第1話 気がつけば、女だらけの秦に転生していた
股に湿り気を感じて、目が覚めた。
(まさか……おねしょしたのか!?)
跳ね起きようとした。だが体が思うように動かず、手足がジタバタと宙を掻くだけだった。声を上げようとして、出てきたのは、泣き声だった。まるで赤子のような。
目を開ける。涙で視界が滲んでいる。ぼんやりと、人の輪郭が見えた。
「おやおや。今、襁褓をお取替えいたしますね」
柔らかな女の声であった。尻を濡れた布で拭われ、新しい布を巻かれる。そして眼前に、豊かな乳房が差し出された。
抵抗などできるはずもない。俺は本能のおもむくままに吸い付き、そして――ようやく悟った。
俺は、赤子として転生したのだ、と。
◆
「蒙恬。すまぬな。私の乳の出が悪いばかりに、そなたに乳母を頼むことになった」
威厳のある、涼やかな声が言った。傍らに立つ、もう一人の女である。……この方が、俺を産んだ母――そして、この国の王であるらしい。
「もったいなきお言葉にございます、王よ」
俺に乳を含ませている女が、柔らかく答えた。
「ちょうど私も、娘を産んだばかり。乳は張って仕方がありませぬ。この蒙恬、乳母の役目、しかと果たしてみせましょう」
乳を与えるこの女が、蒙恬。そして、それを見下ろす王が、俺の母であった。
俺の頭は、混乱した。
俺の知る蒙恬といえば、秦の名将だ。万里の長城を築き、匈奴を討った、あの武人。……それがなぜ、女で、乳母なのだ。
そして蒙恬が仕える、秦の王。それはつまり――秦王政。後に始皇帝となる、あの人物ではないか。それが、女になっている。
混乱する俺の頬を、蒙恬がそっと撫でた。
「扶蘇様。よくお聞きなさいませ」
その声は、赤子に言い聞かせるように、どこまでも優しかった。
「あなた様は、男にお生まれになりました。……この世に、十人に一人しかおらぬ、貴きお方にございます」
◆
男は、貴重なのだという。
俺は赤子の耳で、蒙恬の言葉を聞いていた。
この世では、生まれてくる子の、九割が女なのだと。男は、めったに産まれぬ。ゆえに男は宝として、蝶よ花よと育てられる。重い物は持たされず、汚れ仕事もさせられず、傷ひとつ負わぬよう、大切に囲われる。
王族の男ともなれば、なおのことだ。殺すことすら、禁じられているという。男の血を絶やすことは、この世で最も重い禁忌なのだと。
……なるほど、と俺は思った。だから俺は、こうして下にも置かぬ扱いを受けているのか。
◆
「王よ。先ほどから、呂不韋様がお待ちにございます」
「あの者は、母と子が触れ合う時すら、与えぬ気か。……待たせておけ」
政の声が、すっと低くなった。
俺は赤子ゆえに、目がよく見えていなかった。それでも分かった。霞んだ視界の向こうで、二つの気配がぶつかり、火花を散らしている。
「王よ! お世継ぎのご誕生、まことにおめでとうございますなぁ!」
豪快な声が、部屋に響き渡った。呼ばれるのも待たず、入ってきたらしい。
呂不韋。……秦の宰相だ。そして『史記』という歴史書には、この男こそ政の実の父かもしれぬ、という記述がある。歴史上の謎の一つであった。
「うむ。……ところでお主、魏との戦の最中ではなかったか」
「ははは! 戦などより、お世継ぎの誕生の方が大事に決まっておりましょう! 戦線は蒙武に任せ、この呂不韋、馬を飛ばして舞い戻って参りました!」
「戦とは、そのように軽いものではないぞ。それに蒙武も、娘の蒙恬に子が産まれたのだ。早う帰してやりたいとは思わぬのか」
「ははは! あの女は、家族より戦が大事な女子にございます! 何の問題もありませぬわ!」
(蒙武も、女なのか……)
ふと蒙恬を見ると、やれやれと首を振っている。だがその目は笑っておらず、呂不韋の背を、静かに見据えていた。……武人の目だ、と思った。
「いやいや、扶蘇様のご生誕は、この呂不韋にとっても、他人事ではありませぬでな」
呂不韋が、ずいと歩み寄り、俺の顔を覗き込んだ。厚い唇が、弧を描く。
「……貴重な、貴重な男児だ。大切に、大切に育てねばなりませぬなぁ」
その声は、祝福の形をしていた。だが赤子の俺だけが、聞き取ってしまった。慈しみではなく、算盤を弾くような響きを。
宰相ならば、世継ぎを気にかけるのは当たり前だ。……そう思おうとした。だが政は、険しい顔を崩さなかった。
(まさか……『史記』に書かれていたことは、本当なのか?)
◆
俺は前世では、学生だった。
人文系で東洋学を専攻し、秦末から楚漢戦争についての卒論に、取りかかろうとしていた頃だった。図書館で重い書物を抱えて階段を降りていて、足を踏み外し、頭を激しく打った。……覚えているのは、そこまでだ。
まさか秦の公子・扶蘇として生まれ変わり、蒙恬の乳を飲むことになるとは、思いもしなかった。
俺の知る史実では、扶蘇は始皇帝の死後に反逆の罪を着せられ、毒を呷って死ぬ。弟の胡亥を担ぐ宦官・趙高の、謀によって。蒙恬もまた、抵抗の末に処刑される。
だが、この世界ではどうなるのか。ここは俺の知る史実とは、まるで違う。主要な人物が女だらけなのはもちろん、男の存在は貴重で、人口の一割しかいない。理由は分からぬ。だがそれゆえか、王族の男を殺す行為は、禁忌とされていた。
(ならば史実と違い、俺は毒を呷って死なずに済むのか。俺が死ななければ、蒙恬も、死なずに済む……)
蒙恬は、美しい女性だった。色白の肌、涼やかな声、そして武人らしい凛とした立ち姿。十八ほど年が離れているが、俺はこの乳母が、ずっとそばにいてくれればいいと思った。
◆
そうして育つうちに、俺には一つ、見えてきたことがあった。
……この世の男には、二種類いる。
一つは、その貴さに恥じぬよう生きる男。守られるぶん、女を守り、貴くあろうとする者。
もう一つは、貴さを傘に着る男。甘やかされて育ち、己が貴いと驕り、女を弄び、傷つけ、捨てる。男に産まれたというだけで、何をしても許されると思い込んでいる者たちだ。
宮の内でも、そういう男の噂は聞こえてきた。侍女に手をつけては飽き、次の女へ移る公達。貢がせるだけ貢がせて捨てる男。……貴重な男ゆえ、誰も咎められぬ。咎めれば、こちらが罰せられる。女たちは、ただ耐えるほかなかった。
まだ幼い俺は、その光景を、ぼんやりと眺めていた。……そして、思った。
――俺は、女を食い物にするような男には、なりたくないな。
それは大義でも決意でもない。ただ、五つになる前の子供の、素朴な願いのようなものだった。
◆
俺がこの世界に生まれ変わって、五年の月日が流れた。
言葉を話せるようになり、活発に体を動かした。蒙恬の娘・蒙凛と一緒に育てられ、学問をするときも、遊ぶときも一緒だった。
「扶蘇様は、とても賢うございます。それに比べて、うちの凛ときたら……」
「よい。人には得手不得手がある。俺とて、学問のほかは、凛に敵わぬ」
学問ができるのは、当然だった。中身は現役の学生なのだ。卒論のために漢文も読めるし、暗記も得意だ。だが駆けっこや木剣を取れば、凛の方が上だった。その辺りはさすが、武人の家系なのだろう。
その日、俺は政の宮で、蒙恬とともに召し出されていた。
「蒙恬。戦に復帰するそうだな」
「はい。趙が強く、秦は苦戦を強いられております。桓齮将軍が来年、総力を挙げて趙へ侵攻するとのこと。この蒙恬も、その軍に加わりまする」
政が頷いた。
「桓齮は、平陽で趙軍十万を破った猛将だ。次も、期待できよう」
「桓齮将軍では、李牧には勝てませぬ」
――俺は思わず、口を滑らせてしまった。
政と蒙恬の視線が、同時に俺へ向く。宮の空気が、ぴたりと止まった。
(……しまった)
だが、もう遅い。
その切れ長の目が、俺という存在を値踏みするように、じっと見つめている。母の目ではない。王の目だった。傍らの蒙恬もまた、いつもの柔らかな眼差しを消し、俺を見つめていた。
五歳の子供が、口にしていい言葉ではなかった。
――俺は、その二つの視線の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
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