだよ、セレスト。何せ私は助ける力を持っているのに、お金がないなら助けないと言っているんだから。
それに、お客さんが抱いているのは純粋な怒りだけじゃない。
随分前の話になるけれど、魔法薬を買えずに怒りながら帰っていったお客さんが謝罪に来たことがあってね。そのとき、こう言ってたんだ。
どう足掻いても救う力を持たない自分への恨めしさともどかしさ。加えて、どうにかする力を持っているのに、ただでは助けてくれない魔法使いへの怒り。
そして命の終わりを見守ることしかできない現実への、言いようのない悲しさと虚しさ、罪悪感。
その全てが混ざり合って、感情が溢れてしまった。
理性なんて簡単に決壊して、全ての感情が自分にとって最も楽で都合のいい怒りの感情に変わり、目の前の魔法使いに向かってしまうのを止められなかった……そう言っていた。
結局その人が救いたかった人は救えなかったけれど、時間の経過とともに気持ちが落ち着いたんだろうね。
わざわざ「あのときは理不尽に怒りをぶつけて申し訳なかった」と謝罪しにきたんだよ──
この話を聞いたセレストは、それでも客の身勝手さが理解できず、また、その身勝手さを許容する師のことも理解できなかった。
けれど「命が失われるということは、二度とその人と会えなくなるってことなんだよ」と諭され、つい数日前に傷を負っているところを保護したものの、結局助けられなかった小さな命のことを思い出した。
何とかして助けたいのに、自分が持たないものを支払わなければ救えない命。
自分ではない誰かであれば支払えるのに、自分ではどうすることもできない絶望。
結局、ただ命の終わりを見守ることしかできなかった虚しさ。
その時のつらさや悔しさ、苦しさを思うと、少しだけ師をなじった客の気持ちがわかったような気がして……。
そして今。
すぐにでも対処しなければ失われる命に接している人たちが、目の前にいる。
セレストは魔法薬を作る魔法使いとして初めて、かつて師が向き合ってきた客と立場を同じくする者たちと相対していた。
脳裏には師の言葉。そして師をなじる客の声と、師から聞かされた話が蘇る。
「話を戻しましょう。八百であれば、一番安価な材料で作る石化性表皮硬化症の魔法薬があります。作るのに時間もかからない」
「それでいい。頼めるだろうか?」
尚もセレストに食って掛かろうとするグラの口を塞ぎつつ、レグが真剣な眼差しを向けてくる。
セレストは頷くと、席を立った。
「すぐにでも取りかかります。三日ほどで出来ますので、出来次第村まで届けます」
そんなやり取りがリビングで行われているとは露知らず、ヒューティリアはライアーを机に置くと窓の外に視線を投げた。ちょうどそのタイミングで用件を終えたらしいレグとグラが家から出てくる。
咄嗟にグラに声をかけようかと思ったものの、魔法使いに憧れているグラに魔法がうまく使えないことを相談するのは憚られる気がして、森の中へと消えていく後ろ姿を見送った。
そのままぼんやりと窓の外を眺めていると、不意に部屋の扉がノックされた。
ヒューティリアは反射的に太陽が天頂にあることを確認すると、もう昼食の時間かと思いながら扉を開けた。そして扉の向こうに立っているセレストに、グラたちが何の用で来たのか聞こうと口を開きかけた。
──しかし。
「悪いが、昼食後の魔法の勉強は今日から三日間、自習しててくれ」
ヒューティリアが声を発するより先に、セレストが言い放った。
事情も何も知らないヒューティリアは、一瞬にして思考が停止した。
頭の中がさっと白くなり、次の瞬間には同じくらいの早さで暗く沈んでいく。
「……どうして?」
「急ぎ魔法薬が必要に──」
「なんで!?」
セレストが答えるのを遮って、ヒューティリアが叫ぶ。
思わず口を噤んだセレストをヒューティリアは潤んだ目で睨み上げた。
「魔力の調整のしかたなんて全然わかんない! どうしたらいいのか一杯考えたけどずっと出来ないままで、なんで出来ないのかももうわかんないよ!」
発せられた声は荒々しかったものの、どこか不安気に揺れていた。
「どうしてできないの? あたしはこのまま、魔法使いにはなれないの!?」
これまで抑えてきた感情が溢れ、ヒューティリアの目から大粒の涙がこぼれ始める。
そして。
「セレストはあたしの師匠なのに、どうしてもっとちゃんと教えてくれないの!?」
更に続けられた言葉は、強く鋭く、セレストへと叩き付けられた。
思いがけず深く言葉が刺さり、セレストは息を詰める。
一方ヒューティリアは、自分の内に渦巻いていた全てを吐き出すなりセレストを押しのけ、家の外へと走り去った。
怒濤の出来事に呆然としているセレストの周りで、空気がパチンパチンと弾ける。
「痛い」
『痛くしてるんだよ!』
『このあんぽんたん!』
『本当に師匠に向いてない!』
それは言われずとも自覚している。自覚しているが、改めて他人から言われるとぐさりと刺さる。
言葉に詰まって黙り込むと、セレストの背を押すように風が吹いた。
『それでもヒューティリアは、師匠はセレストがいいんだよ』
『だからもっと頑張ってよ、師匠!』
ぐいぐいと押されて、セレストの足が玄関の方へと歩き出す。
いつの間にか足元には妖精たちも集まっていた。
『ほらほら、早く追いかける! 魔法薬ならぼくらが先に作り始めておくから!』
『特別サービスだからねっ』
『ヒューティリアなら泉のところにいるよ』
『早く行かないと風邪ひいちゃう!』
「ちょっと待て、まだ状況が飲み込み切れないんだが」
セレストはらしくもなく、状況を理解しないままヒューティリアと向かい合うことに及び腰になっている。
すると精霊や妖精たちから『もぉぉっ!』ともどかしがる声が上がった。実際にセレストの目には地団駄を踏んでいる彼らの姿が映る。
『セレストは頭で理解するより先に感覚で魔法が使えちゃったから、頭で理解しないと感覚としても掴めないヒューティリアの気持ちがわかってないの!』
『つまり、セレストのアドバイスはヒューティリアにとってアドバイスになってないってこと』
『そりゃそうだよ。魔力を捉え操るのは簡単にできるものじゃないとか、最も難しい技術だとか、時間がかかるのが普通だとか、そんなの何のアドバイスにもなってないもん』
言われてようやくセレストも己の足りなさに気付き、苦い表情を浮かべた。
『自分が持っている知識や、自分が教えられたときの記憶にばかり頼っちゃだめだよ』
『セレストとヒューティリアは違うんだから、ちゃんとヒューティリアに合わせてセレストも勉強しないと』
「……わかった」
自分の至らなさに頭痛を覚えて眉間の皺を深めつつ頷くと、セレストは自らの足で家の外へと歩き出した。
歩きながら脳裏に浮かんだのは、セレストに魔法を教えている最中もあれこれと悩み、考えながらあらゆる魔法書をめくっていた師匠の姿だった──




