幕間 クロベルの選択
「師匠と、また出会いからやり直したいなぁ……。今度は失敗しないように。今度こそ、師匠の願いを叶えられるように──」
そんな望みを口にして眠りに落ちたマールエルを前に、クロベルも、森の精霊や妖精たちも、言葉を失くして立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたのか、明るかった外の景色が夕闇に沈み始める。
『……何とか、マールエルの願いを叶えられないかな?』
森の精霊の長がクロベルに問いかけた。
他の精霊や妖精たちからも注目され、クロベルは考え込む。
マールエルをソルシスとの出会いからやり直させるなんてことは、到底実現できるものではない。何故なら、それを成すにはソルシスの存在が不可欠だからだ。
ソルシスはもういない。どう足掻いても代償として支払われた記憶が戻ることはないし、仮に戻せるとしても、セレストの人格を壊すようなことはマールエルも望まないだろう。
『我々精霊や妖精であれば時間の巻き戻しで蘇る可能性はあるが、人間はそうもいかないだろう』
クロベルと同じく、マールエルの望みを叶えるのは不可能だと森の妖精の長が結論を出す。
しかし森の精霊の長を含めた周囲の精霊や妖精たちも、そのことは充分理解していた。
だからこそ、一縷の望みを懸けてクロベルに問うたのだ。自分たちとは一線を画す力を持つ、原初の精霊に。
しかし、その原初の精霊の力を以てしてもマールエルの望みを叶えることは出来ない。
妖精の長が言う通り、対象が精霊や妖精であるならば、時間の巻き戻しで失われた存在を取り戻せる可能性があった。
何故なら、精霊や妖精が核のみの状態になるのは、正確に表現するならば命を終えたことを示しているのではなく、役目を終えたことを示しているからだ。
精霊や妖精は生まれ持った核を魔力で満たすと魔力を集めるための体を失い、役目を終える。
例外として、核を傷つけられると姿を保てなくなり、そのまま役目を果たせず核のみの状態に陥ることもあるのだが。
故に、役目を終える前の状態……若しくは、核が傷つく前の状態に戻すことができれば、その核の持ち主が蘇る可能性があった。
ソルシスはそこに目を付けて、時繰り魔法を考え出したのだ。
しかしそれはあくまでも精霊や妖精の場合の話。人間はその限りではない。
『ソルシスが、戻ることはない……』
改めてそう呟いた時、不意に閃くものがあった。
クロベルは顔を上げ、ベッドで眠るマールエルを見つめる。
『ソルシスが戻ることはないが、セレストはいる。そして、マールエルは戻ることができる……』
クロベルの言葉からその意味を察した長たちが、息を呑んだ。戸惑いながらも、小さく『そうか』と同意の声を上げる。
クロベルの意図に気付いた他の精霊や妖精たちも次々とそれしかない、と賛成の意を示し、あっという間に方針が確定した。
クロベルはまず、必要となる代償を試算した。
これは時繰り魔法を行使でき、実際に時を巻き戻したことがあるクロベルにしかできないことだ。
まず、マールエルの記憶を代償にすることは確定だ。出会いからやり直すのであれば、ソルシスと出会って以降の記憶は邪魔になる。
ただ、マールエルが「今度は失敗しないように」と言っていた点に考慮し、クロベルがこの家に留まり、同じ過ちを繰り返すことのないように見守っていくつもりだ。
(というよりも)
クロベルは自らの内にある深い後悔を、改めて胸に刻み込む。
(時を止めること、そして時を巻き戻すこと。これに関しては、マールエルの時を巻き戻すのが最後だ。誰に求められようとも、もう二度と応じはしない)
そう決意して、マールエルがソルシスと出会った十歳以降の記憶を代償にすると考えた場合、不足する代償がどれほどになるのかを更に計算する。
すると、森の精霊の長と妖精の長が手元にある核をありったけ持ち寄ってくれた。
代償の不足分としては、充分すぎる量。
こうして、代償の用意は整った。
「クロベル……何をしているの?」
ほとんど意識がなかったマールエルが目を覚ました。
マールエルが体を起こそうとするのを、周囲にいた精霊や妖精たちが慌てて支える。
現在マールエルには森の精霊たちによって延命のための治癒魔法が施されており、森の妖精たちも献身的にマールエルの看病をしている。
それだけ手を尽くしてもマールエルはほとんどの時間を眠りの中で過ごし、時折ぼんやりと覚醒するも、またすぐに眠りにつく……というような状態を繰り返していたため、マールエルが声を発したことにその場にいた精霊や妖精たちは涙ぐんでしまった。
そんな中、マールエルから問いを向けられたクロベルは穏やかな微笑を浮かべる。
『いや、別に。それよりも、起きて大丈夫なのか?』
「うん……今は大丈夫そう」
弱々しい声。
クロベルは一度唇を噛み締めたが、すぐに気を取り直して紙と筆を差し出した。
『もし書けそうなら、セレストに手紙を書かないか?』
「手紙?」
『ああ。風の精霊を使って送れば、間に合うかも知れない』
何に、とは言わなかった。
しかし言外の言葉を察したマールエルは困ったような笑みを浮かべ、「そっか、なら書こうかな」と言って、クロベルから紙と筆を受け取る。
思いの外しっかりした手つきで手紙を書き始めたマールエルの様子を、クロベルたちは見守った。
しばらくはマールエルが筆を走らせる音だけが室内に響いていたが、不意に、マールエルが手紙を書く手を止めずに言葉を零す。
「あのね、もし私が死んでしまったら……私が死んだことは、セレストにはしばらく黙ってて欲しいんだ。森の守護者がいないとみんなが困ることはわかってるけど、少しの間でいいから……」
今手元では、間に合うことを願いながらセレストを呼び戻すための手紙を書いているはずだ。
なのに、気持ちはすでに間に合わない方へと傾いているのだろう。そんなことを口にした。
クロベルを含め、周囲にいた精霊や妖精たちは黙り込む。
どう答えたらいいのかわからなかったのだ。
そうして静かな時間が過ぎ、やがてマールエルが筆を置いた。
「書けた。よろしくね、クロベル」
マールエルが差し出した手紙を受け取ると、クロベルはついその文面に目を落としてしまう。
途端に、ふっと笑みを浮かべた。
「なんで笑うの」
そう言いながらも、マールエルの顔にも笑顔が浮かんでいる。
クロベルは改めて手紙を眺め、これを受け取ったときのセレストの反応を想像してちょっとだけ憐れむ。
手紙に書かれている文面はこのようなものだった。
──────────
我が愛弟子 セレストへ
急で悪いけど、大急ぎで帰ってきて欲しい。
素直で優しい私の自慢の弟子である君のことだから、きっとすぐに帰ってきてくれるだろう。
きてくれるよね?
うんうん、素晴らしい弟子を持って師である私も鼻が高いよ!
それでは、久々の弟子との対面を楽しみに待っています。
師匠より
──────────
セレストのことだからきっと、相変わらず賑やかそうな師の様子に疲れを覚えるんだろうな、と容易に予測できる。
『確かに預かった。封蝋を借りるぞ』
「うん、お願い」
王都の、それも王城の敷地内に拠点を持つ王国魔法師団に手紙を送るなら、『書の賢者』の封蝋があったほうがいいだろう。
マールエルからも許可を得たので、さっそく手紙を丁寧に折り畳んで封筒に入れると、封蝋で閉じる。
それを風の精霊に託し、王都まで運んでもらった。
その後再び意識が混濁してきたマールエルを休ませ、クロベルの呼びかけのもと、妖精たちがマールエルの口調と文字を真似て一通の手紙を仕立て上げた。
その内容は。
──────────
我が愛弟子 セレストへ
よく帰ってきてくれた。やはり君は私の自慢の弟子だ!
本当は直接会って話したかったのだけど、時間がないので手紙で失礼する。
家に女の子がいると思うけど、彼女は私の拾い子だ。親に森の中に捨てられて行くあてもない。
そんな理由もあって彼女を私の弟子にしようと思ったのだけど……どうしても急ぎ遠出をしなければならない事情があってしばらく家を空けることになった。
なので私に代わって彼女の師となり、彼女に魔法と魔法薬作りを教えてあげて欲しい。
君は私の自慢の弟子だ。きっと私の願いを聞いてくれると信じている。
信じていいよね?
うんうん、素晴らしい弟子を持って私は幸せ者だ!
恐らく私が戻るまで、何年かかかると思う。
話が長くなるから遠出する事情については割愛するけど、その子が立派な魔法使いに成長する頃には戻れるのではないかと考えている。
どうか私に代わって、私が君に教えた全てをその子に教えてやって欲しい。
彼女が無事独り立ちできるよう、見守ってやって。
よろしく。
師匠より
追伸。
彼女には名前がないから、何か可愛い名前をつけてあげるように。
──────────
長年マールエルと付き合いのある妖精たちが作っただけあって、見事にマールエルの字と手紙の語り口が真似られている。
これならセレストも騙されてくれるだろう。
こうして着々と準備を整え、あとはセレストがこの森に到着するのを待つばかりだ。
王都からこの森までおよそ半月。
マールエルの命も、そこまで保つかどうか。
(もし保たなかったら先行して時繰り魔法を行使するしかないな)
クロベルは言いようのない不安に苛まれながら、その瞬間を見極めようとマールエルの傍に付き添っていた。
時間の経過が酷く遅いように感じられ、時折急く気持ちに襲われながらも、ただただ、セレストの戻りを待ち続ける。
そうして何日待っていたのだろうか。
クロベルにとって永遠とも思える時間を経て、その知らせはやってきた。
『セレストがクルーエ村に着いたよ!』
セレストの動向をうかがっていた森の精霊が家に飛び込んでくる。
同時に、数人の精霊と妖精が家から飛び出していった。
彼らは万が一、時繰り魔法が間に合わなかった場合に備えて、セレストの足止めをする役目を負っている。
足止め役の精霊と妖精たちを見送ると、クロベルはきつく瞳を閉じた。
(どうか、成功しますように……)
そんなことを祈ってから、クロベルは自嘲の笑みを浮かべる。
(まさか原初の精霊であるわたしが、こんなことを祈る日がこようとは)
笑みを収め、迷わず目を開く。
目の前には衰弱しきっているマールエルの姿。
クロベルは淀みない動作でマールエルに手をかざす。
季節も折よくマールエルがソルシスと出会った秋の初め。
時を巻き戻しても、記憶の齟齬はないはずだ。
『……マールエル。きみの望みを、叶えよう』
クロベルは誰にともなく言葉を紡ぎ、慎重に巻き戻す時間の調整を始めた。
(目標は、ソルシスに拾われた直後。マールエルが気を失った、あの時間)
とんでもなく細かな調整だ。しかし成功させなければならない。
何故なら、目標より前の記憶まで代償にしてしまっても、目標より後の記憶を残してしまっても、マールエルが混乱するからだ。
ソルシスの記憶を代償にした際の感覚を頼りに、多少の迷いを残しながらも調整を終える。
最後は自分を信じて時を巻き戻す時繰り魔法を行使した。
眩い光がマールエルを包み込む。
代償として用意した核が次々と消えていき、クロベル自身の魔力も湯水のように奪われていく。
同時に、マールエルの姿も変化していく。
始めに若返っていき、次いで縮み出し──やがてクロベルの記憶にある十歳の頃の姿になると、変化が止まった。
ほっと息を吐く間もなく、大急ぎでマールエルを空き部屋のベッドに移した。
マールエルが最後に零した、しばらく自分の死は伏せて欲しいという願いを叶えるためにも、マールエルの部屋は閉鎖しなければならない。
ばたつきながらもセレストを迎える準備を粗方終えると、クロベルはマールエルの部屋の扉を見上げた。
あとは、この部屋を閉ざすだけ。
クロベルはゆっくりと息を吸い込み、森の妖精の長に呼びかける。
そして。
『マールエルの願いが叶うよう、祈っている』
その言葉を最後に、クロベルは姿を消した。代わりに、クロベルの呼びかけに応えた森の妖精の長が姿を現わす。
森の妖精の長はクロベルの要望に応え、その手でマールエルの部屋を閉ざした。
下位の妖精の力では開けることが適わぬよう閉じられた部屋は、そのまま開かずの間と化す。
こうしてクロベルは自らをマールエルの部屋に封じ込め、時が来るのを待った。
十歳まで時を巻き戻したマールエル──後のヒューティリアが、時繰り魔法を知るその時を。




