ハンス
青年の名は、ハンス。
ハンス・セバスチアン。
魔法文明が栄える「西の国」に住むさすらいの吟遊詩人だ。
才能を認められ、聖堂で、ギターを弾き、讃美歌や聖歌を作曲してそれを歌っている。
即興で、詩を作り、メロディを乗せ、目の前の人にそれを歌って差し上げるのだ。
青年は街のみんなや子どもたちの人気者になった。彼が公園で、路上で一本楽器を取り出すたび、その空間にいるすべて何十人もの人びとが有名人でも見つけたみたいに彼の周りに集まって彼に聞きほれる。
彼は、みんなの喜ぶ顔をみて、嬉しくなった。得意げになった。みんなは、ハンスのことを褒め讃えた。
ああ、確かに満たされていた。
だけど、ハンスのその演奏や歌を本当に聴いてほしい人は、いつもそこにはいないような気持に駆られていた。彼の作る歌や詩はいつも、もう会えない「誰か」のことを思いながら作ったもののように思われる。しかし、それが誰かなんてことは、もはやハンス自身もあえてほじくり返して回想する暇も時間もなかった。ハンスが詩人になった原点にあるのは、少年の時に触れた「誰か」の言葉の数々のような気がする。
あれからどれだけ経ってもあの時であったまだ小さな「誰か」の言葉を越える言葉を一つとして生み出すことができないような気がする。
あの言葉に近づくため、あの心に近づくために、ハンスは無意識のうちに言葉を並べ続けた。
そんなことを続けているうちに、誰にも真似できないような技術を身に付け、「それは才能だよ」ともてはやされて、いつの間にか小さな街の吟遊詩人として人びとを喜ばせ、「魔法」が経済を回している社会において、幸運にもそれで銭を稼いでいく術も身に付けた。
だけど、それでなにも保証なんかされていない。
楽しそうに歌っていたところ、ある大人がやってきてこう言った。
「今は、楽しそうでいいな。だけど、そんなくだらないことばっかりやっていたら将来が大変だぞ。」
「・・・将来?将来って何ですか?」
彼は聞き返した。
大人は呆れてため息をつきながら去っていった。
ハンスにとっては、何か「欠けたもの」があまりにも大きかったのだろう。「将来」を考える余裕すらなかった。
というか、そんなものはどうでもよかった。
教会の人びとは決して悪い人ではなく、むしろ、病気で両親を亡くしみなしごになった彼をあたたかく守り育ててくれたもうひとりの親のような人びとであったと言ってもいい。
しかし、ハンスは決して、本当の想いを誰にも打ち明けることができなかった。
彼は巧妙に教会の人びとが喜び、好みそうな言葉を選び、うまく言葉をすり替えながら、歌に自分の気持ちを託していった。
何かが「本当」じゃなかった。
その誰かと別れてから、もう、十年近くが立っていた。
記憶はもうすっかりない。時の流れはあまりにも残酷なのだ。
人間の脳が直接記憶を蓄えることができるのは三年分だけなのだそう。それ以降はコピーとしてモノクロの偽物が伝えられていく。
すべての出来事は思い出とよばれ、そしてその想い出も記憶という情報になる。そして、その情報すらも、不要なものとして消去され、そして忘却されていくのだ。
けれども、その十年の間、一日たりとも「あの感覚」は心の奥底にこびりついて離れることはなかった。