失えないもの
クロベルの動きが変わった。
逸早くそれに気付いたのはセレストだった。
さきほどまでの厄災を誘導するような動きとは違い、厄災の様子を窺うような動きに変わったように見える。
(何をするつもりだ……?)
セレストにはクロベルの考えていることが理解できない。
これまでにもクロベルは何度となく言葉を濁してきたが、濁されたものが何なのか、答えの片鱗すら掴めずにいる。
それでもクロベルが何を考えているのか、探らねばならないと思った。
(嫌な予感がする)
セレストは根拠のない予感に突き動かされ、クロベルを見上げる。そしてじっと目を凝らし、その動向に注視した。
そんなセレストの様子から、ヒューティリアもクロベルの異変に気が付いた。
何をそんなに熱心に見ているのだろうと疑問を抱き、視線の先を追いかける。
そうして視界に入ったクロベルをよく見ていると、どうにも動きがおかしい。
襲いかかる厄災の手からうまく逃れているようにも見えるが、先ほどまでとは違い、どことなく危うい。
「クロベル……?」
ヒューティリアの呟きに反応して、セレストが振り返った。
「お前もおかしいと思うか?」
「うん、絶対おかしい」
「何を考えているんだか……」
そんな言葉を交わすふたりの傍らで、ムルクはひとり考え込んでいた。
ムルクにはふたりの会話の意味はわからない。
しかし、これまでの付き合いの賜物だろうか。何となく、ムルクには見えない何かをふたりは見ているのだろうという結論に達していた。
それに、厄災は王都に見向きもせず西へ西へと向かいながら何かに攻撃を加えているのだ。
厄災の視線の先。そこにムルクの目には見えない何かがいるのだろうと考えた方が自然だ。
「なぁ、こっちは安全みたいだけど、このままじゃキリがないんじゃないか?」
そう切り出せば、セレストが首を横に振る。
「厄災の気が変わったら安全なんて一瞬で消える。クロベルが厄災の気を引いてはいるが」
クロベル。
先ほどからセレストとヒューティリアが何度か口にしている名だ。
そのクロベルという存在が厄災の気を引いてくれているのかと理解し、ムルクは唸る。
「その、クロベル? って奴は、大丈夫なのか?」
この問いには、ヒューティリアが首を横に振って応じた。
「けっこうギリギリで、今にも食べられちゃいそう──って、もしかして!」
不意にクロベルの意図に思い至り、ヒューティリアは一気に顔色を悪くして「クロベル!!」と声を張り上げた。
上空で厄災の爪から逃れたクロベルが、一瞬だけヒューティリアに視線を向ける。
しかし次の瞬間には厄災の更なる攻撃が襲いかかり、辛うじてそれを回避する。
はらはらしながらその様子を見つめるヒューティリアに、セレストが一体何に気付いたのか問おうとした、その時。
突如、ヒューティリアが右手を前に突き出した。
次の瞬間には炎の球が幾つも飛んで行く。
それを目で追えば、今にも厄災の口に捕われそうになっているクロベルの姿が。
何が起こったのかわからずにいるセレストの横で、ヒューティリアから怒りの声が放たれた。
「そんなことをしても、マーヴェルに怒られるだけなんだから!」
驚くほどよく通る声が辺りに響いた。
振り返ったセレストの目に映ったのは、眉尻を吊り上げたヒューティリアの姿。その瞳には烈火の如き怒りが宿っていた。
「あたしだって怒るし、セレストだって絶対怒るんだからね! ソルシスさんだって怒るだろうし、マールエルさんなんて、マールエルさんなんて──絶対許してくれないんだから!!」
マールエルのために時を巻き戻しておきながら、自分は勝手に死を選ぼうとしたこと。
マールエルならきっと、許しはしない。ヒューティリアだって許さない。
その意志を込めて畳み掛ければ、ぴたりとクロベルの動きが止まった。
一方、厄災は動きを止めたクロベルには食いつかず、ゆっくりとした動作で王都を振り返った。そしてその紅い瞳をひたりとヒューティリアに定める。
周囲にいた王国魔法師団の団員たちが悲鳴を上げた。
しかしその中心にいるヒューティリアは正面から厄災の視線を受け止め、逆に睨み据える。
クロベルを諌めるためとは言え、厄災の注意を引いてしまった己の浅はかさをヒューティリアは少なからず後悔していた。
しかし、それでも。
クロベルを失わずに済んだことに関しては、自らを褒め称えた。ヒューティリアにとってはセレストだけでなく、クロベルも失うわけにはいかない存在なのだから。
(絶対に負けない!)
気合いを入れて、ヒューティリアは走り出した。王都から離れるように、厄災に向かって。
対抗する手段なんてわからない。けれど、追い払うことはできるはずなのだ。
何故なら過去に一度、ソルシスが厄災を追い払った実績があるのだから。
「ヒューティリア!」
すぐに後を追ってくる気配が続く。
振り返ればセレストとムルクが追いかけてきていた。
ヒューティリアが驚く間もなく、セレストが厄災のいる方へと手を振り上げる。
つられるようにそちらを見上げれば、巨大な爪が目前まで迫っていた。
ヒューティリアの足が竦んだ瞬間、硬質な音が響いた。
何が起こったのかは、辛うじて理解出来た。セレストが防壁の魔法を行使したのだ。
しかし、たったひとりの魔力で巨体から繰り出される一撃を防ぎきれるはずもなく。
ヒューティリアの目の前で、セレストの髪の一房からさっと色が抜け落ちた。
次の瞬間には厄災の爪が防壁に罅を走らせる。
ヒューティリアは慌てて自らも防壁の魔法を行使し、声を張り上げた。
「お願い! みんな、防壁の魔法を!!」
それが誰に向けられた言葉かなど、考えるまでもなく。
恐怖で身を竦ませていた魔法使いたちは弾かれたように顔を上げ、厄災の標的になって尚立ち向かう少女の姿に、そして最前線で厄災と対峙するかつての同僚の姿に、目を奪われた。
しかしそれも一瞬のこと。
ムルクを含め、その場にいる王国魔法師団団員たちは一斉に防壁の魔法を行使する。
強度を増した防壁の魔法によって、厄災との力が拮抗する。
呆然と状況を見守っていたクロベルもようやく我に返って加勢しようとした──その時。
厄災の動きが、突如凍り付いた。
それまで聞こえていた獰猛な唸り声が消え、厄災の体がぶるぶると震え始める。
誰もが何が起こったのか分からず、不安げに、しかし決して目を逸らすまいと厄災の様子を窺った。
そんな人々の間を、柔らかな風が吹き抜ける。
『これはきっと、二度とないチャンスだ』
聞き覚えのある声。
ヒューティリアがその声に振り返れば、毎年のように顔を見せにくる風の精霊がそこにいた。
風の精霊だけではない。明らかに力のある精霊が数多くこの場に集っていた。
それに続くように、セレストの目には力ある妖精たちも集まり始めている光景が映る。
「一体何が……」
驚き目を瞠っているのはセレストだけではない。
精霊や妖精の気配を感知できる魔法使いたち全員が、周囲に集まった強い力を持つ精霊や妖精の気配に圧倒されていた。
その中に、別次元の存在感を放つ者たちが現れる。
『よく持ち堪えてくれた。おかげで厄災を封じる機会が巡ってきた』
そのひとりが、セレストの傍らに現れた。
人と見紛うような姿をしているが、その背中には青い燐光を放つ羽を生やしている。
また別のひとりが、ヒューティリアの横に顕現する。
こちらも人の姿を象っているが、鹿のような角を生やしていた。
『ずっとこの時を待っていた。いつも充分な人数が集まるより前に、厄災に逃げられてしまって困っていたんだ』
口々にそう言うと、セレストとヒューティリアに笑いかけ、上空へと舞い上がる。
すぐにクロベルに並び、よろめいたクロベルを両脇から支えた。
『さぁさぁ、皆の者! 厄災を封印するぞ!!』
鹿のような角を持つ者、精霊王が周囲に集まった精霊や妖精たち呼びかける。
それに応じて、先陣を切って魔力を放出し始めたのは青い燐光を放つ羽を持つ者、妖精王。
続くように、周囲に集まっていた渡りの精霊や妖精、そして原初の精霊や妖精たちが魔力を放出し始める。
空気が、震えた。
密度の高い魔力が光の粒となり、粒が生まれ出る度に甲高い音が鳴り響く。
やがて魔力の粒が辺りを満たすと、厄災を包み込むように集結していく。
『ガァァァ……!』
厄災が苦しげな呻きをあげ、抵抗しようと暴れ出す。
しかし、さすがにこの数の上位の精霊や妖精の力には敵わないようだ。
しばらくは地面が揺れるほど暴れていたが、徐々に抵抗が弱まっていき、やがて厄災の体は完全に魔力の光の中に閉じ込められる。
その光景を、セレストもヒューティリアも、ムルクも魔法師団団員たちも。そして、王都にいる人々も。全員が、ただただ呆然と見上げていた。
恐らく大半の人には何が起こっているのかわからなかっただろう。
正しく状況を理解出来ていたのは、精霊や妖精の姿を視ることができるセレストとヒューティリアくらいだ。
魔力の光に包まれた厄災は、徐々に徐々に小さくなっていく。それはやがて手の平に乗る大きさの球体になり、精霊王がその手に収める。
『これはわたしが預かっておこう』
そう告げて、精霊王は姿を消した。
『皆、ご苦労だった。厄災は我々が責任を持って監視する』
続いて、妖精王が姿を消す。
集まっていた原初の精霊や妖精たちは、力をほとんど使い果たしてしまったクロベルの周囲に集まり、何やらクロベルを小突きながら一言ずつ告げると、次々と消えていった。
本来在るべき場所へと戻っていったのだろう。
『さて、我々も行くか』
そう言いながらセレストとヒューティリアの前に降り立ったのは、顔なじみの風の精霊。
正面からふたりと向き合うと、真剣な表情で頭を下げた。
『迅速に厄災をこの場から引き離す必要があったとは言え、精霊王や妖精王から直接礼を伝えられなかったことは申し訳なく思う。彼らの代わりにはならないだろうが、私から礼を言わせて貰おう。原初の精霊クロベルも相当無茶をしたようだが、今回は人間の力に大いに助けられた。ありがとう。他の人間にも、そう伝えておいてくれ』
風の精霊の言葉に、セレストとヒューティリアは顔を見合せる。しかし互いに読み取れたのは、どう返答したらいいか困っていることだけだった。
それが可笑しくて、どちらからともなく笑みを浮かべる。
さきほどまで緊張状態にあったせいだろうか。一度気が緩んでしまうとどうにも立て直せなくなる。
「わかった。伝えておこう」
セレストが返答すると、風の精霊は満足げに頷いた。
その後ろにいた渡りの精霊や妖精たちも微笑みを浮かべると、ひとり、またひとりと去って行く。
最後に風の精霊が立ち去ると、つい先ほどまでそこに力ある精霊や妖精たちが集まっていたことが嘘のように、日常の風景が広がっていた。
彼らが集ったのは、ほんの短い時間だった。
しかしここで彼らが成したことは、過去を何百年、何千年と遡ろうとも誰も成し得なかったこと。
だからこそ、立ち去っていく精霊や妖精たちの表情は晴れやかだった。ただひとり、残されたクロベルだけが戸惑いの表情を浮かべている。
見上げれば、いつの間にか空を覆っていた暗雲が晴れ、抜けるような青空が広がっていた。
いまだ上空に浮いたまま呆然としているクロベルに、ヒューティリアが大きな声で呼びかける。
呼ばれたクロベルは、セレストとヒューティリアのもとへとゆっくりと下降していった。
季節は春の初旬。
厄災に踏み潰されずに残っていた野花が、心地良さそうに風に揺れていた。




