傷心
【傷心】
1
「キムラさん、早くしなさいっ」
看護師長の甲高い声が病棟に響き渡った。見習い看護師になって1年が過ぎようとしていた。
「ホント耳に障るよね、師長の声ってさ。そう思わないコズエ」
同僚のミカが口を尖らせていった。
ミカとは同期で看護学校に入学し、同じ病院に配属された唯一仲の良い同僚、親友と呼べる存在。
「コズエ。そういえば明日の夜、空いてる?」
「何もないけど、また合コンじゃないよね」
ミカには彼氏がいる。イケメンで優しい彼氏が。一度だけ会ったことがあった。
「鋭いね。相変わらずコズエは」
ミカは合コンをただの飲み会だといって、いつも私を誘うが、何回いっても私はその気にはなれないでいた。
「ねえ、行こうよ。この前の連中はパッとしなかったけど」
前回は、学校の先生たちだった。今回は弁護士の卵たちらしい。
「玉の輿、しようよ」
目をランランと輝かせ、抱きついてきたミカ。
「できればいいけどね」
私は鼻から息をひとつ抜いた。
「行こうよ。ねっ、いいでしょ、一緒に玉の輿しようよっ」
私はミカのこれに弱い。いつもこの押しで、うんといってしまう。今月に入って4度目。財布の中も厳しくなってきていたのだが、
「これで最後だから・・・ね」今月は、とその後に続く。ミカはよくそういって、おねだりするのだ。
日勤と夜勤を繰り返す日々。体は徐々に慣れてきてはいたが、休日になると何をしていいかわからず、最近は部屋に籠るようになってしまった。だから、ミカの誘いはありがたいのだが、月に4回は少し度が過ぎていると思っていた。彼氏いない歴は1年を過ぎ、合コンにかすかな期待はしていたが、学校の先生やら市役所の青年部だとか、時にはムキムキの自衛官だったりと意外に高いそのテンションにはついていけない自分がいた。
「気楽に楽しんだら」なんてミカは軽くいうけど、いまいち気が乗らない。だからとはいわないが、部屋に籠ることが多くなったのだろう。自宅から病院までの往復のだけじゃ、貴重な青春を謳歌することはできないが、疲れることはなるべく避けるようにしていた。
しかも、今月だけで3回もした合コン。アドレス交換した男性からのメールを処理するだけでも、余してきている私。
次は弁護士の卵だとミカがいった。ミカは嬉しそうだったが、なんかお貴そうで展開はすでに目に見えていた。
日勤を終え、夕食の買い物をしている最中、バッグの中で携帯が震えた。着信は、オクダ君からだった。
「コズエちゃ~ん、おっつでーす」
いつ聞いてもこのチャラさにはついていけないが、小学校からの馴染みということもあり、こうして度々連絡がくる関係のオクダ君。
「明日よろしくね。絶対に来るんだよ。懐かしくて涙出ちゃうかもよ~」
「どういう意味?それ」
「まあまあ、それは明日のお楽しみってことで。ミカにもよろしくいっといてね~」
台風が過ぎた後の静けさみたいなものを感じていた。
「どういう意味、懐かしいって。それに何で私が泣いちゃうわけよ」
ミカとオクダ君と私。合コンで知り合った仲間。つき合うとかじゃなく、戦友って感じで、彼らはいつも私を誘ってくれる。
「なんで・・・私が」
首を大きく傾げながら、いつもの帰り道を歩いた。賑やかな繁華街を通り、小路に右折すると今住んでいるアパートが遠くに見えてくる。
「あっ、シゴ○ガイド買うの忘れてた」
最近正直、看護師の仕事に自信を持てなくなっていた私。
「転職でもしようかな」
不規則な時間の割りに責任が重い看護師の仕事。最近そこにつまづきを感じる日々を送っていた。学生の頃から憧れた仕事。ヒトを助ける仕事。ヒトを幸せにする仕事。白衣の天使、という言葉にも惹かれてはいたが、責任の重さに圧倒されっぱなしの最近だった。そう悩んでいるうちに、いつしかシゴ○ガイドを毎号見るようになっていた。
「もう出てるよね」
来た道を反対に少し戻るとコンビニがある。いつもは病院の売店で購入するのだが、今日は仕方がない。少しだけ早歩きをして、そのコンビニに向かった。
「らっしゃいませ」
愛想のない店員ね、と思いながら目的の物ではなく、まずファッション誌を手にした。部屋に籠りっきりの私も、多少は興味のある分野だったから。脚の長いモデルが挑発するような視線を向けていた。普通じゃ恥ずかしいはずのポージングも、それなりのモデルがやれば格好がいいものだ。私は口を半開きにしながら、次のページを捲った。その時だった。
「あれー、偶然だね~」と聞き覚えのあるチャラい声。私は肩を叩かれた方に顔を向けた。そこにはニヤニヤしたオクダ君が立っているではないか。しかも、モデルの真似をしてポージングしている。「どして、ココに?」
私は恥ずかしさのあまり、顔を背けていた。
「あれれ、家、近くだっけ?」
近所だとは教えていなかった。理由はさておいて。
「コズエちゃん。ここ知ってたの、それとも偶然?」
意味がわからない私は、オクダ君の顔を横目でねめつけた。
「ほらほら、さっきの懐かしくて涙出ちゃうってやつだよ~」といいながら彼は後ろに振り向いた。そして顔だけを、グイっと回し「知りたいっしょ?」と口を尖らせていった。
許されるならば、そのニヤニヤした顔を殴ってやりたいと思ったが、そこをグッと堪えた私。
「ホント正直だなあ、コッちゃんは」
誰にもそんなアダ名はいわれたことがない。でも今は、あえてそれには触れないようにした。なんか煩わしそうだったから。
「あれよ、あれっ」
指さす仕草もウザかった。
私は作り笑いを浮かべながらも、彼が指さす方に視線を移した。そこにはさっきの愛想のない店員がいる。今でもなんだかダルそうに接客をしていた。
「あの方が、なにか?」
作り笑いを崩さぬように、できるだけ上品に問い返した。
「あれ、わかんない?タクヤだよ。小学校の時にいたでしょ、タクヤってのが」
「・・・?!!!」
時が止まった。時はピタリ止まり、そこから急に捻じれるように逆回転をしていく私の幼い頃の記憶。しゅるしゅると巻き戻される記憶のテープ。ある映像が脳裏に拡がっていった。
「タクヤって、まさか」
「そのまさかで~す。ねっ、懐かしいっしょ、涙出そうでしょ」
(違う。そんなんじゃない。同級生とか、幼馴染とか、そういう問題じゃない)
「明日連れてくから。楽しみにしててね。んじゃ」と軽く手を振り、私の前から立ち去ろうとするオクダ君の肩を力一杯に引きとめた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。もう誘ったの?」
オクダ君は急に神妙な表情をして、コズエに顔を近づけた。
「明日、いきなり呼ぼうと思っております。そっちの方がサプライズっぽいでしょ」
とことんオクダのウザさにはイラつきを覚えたが、根は悪いヒトではない。そんなことを思っている私にまたニヤっと笑みを見せ、じゃ、といいながら店を出ていったオクダ君。私は一人、本コーナーに立ち竦んでいた。オクダ君が帰った後、しばらくその場から動くことができなかった。
「何で?しかも、こんな近くに」
あのヒトは私の双子の弟。幼い頃、親の離婚により引き離された実の弟。9年ぶりだった。
「たっくん・・・」
感情が自然と込み上げてきた。スライド写真のようにあの頃の二人が、次々に甦ってくる。ここで泣くわけにはいかなかった。手にしたファッション誌を棚に戻し、そそくさと顔を逸らしながら店を後にした。
アパートはすぐ近くだが、涙が溢れて真っ直ぐ歩けない。途中の電柱に片手をつき体を預けた。
「たっくん・・・」
歪む夜空を見上げた。
(こずえ姉ちゃん)
満面の笑みでいつもそう呼んでいた。二人でいる時のたっくんは、いつもニコニコしていた。
(赤くて大きな夕日。私たちの思い出)
あの河原に初めて連れていった日。たっくんは傷だらけだった。イジメ。えげつないほどの。発見したのは放課後のグラウンドの隅だった。シャツは引き裂かれ、口からは血を流し、たっくんは涙を堪えて倒れていた。抱きかかえると堰を切ったように流れた涙。安心しきった表情に戻る瞬間だった。
それからもイジメはエスカレートしていった。繰り返される暴力。たっくんの心が休まる暇はなかった。けれど、あのコはいつもこういった。
「かまってくれている」
私の涙が止まることはなかった。でも、何もしてあげることができない私。歯痒い想いを胸に抱きつつ、それからよくたっくんを連れていくようになったあの河原。誰も知らない、誰も来ることがないあの河原へ。
誰も来ることのない河原は、たっくんを笑顔にしてくれた。私は何もしてやれないが。あの夕日が、あの燃えるような夕日が、たっくんの傷付いた心を、二人の心を和ませてくれた。
いつしかそこは、二人だけの居場所になっていった。
イジメ、は学校だけではなかった。父親からの虐待。いつも血まみれになって帰って来る息子に気合いを入れる、といって繰り返された暴力。それを体で庇った母親。それをまた庇うたっくん。本当は芯の強いコなのだ、たっくんは。
日に日に酷くなる虐待。折れそうになる心。何もできない私。
それでか河原にいる時間がだんだんと長く、家に帰る時間がどんどんと遅くなっていった。
私たちは、いつも夕日を見ていた。何するわけでもない。小さく寄り添い、未来を見ていたのだ。今という時代から解放された自分たちの姿を。
2
秘密の場所がみつかった。二人の心の拠り所。
「ここにいたのか、おまえら」
石を投げて遊んでいた。何回跳ねるか。水面をはじけ飛ぶ小石。私は元気そうに石を投げるたっくんを見ているのが、嬉しくて堪らなかった。
「見て見て、こずえ姉ちゃん」
私は手を叩いて喜んだ。
その時だった。
黒い影。
酔っぱらった父が、背後にいた。
「行くぞ、こずえ」
手首を掴まれた。決して反抗できないほどの大人の力。
「やめろよ」
たっくんはいつものように助けに入ってくれた。幼い子供が敵う相手ではないが、体を張って助けようとしてくれている。
振り払おうとする父。引き下がらないたっくん。歯を食いしばっている。
「オマエは母さんの子になるんだよ。こっちに来るな」
たっくんはその意味など考えようともせず、私を助けることに必死だ。
次の瞬間。蹴り飛ばす父。吹っ飛ぶたっくん。小さな体が一瞬宙を舞った。
「しつこいやつだな」
父は何かを右手に持った。
「俺に逆らうなんて、百万年早いんだよ」
それを振り降ろした瞬間、すべてがモノクロに変わってしまった。
飛び散る飛沫。それを私は全身に浴びた。嗅ぎ慣れない臭いが鼻をついた。私は胸のところに付着したその液体を指で触り、目の前に持ち上げた。
(・・・?・・・血?)
モノクロの世界。スローモーションで進む展開。息を吸うことも忘れてしまうほどゆっくりと。
「ギャーーー」
誰かがビデオの再生スイッチ突然押したかのような叫び声。のた打ちまわり泣き叫ぶたっくん。返り血を浴びて意識が薄れていく私。状況を拒絶する幼い心は、ガラス細工が壊れたように粉々となってしまった。
警察の人が私に麦わら帽子をかぶせてくれた。飛ばされた帽子。返ってきたのはそれだけだった。たっくんも、お母さんも、私の家族も、周りの環境すべてが瞬時に変わってしまった。
いつの日か、知らないおじさんと知らないおばさんが家にやってきた。大きいネクタイとトンガリ眼鏡。
お母さんは泣いていた。
せいかつのうりょくがない、といわれていた。
肩を落とし、震わせていた。
私は、手を牽かれた。
お互いに伸ばし合った遠ざかる手と手。
靴を履くのを拒んだ。
大人の力には勝てなかった。
家から引き摺り出された。
玄関の土間で、泣き崩れるお母さん。
どうすることもできなかった私。
車に乗せられた。
お母さんが、お母さんでなくなった日。
私が生まれた街。遠ざかる景色。いろんな事があった街。
今日は見えない夕日。
たっくんと過ごした街。
どこに行くのかも知らされていない。どうして連れていかれるのかも。
私は・・・どうなってしまうのか。
(私は一体、誰になるのか)
歪む景色。自ら俯き忘れようと努めた私。
「私たち姉弟でなかったらよかったのにね」
「どうして?」
純粋な瞳で私に向けた。
「たっくんのお嫁さんになれるかな。姉弟でなかったら」
たっくんは笑い飛ばすようにいった。
「な~にいってるの。ずっと一緒にいれるよ。そうに決まってる」
それは二人の想いだった。恋にも似た儚い気持ち。
知らない街の知らない建物に着いた。途中の道はなるべく見ないようにしていたから、ここが何処なのかはまったくわからない。
「どんぐり・・・学園?」
そこは、親のいない子供たちが暮らす施設だった。中に入ると知らない子供たちが一斉に私を見てきた。
(わたしと・・・同じだ)
大切なモノを失った子供たち。
「今日からここがアナタの家よ。私たちを本当のお父さんとお母さんと思っていいんだからね」
その時点で、本当、とは思えなくなっていた。どうしてもその言葉を飲みこむことができなかった私。
(本当のって何?)
心を開くことはできなかった。取りあえず笑っては見せた。あの人たちはあの人たちなりに一所懸命に接してくれているから。余計な世話にはなりたくなかった。
中学校に入学した。
二人は嬉しそうに眺めていた。私のセーラー服姿を。一緒に写真を撮った。撮ろうといわれたから。その行為に何も意味はないと思った。
学校楽しいかいと訊かれた。うんと答えた。
悩みごとないかいと訊かれた。うんと答えた。
友達できたかいと訊かれた。うんと答えた。
ご飯のおかわりはいいかいと訊かれた。うんと答えた。
髪結んであげようかいと訊かれた。面倒くさいと答えた。
今日遊びにいかないのかいと訊かれた。面倒くさいと答えた。
マニュアル通りの質問。
(面倒くさい)と思った。
部屋に籠ることが多くなった。
部屋から出なくなると、会話も減っていった。仕方がないのだ。あの親替わりの二人には私以外にもそうしなければならない子供たちがたくさんいるのだから。マニュアル通りにこなさなければ、身がもたないし時間も足りない。感情まで深く移入する余裕はないのだから。
私はわたしなりに理解していた。
(余計な世話にはならない)
「本当のお父さんとお母さんだと思って・・・」
それが、そのひと言が余計だと思っていた。初めからずっと。
私の部屋の窓からは夕日が見えない。薄れゆく思い出、遠ざかる記憶。遠ざけた感情。いつしか私は、こずえを捨てていた。
3
高校に入学した。一応希望の学校に入った。
記念写真は撮っていない。
時が経つにつれ、他人に戻っていった親替わりの母とも、次第に打ち溶け出していた。他人として生活していたから。ハジメからこんな関係だったら、もっといろんな事を相談したり、笑ったりできたのではないかって思えた。あくまで他人として。しかし、それは土台無理な話なのは理解していた。あの二人にはあの二人の立場があってしていたことだし、そうしなければいけない仕事なのも十分にわかっている。
他人になるにつれ、私が成長していくにつれ、親替わりの父の眼差しが変わっていくのに、私は気が付いた。私を見る目。私の体を見る目。体しか見ていない目。自然と私はそれを避けてはいたが、親替わりの父は幼い頃よりも、私に気を掛けるふりして近寄る回数を増やしてきていた。
高二の春だった。
具合を悪くして早退してきた時のことだった。親替わりの父は玄関で掃き掃除をしていた。
「どうしたんだい?こんなに早く」
「なんでもないよ」熱っぽい私は、ぶっきら棒に応えた。早く部屋に帰って休みたかったのだ。
「なんでもないじゃないよ。顔が赤いぞ。風邪でもひいたんじゃないか」といいながら、私の背中から覆い被さるようにして額に手を当ててきた。
寒気を感じた私は、それを振りほどき自分の部屋へと向かった。
「お母さんも出掛けているし、後で薬を持っていってあげよう」
聞こえないふりをして、私は足早に部屋に入った。怖かった。よりによってお母さんが留守だなんて。
トントン。
(来た)
「コズエ、開けなさい。薬を持ってきてあげたよ」
「いらないよ。大したことないから、ほっといてよ」
「そんなわけにはいかないよ。拗らせたら大変だからな」
ノブが激しくまわされた。
「開けなさいっ」
声がイラついている。
「開けれないほど具合が悪いのか、それじゃ仕方がないな」
ガチャ。鍵が開けられた音。実力行使。親替わりの父はマスターキーを持っている。
「もっと素直になりなさい。ホントに拗らせたら大変なんだぞ」
私は部屋の隅で小さく蹲り震えていた。
「ほら、震えているじゃないか。いわんこっちゃない」
(違うよ。ボケ)
肩を抱かれた。
「ほら、もっとこっちに来て、この薬を飲みなさい」
皺くちゃの手の中に錠剤が二粒転がっていた。
「楽になるぞ」親替わりの父は鼻息を荒立てていった。そして私の制服に手をかけてきた。
「触らないでっ」手を払った。
「何をいってるんだ。着替えなきゃ拗らせちゃうぞ。何回もいわせるなよ」
目つきが変わった。男の目だった。
「その前にまず飲みなさい。さあ早く」
怪しげな薬なのは気付いていた。でもそれ以上に恐怖を感じている。誰もいない施設。逃れる術はなかった。薬を飲ませられた私はベッドに座らせられると、すぐに眠気が襲い、気を失うように倒れ込んだ。
「ほらやっぱり具合が悪いんじゃないか」
すでに服は脱がされていたようだ。朦朧とする意識の中で私は、実感の湧かない蹂躙を受け続けたのだった。
気がつくと私は全裸で寝ていた。荒らされたようなシーツの一部に血が滲んでいるのを見つけた。奪われた感じはしなかったが、喪失した感じだけが残った。
翌日の朝。男は施設の玄関先で私を待ちかまえていた。何ごともなかったかのように近寄ってきては、耳元で囁いた。
「昨日のは・・・二人の秘密だよ」といいながら私の腕を力強く握った。痣が残りそうなほどの力で。
また背筋に寒気を覚えた私は、逃げるようにその場を立ち去った。
それからの男は頻繁に私を求めてくるようになった。癖になったのか、味をしめたのか。そのうち私にこういうようになった。
「今日、早退しなさい」と。
薬も飲まされなくなった。苦痛だった。屈辱だった。何度、死を考えただろうか。
(私って、何?)
自分の存在価値を疑いだしていた。この世に私の存在がなくても、生きていなくてもいいのではないか。今の自分はただの人形と同じ。
「かんじてるんだろ。それならこえをだしなさい」
涙も出なかった。
「もっとうごけよ。もっとこしを」
従った。いわれるままに。
「うえになれ」
けむくじゃらにまたがった。
「ほらうごけ」
人間を見る目ではない。心の底から憎悪が湧いていた。
「よかったぞ。またあしたな」
当たり前のように繰り返される凌辱。殺意さえ芽生え始めていた。
「首絞めれば、もっと気持ちよくなれるんだって」
初めての提案に男は喜んだ。
「おまえもわかってきたな」
(死ね。死んでしまえ)
男を殺して自分も死のうと思った。別に今の自分に未練はない。騎乗位になった。この男はそれを好んでいた。腰を動かした。
「ホントおまえはサイコーだな」
決して名前を呼ぶことのない親替わりの男。脂ぎった笑顔に黄ばんだ歯。
「そろそろやってみろよ」
私は躊躇わずに男の首に手をまわした。
「こしもわすれるなよ。しっかりな」
よがりまくるけむくじゃらの男。気色が悪いからやってしまおうと思った。両手に力を入れてみた。でも反応がない。
(死ね)
目を瞑り、渾身の力を込めた。声が止まった。もっと力を入れた。次第に体が暴れだしてきた。苦しいのだ。男の手が私の手首を掴んだ。体が震えている。
(死ねっ。早く)
歯をくいしばった。
「や・・・やめろ」
今さら止めるわけにはいかなかった。白目を剥きはじめた男。口をパクパクさせ泡でも噴きそうな表情をしている。
(もう少し、もう少しで楽になれる)
そう思った瞬間だった。男は最後の力を振り絞り、私を跳ね退けるように起き上がった。隙ができたのだ私に。一瞬の隙。もう少し、と思った瞬間の僅かな隙。男はそこをついた。
ベッドの横に転げ落ちた私。これ以上にないほどの脱力感に襲われていた。男は朦朧としているのだろう。頭を何度も振り、大きく深呼吸をしながら私の前に立ちはだかった。
「てめえ、何考えてんだ」
顔面を蹴られた。
「ハナから殺そうと思ってたのか。俺を。この俺を」
幾度も続く足蹴。
「父親を裏切るというのか」
涙は涸れていた。この男の為に流す涙はない。私は大声で叫んだ。
助けて、と。静まり返る施設内に私の悲鳴が轟いた。
服も着ずに走って逃げた男。遠ざかるその足音が妙に虚しく聞こえてならなかった。私は何度も何度も床を殴っていた。
4
結局施設を出ることになった。警察の事情聴取を受けていても、ここが自分の居場所でなくなっていく実感があった。
食い違う見解。
私から誘ってきた、と男はいっているらしい。
私は当然、否定した。が、警察は半信半疑の様子だった。証拠がないのだ。私がレイプされた証拠。同意のものだと思われている。痴話喧嘩からの縺れ程度でしか思われていないようだ。
身よりのない子供たちを、人生の大半を費やしてまで面倒をみている施設勤めの男性と、両親もなく施設に育ててもらっている未成年の娘とを警察は天秤にかけたのだ。天秤にかけて下した答え。公平でなければいけない大人が出した答えが、私の狂言ということだった。
弱い者を助ける、そんな正義はここにはない。いやこの世にはないのだろう。
心を打ち溶けだしていた施設の母親も、私をみる目は軽蔑したものだった。そんな場所に私がもう身を置けるはずがない。
施設から出ていく日。私に向けられたサヨナラはなかった。独りぼっちになってしまった。16歳の私に行くあてなどあるはずがない。与えられた若干のお金で、その日はカプセルホテルに泊まった。
低い天井。寝床と呼べないほどの空間。そこが私の居場所。16年生きてきた結果。情けなさが胸を突いた。
(死んだほうがましだ)
生きていく意味。生きていかなればいけない理由。どこをどう探しても見つからない。生まれてきた意味。私という存在。この世の中の私の価値。
わからない。
私の両親。嘘の両親も本当の両親もどちらもここにはいない。どちらも私を守ってくれることはない。あるのは、私という魂だけ。影すらも残らないような魂だけだった。
目を閉じると甦ってくる忌わしい記憶。けむくじゃらのハゲ頭。呼吸は荒々しく、皺くちゃの手で私を抱いた。人間となんて思ってもいない眼差し、ましてや娘などとは決して。
眠れなかった。一睡も。目を瞑ることができないから。目を瞑るとまた思い出してしまうから。
翌朝、学校にいった。 何ごともないように席に座った。いつもと変わらない教室。いつもと同じように授業が始まった。学校には連絡がきていないのか、なんかホッとしていた。勉強に集中した。真っ直ぐに、その方が余計なことを考えずに済むから。
今日は雨だった。傘を持っていない私は一人、濡れていた。昔から悲しいことがあれば必ずっていっていいほど、雨が降った。この雨は私の周りしか降っていないのか、他のみんなは明るい表情でいつもと変わらない雰囲気だ。
私が一体何をしたっていうのか。何故、私だけこういうめにあうのか。考えても仕方がないことに気が付いた。地面を蹴っていた。これが私の運命なのだと、割り切ることにした。
バイトを始めた。夜中までの。アパートを借りた。自炊も始めた。自分の力で生きていこうと決めた。しばらくしてこんな私にも友達ができた。バイト先のコ、しかも同じ学校だった。息が異常に合ったからよく会うようになっていった。アパートにその友達が来た。あまりの嬉しさに私は、はしゃいでしまった。ご飯を一緒に食べた。二人で食べるご飯は暖かかった。そのうち一緒に作るようにもなった。楽しかった。美味しかった。美味しすぎて涙が出た。その涙を見て、友達も涙を流してくれた。優しくしてくれた。話を聞いてくれた。その友達は知っていた。あのことを・・・。手を握ってくれた。その手は柔らかかった。肩を抱いてくれた。優しさいっぱいに。
心が震えた。生きていて良かった、と思った。
毎朝、一緒に登校するようになった。いつしか、一緒にいることが当たり前になっていた。
ショウコっていう名前。
ショウコは髪が長くて、とても奇麗な瞳をしているコだった。肌も白くて、指も細くて、唇も薄くて、そんな彼女に私はいつしか憧れの眼差しを向けていた。
毎日会った。毎日遊んだ。ショウコが毎日来てくれたから、私は毎日笑っていれた。
喧嘩もした。でもすぐに仲直りできた。悩みも話せるようになった。ショウコはいつも私に微笑み、私を慰めてくれた。
高三の冬になった。
私は看護師になろうと決めた。ヒトの役にたてる仕事。ヒトを助ける仕事。ヒトを幸せにする仕事。ショウコもそれに賛成してくれた。
自分は今までの人生、人間関係に恵まれていない方かもしれないけれど、私が他人に幸福を与えることができれば、それが私自身の幸せになるような気がしたから。ショウコも笑顔で頷いてくれた。
卒業式の一週間前のことだった。
私はいつものように自宅でショウコが来るのを待っていた。今日はバイトの給料日だったから、久し振りの外食を予定していた。よそ行きの服を着て、慣れない化粧もした。まるで男性とデートにでも行くかのように心は弾んでいた。
約束の時間。6時にしていた。時間が過ぎてもショウコは来ない。お店も予約しているので、焦りを覚えつつ私はショウコの携帯を呼んだ。
3回、4回。ショウコは出ない。切らずに待ってみた。私は胸に強い動悸を感じていた。バイヴにしていて聞こえないのでは?とも思った。今までにこんなことはなかったから。
「はい」
出た。ショウコの声だ。
「私だよ。どうしたの、ショウコ」
雑音の中に無言が続いた。
「今日約束してたよね。忘れてた?」
息を吸う音が聞こえた。
「・・・ごめん」
「いや、急用ならいいんだけどね。今どこにいるの?ショウコ」
外にいるのだろう。車のクラクションや自転車のブレーキ音が聞こえていた。
「何か・・・あったの?」私は何故か訊くのを躊躇っていた。
「ごめんね、コズエ」
泣いているのか、声が掠れている。
「何で謝るの。どうしたの?いってよ、ねえ、ショウコ」
「いってなかったことがあるの私。コズエに」
沈んだ声が、さらに沈んだ。私の緊張感は一気に張り詰めた。
「そんなの誰にでもあるじゃん。私は平気だよ、そんなの」
明るくいった。なるべく。
「ふられちゃってさ」
車のクラクションが耳を塞いだ。
「彼氏いたんだね。でもショウコなら、いてもおかしくないよね。奇麗だし優しいし」
「私たち、もうダメかも」
鼻を啜った。
「えっ、私たちって?わかんないよショウコ、電話だと。どこにいるの?迎えにいくから・・・」
「奥さんがいいんだって・・・彼」
不倫だった。
「どこ、どこにいるの?」急に胸騒ぎが襲った。
「捨てられちゃったんだよ、私たち。私と・・・この子」
身ごもっていた。
「あとでゆっくり訊くから・・・」
受話器の近くでサイレンが鳴っている。
(踏切?)ゾワゾワと胸を絞めつけるような苦しさ。
「・ズエ、ありが・ね。たのし・・たよ」
サイレンの甲高い音にかき消され、よく聞き取れない。
「何ていったの?聞こえないよ。ショウコ」
「しあわ・・なっ・ね。コ・エは」
電車の音が私に迫ってくるようだった。
「ショウコ・・・」
嫌な予感はあたった。
「さようなら、コズエ。今まで・・・ありがとう」
最後は聞こえた。はっきりと、ありがとう、と。ショウコの声、躊躇いの無い声だった。受話器越しに受けた衝撃。思わず閉じていた瞼。思わず落した携帯。
「ショ、ショウコ」
唯一無二の存在だった。どん底にいた私を心ごと救ってくれたヒト。かけがえのないヒト。
「悩んでいたんだ。独りで・・・」
私のことばかり気にしてくれた。私はショウコの何を見てきたのだろうか。自分ばかりを悲劇のヒロインに仕立て、ショウコに甘えてばかりいた。思い返せば私はショウコのことを何ひとつ知らなかった。不倫のことだけではない。ショウコの好きなことも、嫌いなことも。ショウコがどこに住んでいるのかさえも、ショウコの苗字すらも、私は何も知らない。
「私が・・・殺したんだ」
気づくべきだった。気付いてあげるべきだった。相談にのってあげれば、少しは変わっていたかもしれない結末。悔やんでも悔やみきれない想いが募った。
(ヒト殺し)
また独りぼっちになってしまった。自分のせいで。何もしてやれなかった私。いつもそうだった。あの河原でもそう、私がもっと守ってあげていれば、離ればなれになることはなかった。
「たっくん」
あの施設でもそうだった。私がきちんと拒んでいれば、悲劇は生まれなかったのではないか。
「私のせい・・・」
涙は出なかった。感情を表に出すにはあまりにも虚しすぎたから。




