夢
この物語を今は会えない大切な友に捧ぐ
これは、とある遠い遠い国のお話。
「君、この旅であったこと、私が伝えたことのひとつひとつを、物語にして書き留めておきなさい。」
精霊はこう言った。
「いつか出会うであろう、まだ見知らぬ友のために、この素晴らしき出会いの数々を、そっと宝物を地中に隠すように書き留めておきなさい。それまで、誰にも見せないようにした方がいいかもしれない。」
と。
「何かの偶然でそれを掘り出した人がいた時、
そして、この物語は、誰にでもある物語、そして、あなただけにしかない物語だということに気が付くだろうから。
小さなろうそくのランプというものは、広いところに立てると風ですぐに消えてしまう。
ひとりで覆い隠すとそれはなにも照らすことはない。
ふたりが身体を寄せてその光を見つめたときにのみはじめて本当に必要なもののみを照らし出してくれるのだから・・・。」
*
ハンスは、何度も同じ夢を見た。
まだ子どものころの夢だった。
彼には、おさなじみの仲の良い少女がいた。
亜麻色の髪の毛を額なり横なりで結んでいた。少女は明るく、いつも笑顔を絶やさなかった。
少女の周りにはいつも仲間がおり、大人たちは少女の純真さを見抜き、また少女はまごころのある大人たちを尊敬して良い関係を築いていた。
対して、ハンスは髪を少し伸ばし、周りの子どもたちと集団になって遊ぶようなことをせず一人で本を読んだり、絵を描いたり、空想にふけっているようなことが好きだった。
ハンスの世界を大人たちは誰一人として理解することができなかった。それゆえ、不良とまではいかないが、ハンスは扱いづらい子どもであった。
少女とハンスは正反対の性格でありながら、なぜか互いに気が合った。
少女が、ハンスに対して、
「そうじ、しっかりやりなさいよ。」などというと、
「うるせーよ!」と返す。
返しながら、ハンスはしっかりやる。
「貴方の歌、音痴ね。」
「なんだよ」といいながら、ハンスは音程を合わせる。
ハンスが、少女に対して、新しく描いた絵などを得意げに見せると、
「また勉強もせずにそんなのばっかり描いて。」
とたしなめられるものの、
「もっとないの?」
とせがまれたものだった。
そんなことが続くうちに二人はお互いに自分自身のほかの人には言わないような想いであるとか自分自身のことを話すようになっていった。
その少女と会えない日が続くだけで、ハンスはなぜかその日は哀しくて悲しくて仕方がなかった。
ハンスが、少女のことを見ていても、むこうはこちらのことなど、どうでもいいかのように仲間の少女たちと遊びにふけっている。
そんなときは、他にどんな楽しいことがあってもハンスは、まるで心が空っぽになったように何をしても楽しむことができなかった。何をしても哀しいのだ。
少女ばかりを見つめるとき、誰かに自分の気持ちが漏れ出してしまわないかという懸念からハンスは、意図的に誰のことにも興味がないかのように装った。
しかし、一日中それを装ったまま無表情、無感情でいることはやはり耐え切れないことだった。
・・・こんな気持ちははじめてだ。
逆に、少女が、ハンスに自分のことをうち明けてくれたりとか、一緒に遊ぶようなことがあった時は、たったそれだけで、天にも昇るようなうれしい気持ちになった。
ハンスは、いつのまにか、彼の胸にはそれまでに感じたことのなかったようなあたたかくて、口に出せないような思いが芽生えた。
それは・・・
「できるだけ長くあの子といっしょにいたい。」
ということ。
男の子の友達は何人かいる。彼らと居るときは、楽しい。趣味や遊びや話題が合う。だから、彼らとは、一緒にいたいと思う。
でも、少女に対するその一緒にいたいという気持ちは、男の子の友人とは違ったものだった。
ハンスにとって、少女は、世界に一人しかいない、ほかの何億人ものの少女とは取り換えのきかない、たったひとりの・・・そう、かけがえのない存在のように思われて仕方がなくなっていった。
なぜだ。なぜだろう。
ハンスはその理由をいくつも考えた。
「人間であれば誰もが経験する、そういうもの」では割り切れない何かだ。もっと、もっと神聖で美しく汚されてはならない何かだ。
軽々しく話題にした瞬間、それは特別なものではなくなってしまう何かだ。
「友だちも、大人たちも、親も、僕のことを興味を持って、知ろうとはしてくれなかった。
しかし、<あの少女>だけは・・・僕にそうしてくれる。」
それがひとつだ。
そして・・・少女は、美しい言葉を発する。
そうだ、それを詩というのだ。
その言葉は、ハンスの心臓を昂らせ、何とも言えない優しい気持ち、いとおしい気持ちにさせた。
ほかの誰をもっても、こんな言葉を紡ぎだせる女はいない。
ハンスは彼女の書いたいかなる些細な言葉でさえ大切に保存しそれを捨てることなく読み返した。
そして、さらに、もっともっと、彼女の心から出るあたらしいことばのひとつひとつを聞き、読んでみたい、いくら触れても触れたりない。
ハンスは、何度も夜寝る前に、「考えてはいけない」と言い聞かせながら、少女のことを考えずにはいられなかった。そして、そんな思いを巡らせているときはわけもなく幸せで満たされて仕方がなかったのだ。
そんなことが、くりかえし続いたある日、知らせがあった。
それは、あまりにも唐突なことで、寝耳に水どころではなかった。
あの少女が、親の仕事の都合で、遠い町に行ってしまうということが急きょ決まったという。
ハンスは、いたたまれない気持ちになった。どうしていいか、分からなくなった。
同じタイミングで、ハンスの親が病気で床に臥せることになった。
少年ハンスは朝から晩まで金を稼ぐために魔法を習得しなければならなくなったこと。
それはあまりにも唐突な別れだった。
その二つが同時にやってきた。
彼は心が張り裂けそうだった。たとえば、皮膚にかさぶたができたとしてそれが固まらないうちに一気にはがしてしまうとさらなる出血と痛みを伴うけれども、心だってそれと変わらないくらい確かな痛みを感じてしまうものだ。自分の心に心地よく張り付いて同化しようとしていた一部分が音を立てて引きはがされていく痛みを想像できるだろうか。
*
その知らせを聞いた翌日のことだった。
毎週日曜日、街の人たちはみんな、街の中心にある教会に行き、礼拝をささげる。ハンスもそこに行く。そういう文化なのだ。
教会の聖堂いっぱいにオルガンと讃美歌が鳴り響き、礼拝が始まる。
それと同時に、天井からは幾人もの天使や聖霊が飛んでくる。
彼らは、人間が抱えている問題に対して求めればヒントやそれが起こった意図を教えることもある。ただ、何も伝えずそばにいて光の息を吹きかけることもある。
ハンスにとって、それらの素晴らしく荘重なものは何も心に入ってこない。あの事が気になって気になって仕方がなく、それどころではないのだ。
ハンスが目をつぶっていると、その隣にだれかが座っていた。
その感覚が、肉体を持たない天使や聖霊とは違う生身のものであるということはわかった。
それでいて、その心は、彼らとまるで変わりない透明なものだということも。
そして、目で確認しなくても、その息遣いや、肌触りで、それが誰かということをハンスはすぐに気が付いた。
少女がうれしそうにこっちを向いている。
ハンスのはもうこれ以上ほかに何も要らないと感じすべてに感謝した。
神様のことなんかよりも、ハンスは今となりに座っているこの女神のような少女のことを感じていた。
礼拝が終わると、市民はみんなぞろぞろと教会の会堂から出て行く。
ハンスはずっとそこに座ったままだった。
そして、少女も同様に隣にいた。
会堂からはついに、この二人以外誰もいなくなった。
何一つ物音のしない静かな空間で、ずっと、何をするでもなく、ただずっと座っていた。
ひそひそと話しかけられた。
「この時が来ることを、ずっと待っていた・・・。だって、やっと本当に二人っきりになれたのだもの。」
そういって、少女はハンスの手に触れる。
目と目が合う。
ハンスは少女の目を覗き込んでいる。
その目は、まっすぐにハンスの存在を見つめている。
ハンスは他人と目を合わせるのが得意ではない方だ。
いつも大人から、「人の目を見て話を聞きなさい。」とせがまれ、嫌な思いをしたものだ。
しかし、それは自然だった。
目には心が宿っている。
目と目が合うということはきっと心と心がつながるということなのだ。
ドキンドキンと胸が打つ。
距離が近づいて、近づいて、どうしていいかわからない。
もっと近づきたい・・・もっと、もっと。もっと、もっと。
だけど、それ以上、時間をかけず、一気に近づくことは、二人の間にある、育てて行かねばならない微妙な空気を一気に壊すことだとも知っていた。
少しづつ、少しづつ、だ。
カタツムリのように、近づいたり離れたりたりしながらの無意識の駆け引きを楽しみながら、触れるか触れない間の暖かさを感じている。
肌と肌がふれあうあたたかさが妙に生々しい。
少女は、ハンスの胸に手を置いて、ニッと笑う。
「ねえ、ハンス、あなたドキドキしてる。
・・・わたしも。」
少女は、ハンスの手を取った。
もっと、もっと。
少しずつ、少しずつ。
もっと、もっと・・・。
その先に、なかなか進むことがないまま、動くことはない。
「ねえ、あなた、私のこと、好きなの?」
心臓がどきっと止まる。
返事のその一言をいうのに、口がまるで鉛の宝箱でも開けるように重たい。
言葉というのは不思議だ。
何でもない言葉なら、紙飛行機を飛ばすようにいくらでもポンポン心と心の間の空白に放り投げて、何かを満たすことができる。
だけど、本当に何か重大な意味を持った言葉というのは、たった数文字でもとてつもない重みを持ったものなのだ。
その直後に流れ込んでくる喜びの感情を受け止める準備ができておらず、それを直接受け取るということに対して恐れさえ抱いてしまったのだ。
そこで、その風景は絵の具に水をかけたように止まる。
ぼやけていく。
そうして、目が覚める。
すべてが、幻だったのだ。夢だったのだ。ありもしないこと。あったのかなかったのかわからないこと。
もはや、いくら手を伸ばしても届かない遠い過去のことなのだ。
夢の中でもよかった。あの問いかけに・・・まっすぐに応えることができていたら・・・。
違う・・・あそこで、何かがあった・・・何かがあったような気がした。
目覚めると同時に、息をふーっと吐く。
目からはなぜか涙がこぼれている。
切ない。切ない。
いつも、そこで夢は終わるのだ。
何度も何度も同じ夢を見る。
少女は確かに・・・いた。
だけれども、本当にそんなことがあったのかすら、ハンスにとって記憶はあいまいだ。
少女の名前も、顔も、おぼろげには浮かぶ気もするのだが、目ざめてしまった今となっては、ただ「暖かい感じ」だけが脳裏に焼き付いているだけ。
夢の中ではあんなにはっきりしていたのに。
少女はたしかに、少年の時、いた。
たしかに、彼はあの時の気持ちを伝えられないまま、どう言葉にしていいか分からないままだった。
だけど、少女との間にあったことは記憶からすっかり抜けてしまっていた。
もう、あの日から十年が経ってしまったのだ。
もう一つ頭に残っている映像がある。
そういえば、少女とは最後のあいさつをできないまま、町からいなくなってしまった。
「おれがいなくなってしまったのだったっけ。それとも、あの子がどこかにいっちゃったのだったっけ。」
ハンスはひとりつぶやいた。
ただ、あるのは、無限の寂寥感。そして、それは朝日が昇り闇を照らすように、ハンスが朝の活動を始めると同時に見えなくなってしまう。
太陽が昇っているとき月が見えないように、目が覚めているときにも心の奥に隠しているものは見ようとしても見えないものなのだ。
そして、次第にそれは「どうでもいいもの」になっていく。時間とともに。




