その後のふたり
“奇跡の日”より一年と半年が経過したこの秋、セレストとヒューティリアの師弟関係は九年目を迎えていた。
この日、セレストとヒューティリアはクルーエ村で行われた結婚式に呼ばれていた。
村でささやかな結婚式を挙げたのはグラとソーノ。ふたりは新たな門出に立ったのだ。
そのふたりを目一杯祝ったヒューティリアは、上機嫌で帰途についていた。
その胸元では弟子になった日に渡された小さな笛と、成人の祝いにセレストから贈られた首飾りが揺れている。
先を行くセレストの背中を弾む足取りで追いかけていると、浮き立った気分のせいだろうか。ヒューティリアは不意にこみ上げてきた気持ちを抑え切れなくなってしまった。
「ねぇ、セレスト」
先を歩くセレストに、ヒューティリアが呼びかけた。足を止め振り返ったセレストは、僅かに首を傾げ先を促す。
そんな仕草も愛おしくて、ヒューティリアは溢れる想いを飾ることなく言葉に乗せた。
「あたしね、セレストのことが好き。大好き」
自然と言葉にしたつもりだったのに、口にした途端にヒューティリアの頬が熱を帯びる。
だと言うのに、セレストの答えは。
「そうか」
たったひとこと。
あまりにも薄い反応にヒューティリアは一瞬呆気にとられ、次の瞬間には呆れた表情と視線をセレストに向けていた。
「ちゃんと意味わかってる?」
「……さあ」
はぐらかすような返答。
しかしセレストの反応を窺っていたヒューティリアは、ほどけるように微笑んだ。
ヒューティリアの気持ちは確かにセレストに伝わっている。そう確信して。
「迷惑?」
「別に」
「嫌じゃない?」
「別に」
「じゃあ、好きでいてもいい?」
「……任せる」
矢継ぎ早の質問に律儀に応じてくれるセレストに、ヒューティリアは段々飛びつきたくなってきた。
しかしここはぐっと我慢する。代わりに、
「手を、繋いでもいい?」
妥協案を提示する。
するとセレストは目を見開き、思案顔で黙り込んだ。
これまではセレスト側から差し出されていた手。
しかしヒューティリア側から求められた今、躊躇いが生じている。
それが、ヒューティリアには嬉しかった。
セレストはちゃんとヒューティリアの気持ちを知り、ヒューティリアのことを考えてくれている。ちゃんと考えているからこそ、簡単には応じられないのだ。
(セレストらしいなぁ)
決して軽くは考えず、適当に流すこともせず、真剣に受け止めてくれている。それがわかって、さらに愛しさが増した。
「ありがとう。ちゃんと考えてくれて」
その優しさが、温かさがたまらなく好きなのだと再認識して、自然と感謝の言葉が溢れ出る。
想いが通じたわけでもないのに幸せな気持ちに満たされていると、ふわりと何かが頭に触れた。その感触の正体など考えるまでもない。
ヒューティリアは目を細め、セレストの手に大人しく撫でられる。
「……帰るぞ」
しばらくされるがままになっていると、不意に声がかけられた。頷こうとヒューティリアが顔を上げるより早く、左手が大きな手に包まれる。
突然のことに驚き、ヒューティリアは目を見開いた。しかしセレストはそんなヒューティリアに構うことなく歩き出す。
ヒューティリアは半ば呆然としながらセレストに手を引かれ、足を動かした。
そのまま沈黙の中を歩いていくと、唐突にセレストが口を開く。
「クロベルは、しばらく森から離れるらしい」
背中を見せながら歩くセレストの声。
いつもと変わらない声音に、残念に思う気持ちと安堵する気持ちが同時に湧き上がる。
ヒューティリアの気持ちに対する答えは聞けそうにない。それは残念なのだが、拒絶されていないことには安堵する。
そんな複雑な気持ちを抱きながらも、ヒューティリアは気を取り直して頷いた。
「うん、あたしも昨日クロベルから聞いたよ」
「そうか」
セレストのいつもの素っ気ない返しに、つい「ふふっ」と笑い声が漏れてしまう。
自分から話題を振った割に、セレストは会話を継続することができない。会話自体あまり得意ではないのだ。
それでもクロベルのことはヒューティリアに知らせておかねばと思ったのだろう。
(そういう律儀なところも好きだなぁ)
そんなことを考えていると、笑われたことが気にかかったのだろう。セレストが怪訝そうな表情で振り返った。
新緑色の瞳がヒューティリアに向けられる。
「なんでもない──あっ! そうだあたし、セレストに言い忘れてたことがあった!」
首を横に振りかけて、唐突に忘れかけていたことを思い出す。
何事かと再び足を止めたセレストに、ヒューティリアは問いかけた。
「前にあたしが色々と悩んでた時、答えが出たら必ず話すって言ったこと、覚えてる?」
「……ああ、あったな」
セレストは記憶を掘り返し、頷いた。
しばらく気になっていたものの、一年以上経ってもヒューティリアが話しにくる気配はなかった。なのでまだ答えが出ていないか、結局打ち明けられないような結論に至ったのだろうと思い、忘れることにしたのだ。
「出た答えが、さっきの言葉なの」
あの頃のヒューティリアの悩みは多岐に渡っていた。
けれど最終的に辿り着いたのは、自分は自分であるということ。そしてセレストも、ほかの誰でもないセレストであるということだった。
だったら迷う必要なんてないと思った。
ほかの誰でもないセレストに、ほかの誰でもない自分の気持ちを伝えることに、一体何の障害があるというのか。
迷いのないヒューティリアの視線の先で、セレストは首を傾げていた。ヒューティリアがセレストに伝えることのできない部分を大幅に端折っているのだから、当然の反応だ。
だからヒューティリアはもう一度、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「あたしはセレストが好き」
今度こそ自然に、その言葉が口から出ていく。
「あたしはあたしとして今日まで生きてきた。そのあたしが手に入れた気持ちは、あたしだけのものなの」
さらに言葉を重ねると、困惑していたセレストの表情が真剣なものに変わる。
きっと今、自分も同じような表情をしているのだろうとヒューティリアは思った。
「だから、あたしはもう迷わない。自分の気持ちは自分の言葉で伝えられるんだって、わかったから」
ヒューティリアは、繋がれた手をぎゅっと握り締める。
そして花がほころぶような笑顔を浮かべた。
「あたしね、セレストの弟子になれてよかった。言葉では伝え切れないくらい、セレストと一緒に過ごす毎日が幸せで、嬉しいの。ありがとう、セレスト」
一方的な思いかも知れない。けれど今なら伝えられる。
本当は止めどなく溢れる気持ちを全て言葉にしてしまいたかった。しかし尽きることのないその全てを言葉にすることは難しい。
だからヒューティリアは、これだけはと思う気持ちを言葉に変えた。
すると、繋いだ手にセレストの方からも力が込められた。
驚きつつ握られた手に視線を落とし、改めてセレストを見上げると、柔らかな瞳とぶつかる。
その顔には微かではあるが、優しい笑みが浮かんでいた。
「俺も、お前が弟子でよかったと思っている。始めは誰かとともに暮らすのは難しいのではないかと思っていたが……」
言葉が途切れる。
適切な言葉が見つからないのだろうか。セレストは眉間に皺を寄せ、考え込んでしまった。
落ちる沈黙。
しかしヒューティリアは焦れることなく言葉の続きを待った。真剣に考えてくれていることが何より嬉しいのだ。いくらでも待てる。
やがて、セレストの眉間の皺が消えた。
再び視線が交わると同時に、セレストが苦笑を浮かべる。
「駄目だな。こういう時、口下手なのが災いする」
そう呟いて一呼吸分の間を置くと、改めて口を開いた。
「お前と過ごす毎日は充実していて、今日までお前には何度も助けられてきた。教えているつもりが、逆に教えられているということも少なくなかったな。感謝している。ありがとう、ヒューティリア」
続けられた言葉がじんわりと浸透してくる。それと同時に、ヒューティリアの目に涙がこみあげてきた。
そんな風に思ってくれていたなんて考えもしなかったし、こんな風に直接言葉を貰えるとも思っていなかったのだ。
ぽろぽろと涙を零すヒューティリアに、セレストがハンカチを差し出す。
そして、軽くヒューティリアの手を引いた。
「帰ろう」
「うん……!」
ふたりは手を繋いだまま帰途につく。
向かう先には森に溶け込むような木造の、くすんだ緑色の屋根を乗せた家がひとつ。
家に向かい並んで歩くふたりを、森の精霊や妖精たちが優しい眼差しで見守っていた。




