第2話 名将の帰還
「扶蘇。今、何と言った」
政の声は、静かなだけに、恐ろしかった。
俺は五歳の子供の身で、その二つの視線の前に立ち尽くしていた。……桓齮では李牧に勝てぬ。口をついて出たその一言を、消すことは、もうできなかった。
誤魔化すしかない。俺は、必死に頭を回した。
「……なんとなく、そう思っただけです。桓齮将軍は、勢いが強すぎます。強すぎる将は深追いをして、罠にかかるものだと……乳母から聞いた覚えが」
苦しい言い訳だった。だが、五歳の子供の戯言として流れてくれることを祈った。
政は、しばらく俺を見つめていた。やがて、ふっと、目元を緩めた。
「……ませたことを言う子だ。蒙恬、そなたの入れ知恵か」
「いえ。私は、そのようなことは」
蒙恬は、戸惑いながら首を振った。だがその目は、まだ俺を、じっと見ていた。……子供の戯言だと、流しきれてはいないようだった。
◆
その戸惑いを、俺は、ひとり噛みしめていた。
――なぜ、俺は、こんなに焦った。
答えは、分かっていた。これから起こることを、俺が、知っているからだ。
桓齮の趙侵攻。そして、肥下の大敗。……歴史の歯車が、目の前で、回り始めている。
◆
数日後、俺は再び政の宮に呼ばれた。此度は、多くの将が、居並んでいた。
その中央に、一人の女将がいた。
筋骨たくましく、赤銅色に日焼けした肌。頬に古い刀傷が走り、目つきは、獣のように鋭い。……それが、桓齮であった。
俺の姿を見るなり、桓齮の目が、ぎらりと光った。
「……この、ガキか」
桓齮が、のっそりと歩み寄る。そして俺を、見下ろした。
「聞いたぞ。俺様が、李牧ごときに負けると、抜かしたそうだな」
その声は、地の底から響くようだった。五歳の子供には、山が、覆いかぶさってくるようだった。
「趙のガキどもと、同じ目をしてやがる。……俺を化け物でも見るような、その目だ」
「……桓齮将軍」
蒙恬がすっと、俺と桓齮の間に割って入った。
「幼子の戯言にございます。お気になさいますな」
「どけ、蒙恬。……俺はこのガキの目が、気に入らねえと言ってるんだ」
二人の女将の視線が、火花を散らした。
◆
「よさぬか、桓齮」
政の声が、飛んだ。
桓齮は、舌打ちして、退がった。だが、その目はなお俺を睨みつけていた。
――この女は危うい。
俺は身をもって、それを感じた。
桓齮という将は、確かに強い。平陽で趙軍十万を破り、十万の首を刎ねた。だが、その勝ち方が、問題だった。……降伏した趙兵、十万を、斬首にしたのだ。
趙の民は、桓齮の名を、憎悪していた。
◆
ましてや、と俺は思う。
趙という国は、かつて長平の戦いで、四十万もの降兵を秦に生き埋めにされている。国じゅうが、その恨みを骨の髄まで抱えている。
その趙へ、よりにもよって、桓齮を送る。……戦に強いという、ただ一つの理由で、最も残虐な将を。
俺は、ぞくりと身震いした。
これは火に油を注ぐようなものだ。趙の兵は、桓齮を前にすれば、死に物狂いで抗うだろう。……そして、その趙には李牧という軍神がいる。
◆
趙侵攻の軍が、編成された。
大将は、桓齮。そして副将として、蒙恬が、従軍することになった。
「蒙恬。……行ってしまうのですか」
「はい。武人ゆえ、戦は、務めにございます」
蒙恬は、いつものように、柔らかく微笑んだ。だが俺の胸には、消せぬ不安が渦を巻いていた。
肥下の戦い。桓齮が大敗する戦。……そこに蒙恬が行く。
俺は、蒙恬の袖を、握った。五歳の子供にできる、精一杯だった。
「……蒙恬。ひとつ、聞いてください」
「なんでございましょう」
「戦では必ず、周りに斥候を張り巡らせておくのだ。……敵が、どこに潜んでいるか。目を、こらして。決して、油断せぬように」
蒙恬はきょとんとした。それから、俺の頭をそっと撫でた。
「……ご心配、痛み入ります。この蒙恬、しかと胸に刻みましょう」
どこまで本気にしたかは分からない。ただ、俺にできるのはそれだけだった。
◆
軍は趙へ進発した。
後に伝え聞いた、戦の顛末は、こうだ。
桓齮の軍は破竹の勢いで、趙の領内へ攻め込んだ。だが趙の女将軍・李牧は、正面からぶつからなかった。
李牧は、趙の奥深くに、陣を敷いた。そして、その周囲に幾重もの伏兵を潜ませた。……桓齮を深く誘い込み、袋の鼠にして討つ。そういう罠であった。
桓齮は、その罠を見抜いていた。
「ふん。李牧め。……俺を釣ろうって腹か」
だが、桓齮の出した答えは、常軌を逸していた。
「罠が、発動する前に。……囮の李牧を、討てばよい。首さえ獲れば、伏兵など、烏合の衆よ」
◆
「……お待ちください、桓齮将軍」
蒙恬が、進言した。
「あまりに、危ううございます。李牧を追えば、我らも深入りする。伏兵の只中へ、飛び込むも同然」
「臆病者めが」
桓齮は、鼻で笑った。
「怖いなら、後方で、震えていろ。……手柄は、俺様が、いただく」
蒙恬の言葉は、届かなかった。
◆
桓齮の突進は、凄まじかった。
李牧めがけて、まっすぐ、突き進む。……その速さは、伏兵が態勢を整えるより、早かった。李牧は、じりじりと、追い詰められていく。
――あと一歩。桓齮の刃が李牧に届こうとした、その時。
一人の男が、桓齮の前に、立ちはだかった。
武の、化身であった。
趙の副将、司馬尚。……李牧の傍らに侍る、無双の剣士。その剣が桓齮の一撃を、真っ向から受け止めた。
「どけっ! 小僧がぁっ!」
桓齮は吼えた。だが、司馬尚の壁は破れなかった。……李牧を討ち損ねた。
◆
その、わずかな滞りが、命取りだった。
桓齮が、李牧を仕留めそこねた、その一瞬に。趙の伏兵が、いっせいに牙を剥いた。
桓齮は後退した。だが逃げる先々に、新手の伏兵が湧いて出る。まるで桓齮の退路を、李牧があらかじめ読み切っていたかのように。
兵が削られていく。一隊、また一隊と趙の伏兵に飲み込まれる。……破竹の秦軍が、みるみる屍の山と化していった。
そして、最後に。
退く桓齮の背へ。音もなく、追いすがった影があった。……司馬尚であった。
桓齮が振り向く暇もなかった。司馬尚の剣が、その背を深々と貫いた。
――十万の首を刎ねた、残虐の将は。趙の地で、その血を贖うように絶命した。
◆
桓齮、討死。
その報せよりも早く。趙の伏兵は、副将・蒙恬の隊をも囲もうと迫っていた。
だが。
蒙恬は動いていた。
あの、幼い扶蘇の言葉を覚えていたのだ。……周りに斥候を張り巡らせよ、と。
蒙恬の放った斥候が、伏兵の気配をいち早く掴んだ。桓齮が、まだ李牧を追っている、その頃には。蒙恬は、すでに退却を始めていた。
「……全軍、退けっ! 隊列を崩すな! 押し包まれるぞっ!」
◆
それでも、戦は、甘くなかった。
退く蒙恬の隊にも、趙の追撃が、襲いかかった。伏兵の網は、深く、広い。……一度、退却が乱れれば、そこで終わりだった。
蒙恬は、殿を務めた。押し寄せる趙兵を、幾度も押し返しながら。じりじりと味方を逃がしていく。……幾度も討たれかけた。それでも、蒙恬は崩れなかった。
だが、その安否は。……戦場の砂塵の中に閉ざされた。
◆
咸陽に届いたのは、秦軍、大敗の報のみであった。
桓齮、討死。趙侵攻軍、壊滅。……肥下の戦いは、俺の知る史実の通り、秦の惨敗に終わった。
蒙恬の名は、その報せの中になかった。生きているとも、死んだとも知れぬ。
俺は、宮の片隅で、膝を抱えていた。
――俺の言葉は。届いたのか。あの斥候の一言が、蒙恬を生かしたのか。それとも。
史実では、蒙恬は、この戦で死んではいない。だが、ここは俺の知る世界とは違う。……確かなことは、何もなかった。
俺は、ただ祈ることしかできなかった。
◆
幾日が過ぎた。
そして、ある日。
咸陽の門に、傷ついたわずかな軍勢がたどり着いた。
その先頭に。……甲冑を血と泥に汚した、蒙恬の姿があった。
「――蒙恬っ!」
俺は、宮の作法も忘れて、駆け出していた。小さな足で、転びそうになりながら。蒙恬のもとへ、まっすぐに。
蒙恬は俺を見て、疲れきった顔に、それでも柔らかな笑みを浮かべた。
「……ただいま、戻りました。扶蘇様」
片膝をつき、俺を、抱きとめる。血と汗と、鉄の匂いがした。だが確かに、生きて温かかった。
「無事で……無事で、よかった……!」
俺は蒙恬の首にすがりつき、子供のように泣きじゃくった。……中身は大人のはずなのに。涙が、止まらなかった。
蒙恬は、俺の背を、そっと撫でた。
「扶蘇様の、おかげにございます。……斥候を張れという、あのお言葉。あれがなければ。私は今ごろ、趙の土になっておりました」
その声は静かだった。だが、その目は。……もう、子供の戯言を見る目ではなかった。
――この子は、いったい、何者なのだ。
蒙恬の眼差しは、確かにそう問うていた。




