第1話 男の価値
お腹が満たされ、蒙恬の腕の中でうとうとしていると、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。戸口でしばらく押し問答が続いたあと、返事も待たずに戸が開く。
「王よ! お世継ぎのご誕生、まことにおめでとうございます!」
入ってきたのは、恰幅のよい中年の男だった。上等な衣をまとい、満面の笑みを浮かべている。寝台に横たわる政は、その顔を見るなり疲れたように眉を寄せた。
「呂不韋か。余は休むと伝えさせたはずだが」
(……呂不韋?)
秦の相国呂不韋。商人から身を起こし、秦王家の後継争いに深く関わった人物だ。史実とは違う姿で現れたことに驚いていると、呂不韋は俺の方へ近づいてきた。
「王家に男児がお生まれになったと聞きましてな。どうしても一目、お顔を拝見したくなったのでございます」
「祝いの言葉は受け取った。余はまだ身体が辛いのだ」
「おお、それは失礼を。こちらが扶蘇様ですかな」
呂不韋は蒙恬に抱かれた俺の顔を覗き込んだ。
赤ん坊が珍しいのかと思ったが、視線の動きが妙だった。目元から鼻筋、口元へと眺め、少し離れてはまた覗き込む。時折、寝台の政へ目を向けてから、俺の顔を見直している。
(……何だ、この人。そんなに俺の顔が気になるのか?)
やがて呂不韋は笑顔を戻した。
「実におめでたい。どうか健やかにお育ちになりますよう」
「もうよい。下がれ」
政の声には、はっきりと苛立ちが混じっていた。
呂不韋は頭を下げたが、戸を出る直前にも一度だけ俺を振り返った。その視線が気になったものの、俺は再び眠気に引かれ、考えるのをやめた。
男が去ると、政は深く息を吐いた。
「まったく、産後くらい静かに休ませてほしいものだ」
「王、どうかお休みくださいませ。扶蘇様は私がお預かりいたします」
蒙恬がそう言うと、政は名残惜しそうに俺を眺めてから目を閉じた。出産を終えたばかりの身体には、短い応対でさえ負担だったのだろう。
◆
三歳になる頃には、俺もこの世界の暮らしに慣れていた。
宮中では、兵士も官吏も女が多い。荷を運ぶのも、馬を世話するのも、危険な仕事を担うのも女たちだった。男は少ないため、怪我をさせないよう周囲が常に気を配っている。
俺の場合は王の子という立場もあり、扱いはさらに慎重だった。
ある日、庭で走っていて石につまずき、膝を擦りむいた。血が少し滲んだだけだったが、女官たちは顔色を変え、すぐに侍医を呼んだ。傷を洗われ、薬を塗られ、布まで巻かれた挙げ句、その日は庭へ出ることを禁じられた。
夕方になると、護衛の女官が政の前で膝をついていた。
「お前が側についていながら、なぜ怪我をさせた。王家の男児を預かる責任が分かっておらぬのか」
「申し訳ございませぬ」
女官の声は震えている。
自分で走って転んだだけなのに、このままでは彼女が罰を受けてしまう。俺は政の袖を引いた。
「母上、俺が勝手に走ったんです。その人は悪くありません」
政は俺を見下ろした。
「扶蘇、お前は自分がどれほど大切な身なのか、まだ分かっておらぬのだ」
「でも、転んだのは俺です」
政はしばらく黙ったあと、女官を下がらせた。俺には、傷が治るまで庭を走らないよう言い聞かせる。
男が少ない以上、守られる理由は分かる。だが、自分が転んだだけで誰かが責められるのは、どうにも納得できなかった。
◆
男が大切にされる理由を知る一方で、その立場を当然と思っている者もいる。
ある日、蒙恬に付き添われて宮中の廊下を歩いていると、上等な衣を着た若い男が、数人の女官を従えてやってきた。
すれ違いざま、男の袖が女官の膳に当たり、茶器が床へ落ちた。
「何をしている! 危うく私に怪我をさせるところではないか!」
男が怒鳴ると、女官はすぐに頭を下げた。ぶつかったのは男の方なのに、彼女は弁解もせず、床へ膝をついて破片を拾い始める。
「男の身に傷でもつけたら、どう責任を取るつもりだ」
男は女官を急かした。破片を拾う指から血が出ていることにも気づいていない。
俺が見ていることに気づくと、男は態度を改めた。
「これは扶蘇様。お見苦しいところをお見せいたしました」
先ほどまで怒鳴っていたのが嘘のような口調だった。男は女官たちを連れて、そのまま去っていく。
蒙恬は残された女官の手当てを命じ、俺の手を取った。
「あの人、自分でぶつかったのに謝らなかったね」
「男の方は、大切にされることに慣れておいでですから」
歩き始めると、近くの女官たちの話し声が聞こえた。先ほどの男の家へ嫁げば苦労するだろう。それでも、男に選ばれるなら幸運だという。
男が少ない以上、すべての女が男と結ばれるわけではない。男との縁そのものが貴重なのだと、俺にも分かってきた。
だからこそ、あの男のような振る舞いも許されてしまうのだろう。
(……俺は、ああいう男にはなりたくないな)
大切にされることと、何をしても許されることは違うはずだった。
◆
俺は扶蘇だ。
前世で学んだ史実では、始皇帝の死後、趙高と李斯が詔を偽造し、胡亥を帝位へ立てるため、北方にいた扶蘇へ自害を命じる。扶蘇は父の命令と信じ、自ら命を絶つ。その後、蒙恬も命を落とした。
その未来を知った時、俺は恐ろしくなった。
だが、この世界では事情が違う。秦王政は女で、蒙恬も女だ。男は希少で、王家の男ともなれば、膝を擦りむいただけで周囲が騒ぐほど大切にされている。
同じような詔が出たとしても、史実と同じ結末になるとは限らない。歴史の前提が違う以上、未来も変えられるはずだった。
何より、俺には守りたい人がいる。
産後の疲れを隠せず、それでも俺を嬉しそうに見つめていた母の政。生まれた時から世話をしてくれている蒙恬。史実の通りに二人と別れるつもりはなかった。
ただ、あの日の呂不韋の視線だけは、今も気になっている。
なぜ、あれほど俺の顔を見ていたのか。
男として生まれたことで、俺の知らないところですでに何かが動き始めている。そんな気がしてならなかった。




