1話:私の為だけの勇者
最後に見た景色は、冷たい雨に濡れる歩道橋。
その手すりにそっと添えられた、誰かのための白い花束だった。
不意に、背中に受けた強い衝撃。
舞い上がる傘。
遠ざかる意識。
(……ああ、私は、誰かに突き飛ばされたんだ——)
情報の濁流に呑まれながら、視界の端に映った「自分の死体」を見て、私は心の中で猛烈に毒づいた。
ふざけないでよ。
十五年しか生きていない前世の記憶なんて、ただの未練と呪いに過ぎなかったのに。
私はあいつのために——。
——プツンと、世界が消えた。
***
「ふふふん、ふふふ〜ん♪」
私は今、すこぶる機嫌がいい。
この世界に転生し、物心ついてから十数年。
私を「政略結婚の駒」か「子供を産む道具」としか見ない腐ったガルムス王国の片隅で、隠れて磨き続けた私の最高で最強の武器。それがようやく形になろうとしている。
「これはアイン王女殿下。本日はご機嫌なようで何よりです。いつ見てもその見事な銀髪はお美しい。アイン様の燃えるような緋色の瞳が、実に映えますな」
王宮の中庭に続く廊下で声をかけてきたのは、長く白い髭を蓄えた老人。宮廷魔術師筆頭であり、私の魔術の師でもあるマーリンだ。前世の映画に出てくる偉大な魔法使いを絵に描いたような風貌をしている。
「……ねえマーリン。私の髪と目のこと、私がどれだけ呪わしく思っているか知っていて言ってる? 次それ口にしたら、一ヶ月は口をきいてあげないからね」
私がジロリと睨むと、マーリンは「おっと」という顔で大裟裟に身をすくめた。
このガルムス王国において、銀髪と緋色の目は『不吉な魔術の申し子』として忌み嫌われる特徴だ。王族でありながら私が第十王女として冷遇され、日陰に押し込められている最大の理由でもある。
「い、以後気をつけます……。しかし殿下、その抱えられている箱は?」
「ふふ、聞いて驚かないでね? やっと手に入れたのよ。——ほら、転移コウモリの羽!」
小瓶に詰められた幻の魔法素材を見せると、マーリンは驚愕のあまり白髭を震わせた。
「まさか、本当に仕留めなさるとは。見つけた瞬間に空間を跳ぶあの厄介な魔物を、どうやって……」
「私の召喚術の前には、空間の壁なんて無意味だってこと。……まぁ、高度数百メートルの上空に強制転移させられた時は、本気で二度目の死を覚悟したけどね」
私はこう見えて、王国内では存在を隠匿されている『稀代の天才召喚魔術師』なのだ。
「これで『時空花』と『転移コウモリの羽』が揃った。あとは私の私室にある『空創の断片』さえ合わせれば、ついに……異界から“勇者”を召喚できるわ」
私の胸の中で、心臓が爆ぜるように高鳴る。
前世では理不尽な逆恨みにあい、不遇な死を迎えた私。
今世でも誰にも愛されず、疎まれて生きてきた私。
そんな私の人生を、この閉塞した王室から救い出し、私の存在すべてを肯定してくれる——そんな「理想の勇者」を、私は召喚術でこの世に引っ張り出すのだ。
「絶対に召喚する。あっちの世界から、私だけを見つめて、私のために戦ってくれる最高の盾を。
……クフフ、あははは!」
「で、殿下、高笑いが完全に悪役のそれでございますぞ……」
マーリンが呆れたように息を吐く。
しまった。また王女らしくない顔をしてしまったわ。
その時、廊下の向こうから嫌な足音と、ツンと鼻を突く高級な香水の香りが近づいてくるのが分かった。
橙色の豪奢なドレスを纏い、これでもかと宝石を着飾った美女。
私の異母姉、シルヴィア姉様だ。
「アイン? 何よその薄汚い格好。卑しい身なりでうろつかないで頂戴。王宮の空気が穢れるわ」
「……申し訳ありません、シルヴィアお姉様」
私は手ぐしで髪を整えながら、形式的に頭を下げた。
シルヴィアは私を『床を這う虫』とでも言うような目で見下してくる。
「貴女みたいな呪われた者でも一応は王族の端くれなのだから、最低限の品位くらい弁えなさい。例え、十番目に生まれた出来損ないの末端だとしてもね」
「はい、シルヴィアお姉様。有り難きお言葉、胸に刻みます」
シルヴィアはフンと鼻を鳴らして、私の横を通り過ぎざまに、扇子で口元を隠しながら冷酷に言い放った。
「貴女ももうすぐ成人ね。
いくら魔術の才能があろうと、十番目の王女の役割なんて一つしか用意されていないわ。王家のために、少しでも値打ちのある殿方の目に留まること。
その貧相な身体でも、男の子の一人くらいは産めるでしょうからね。
せいぜい、高く売れるといいけれど」
去っていく彼女の背中を見つめながら、私はドレスの裾を破れんばかりに強く握りしめた。
(……絶対に、全員まとめて後悔させてやる)
それが、私が産声をあげた瞬間から決まっていた、この世界の絶望的なルール。
元女子高生の精神を持つ私に、顔も知らない男に買われて世継ぎを産むだけの奴隷のような生き方が、受け入れられるわけがない。
無理、絶対に拒絶する。
人生が詰んでいるなら、世界のルールごとひっくり返してやる。
私には、それを可能にする『力』があるのだから。
シルヴィア姉様の足音が完全に遠のいたことを確認し、私はようやく荒い息を吐いた。
震える指先を隠すように、胸の奥から溢れ出る熱い感情を爆発させる。
「——お喋りはここまでよ、マーリン。私は今すぐ儀式を始めるわ。来なさい、ポチ!」
開け放たれた中庭に向けて左手をかざすと、瞬間、不可思議な紅蓮の光の紋様が円を描き、直径三メートルを超える巨大な魔術式が瞬時に組み上がった。
「グルゥウァアアッ!!」
咆哮とともに中空から現れたのは、見るものを圧倒する赤肌の巨大な翼竜。
伝説級の魔物ですら、私にとってはただの飼い犬であり、私の手足だ。この圧倒的な暴力だけが、理不尽な世界の中で私を繋ぎ止めてくれる唯一の味方。
「ポチ、マーリンのテラスまでひとっ飛びよ!」
「グルゥア!」
愛らしい名前に似つかわしくない猛々しい翼が広がり、地を蹴って一気に大気へと踊り出る。
激しい風の中に身体を預けながら、私はゾクゾクとするような高揚感に唇を歪めた。
(待っていなさい、私の勇者様)
王家が私を道具にするというのなら、私は異世界から『最強の運命』を召喚して、この国の喉元に刃を突きつけてやる。
冷たい風を切り裂きながら、私はどこまでも高く、天へと昇っていった。
——これから召喚するその男が、まさか自分の前世の因縁をすべて握る「最悪の男」だとも知らずに。




