妹。
思い出せるのは、いつもと何ら変わりない日だったということ。
中学を卒業する前から悪い遊びを覚えて、高校に入った頃には、両親が海外赴任していることもあり深夜徘徊は日常茶飯事になっていた。
悪いことを悪いと認識できずに、それがまるで良いことであるかのように錯覚していた。
徒党を組んで標的を定めて、狩りでもするかのように相手を追い詰め、文字通り、捕獲した。
振り上げた拳が誰かを打ちのめして、落とした踵が形あるものを壊していくのを楽しんでいたように思う。誰にも知られなければ、初めから無かったことと同じだと、法律さえも無視して。
皮膚の内側を渦巻く破壊衝動をどうしても止めることができなかった。
蹲った獲物が、助けて欲しいと懇願するように滲む眼差しに、自分が高みにでも居るような気分で手を差し伸べた。
そして、その指を、躊躇いもなくへし折った。
許されると、思っていたのだろうか。
そんなことももう分からない。
その日も、大音量で音楽を鳴らして、何をするわけでもなく顔も知らない人間と遊びに興じていた。
並べたコインを賭けに使って、意味もなくぎゃぁぎゃぁと喚く。
座っているソファの背もたれからのしかかるようにして、一番仲が良いと自負している友人が顔を覗かせていた。囃し立てるように喋るその声も、音楽の一つに数える。人が集まりすぎて、誰が何を喋っているのか分からない状況でも嫌な気分ではなかった。
それがいつものことだったから。
「―――――やあやあ、初めまして」
その男が登場するまでは。
単純に『集会場』と呼んでいたその場所は、今はもう廃業してしまったビリヤード場を好き勝手に改築して自分たちで作り上げた、秘密基地のようなものだった。
そこに辿り着くまでには、入り組んで迷路のようになった路地と隠し扉をいくつかくぐらなければならない。元々、違法なことをやっていたらしく、あえてそういう道順になっているようだった。
その途中には用心棒のような人間もいて、その男が相手の顔を認識できなければ通り抜けることができない仕組みだ。つまり、一見さんお断りというやつで、身内でなければ入り込むことはできなかったのだ。強引に抜けようと思えばできないこともないだろうが、用心棒の名を持つ男たちは格闘技を極めているような奴ばかりで、武器を持っているならまだしも素手で立ち向かおうとする人間はまず、いなかった。
―――――その日までは。
突然現れた明らかな部外者は、大衆紙の表紙のような爽やかな笑みを浮かべて登場し、前置きもなく名刺を差し出した。
場所が場所でなければ、飛び込みの営業でもこなしているような洗練された動きだった。
一瞬にして敵対心と疑心が膨らんだ室内をさっと見回した後、男は、勧められてもいないのに、俺が座っているソファの対面に腰を下ろした。
明らかに怪しい雰囲気のその男だったが、誰一人として抵抗らしい抵抗を見せないのは、彼がその背中にいかにも堅気ではなさそうな人間を従えていたからだ。
ぴんと張り詰めた空気は触れただけで破裂してしまいそうだが、その中心でゆったりとソファに構えている男だけはゆったりと力を抜いている。
差し出された名刺を確認してみるが、社名と役職、名前、連絡先、そのどれにも見覚えがなかった。
初対面なのは間違いないと、男の顔を注視すれば、その形の良い唇が怒涛のように言葉を紡いでいく。
まるで、一人芝居のように息もつかせぬ勢いで一方的にまくし立てるその姿は、まさしく俳優のようで、誰もが思わず見入ってしまうような独特の雰囲気があった。
初めは、敵対しているチームの回し者かと警戒していたけれど、対峙してみると分かる。
そんな程度の軽い男ではない。
軽快な口調だというのに、なぜか軽々しさなど微塵も感じさせなかった。
そしてその男は、なぜか、俺のことを良く知っているという。
男が饒舌に紡いでいく物語のような真実を、まるで他人ごとのように聞いていた。
しかし、そこに覚えのある自分の姿が重なっていくと途端に背中から体温が奪われていく。
他人の口によって語られる「俺」というちっぽけでどうしようもない存在。
確かに自分を演じていた頃もあったけれど、それはとうに過去の産物で、今はもうあの頃の面影さえないはずだ。そんな取るにも足らない退屈極まりないその話が、不穏な空気を纏って室内をゆっくりと巡る。
いつの間にか音楽は止み、全員がこの話に耳を傾けていた。
息が詰まっていくような圧力に呼吸が浅くなっていく。
その只ならぬ様子に危機感を覚えたらしい仲間たちが背後に集まって視線を尖らせていたようだったが、それさえも取るに足らないことなのか、男はただ一瞥しただけに留まった。
その眼差しには何の感慨も浮かんでおらず、言うなれば、雑踏の中でただ視線を動かしただけというような、本人にとっては大して意味のない行動だったような気がする。
実際、男は、何事もなかったかのように話を進めていく。
「まぁまぁ落ち着いて。これでも見て気分を沈めてくださいな」
優しい声音で、しかし、決して目を逸らすことは許さないと男は笑みを深くした。
己の部下に3台のノートパソコンを準備させて、さして広くもないテーブルに等間隔で並べる。
戦闘部員と呼ばれた屈強な男たちが太い指で繊細な動きをするものだと、余計なところで関心してしまった。
おもむろに開かれた真っ黒な画面。
そこに自分の間抜けな顔が反射したのを、確かに見た。
亡霊のようなその姿に息を飲んでいる瞬間に、男が、その顔に似合いの細い指で「記録映像」と呼んだ動画を再生させる。
映像が開始されるよりも前に、音声が先に届く。
『―――――さん、聞こえてますか?』
真っ黒な画面に一瞬走った砂嵐の向こうに、誰かの顔が大きく映し出された。
まず口元から、そこからゆっくりと目元の方へと映っていく。
誰なのか判別できないのは、その顔の半分が包帯に覆われているからだ。
片方の目は完全に隠れているし、額から頭部に向かって白い布に覆われている。かろうじて見えている皮膚も赤黒く変色して腫れ上がっているので、輪郭さえよく分からない。
片腕はギブスに固定され、足も吊るされていることから骨折しているのが分かる。
ボルトが突き刺さっている様子から察するにかなりの重症だ。
『聞こえますか―――――?』
誰かに呼ばれているようなのに、その人はぴくりとも動かない。
その間も、画面は上へいったり下へいったり、近づいたり、遠ざかったりしている。
その動きは、周囲を観察しているようにも見受けられた。
白い天井に白い壁、大きな窓にはやはり乳白色のカーテン、そして、白いベッド。
そこに整然と並べられた大小さまざまな機械が規則的に音を鳴らして、彼女がまだ生きて呼吸をしていることを知らせている。
窓から差し込んでいる柔らかな光を反射しているのは点滴バッグだ。
そこが病室だということを理解するのに時間は必要なかった。
「……な、に……?」
口から零れた掠れ声が、パソコンから漏れる音に掻き消される。
ぽつりと落ちた言葉は誰にも聞かれることはなかった。
誰が撮影しているのか、手振れで小さく揺れ動く画面の向こうに再びその人の顔が映し出される。
聞こえますか?と何度も呼びかけられて、やっと、その硬く閉ざされていた瞼が小さく震えた。
長い睫がゆっくりと上に向くのを、なぜか祈るような心地で見つめた。膝の上で握り締めた両手はいつの間にか温度を失っていた。
知っている。彼女を、知っている。
小さな画面の向こうで、彼女は小さく小さくうめき声を上げた。
恐らく自分だけがその声を正確に聞き取っていた。
食い入るようにパソコンを凝視する俺を、周囲の人間が、何事かと見守っている。その視線を痛いほど感じるのに反応を返すことができない。
「ほらほら、騒がないで。しーっ!」
正面でにこにこと笑みを浮かべている男が人差し指を立てて唇を尖らせた。その芝居じみた仕草が怒りを誘発する。
いつもであればとっくに掴みかかっているところだ。
しかし、そんなことに構っている余裕はなかった。
彼女が、こちらを見つめたから。
正確には、カメラを持って撮影しているらしい「誰か」を見たに過ぎないのだけれど、視線は確かにこちらを向いていた。まどろむように何度か瞬きをした後に、眩しいものでも見るような顔をして小さく息を落とす。揺れる瞳孔が夢から覚めるその姿をただ見ていることしかできない。
彼女の唇から零れた呼吸音がやけに大きく聞こえて、思わず息を止めていれば、彼女と視線がぶつかったような気がした。
そんなはずはないと知っているのに、ただの錯覚だと気づいているのに、心臓の奥が鈍い音をたてて指先がびくりと震える。
彼女はやがて視線を外し、ぼんやりと霞んだような暗い眼差しで何かを見極めようと周囲を見回した。
その間は、彼女に呼びかけていた人物も声を発さず、息を飲むような静けさだけが支配していた。
『……な、に……ど……ど、こ』
かさかさに乾いた声がパソコンから響いてくる。
彼女は浅い呼吸を何度も繰り返して、小さく身じろぎした。
自分がどこに居るのか、どんな状態なのかも分かっていない様子の彼女は明らかに狼狽して、たった一瞬で恐慌状態に陥った。
『……や、ゃあ……っひ、』
言葉にならない吐息のような声が引き金だったように思う。
ベッドに横になっていることがますます恐怖を煽るのか、もがくように身を捩った。
しかし、恐らく薬の影響だろう。うまくいかずに半身を起こすことさえ叶わない。
ほんの少しでも体を動かせば激痛が走るようで、包帯の巻かれている白い首をのけぞらせて呻いた。
そこから逃げ出そうとするように何度も何度も動こうとして、その度に体の傷みに声を上げている。
『や、やだぁっ、だれ、か』『ど、こ……ここ、どこ……』『いたい、いた、いき、いきができな、』
その中で、動画がぶれたり音声がくぐもったりするのは、姿さえ見えない撮影者が彼女を押さえつけようとしているからだ。
悪意があってそうしているわけではないと分かるのに、その手から逃れようとする少女が抵抗を強める様子を見れば、その手を叩き落としたくなる。
動かないように言い聞かせながら、骨が折れているとか、いくつもヒビが入っているとか、鎮痛剤を打っているとか、何日間意識不明だったとか、まくし立てるように説明するのを聞いていることしかできない。
思わず視線を巡らせたのは、彼女が今目の前で苦しんでいるような錯覚を覚えたからだ。
鎮痛剤がうまく作用していない。あんなにも痛がっている。苦しんでいる。叫んでいる。
誰でも良い。
彼女を、痛みから救ってやってくれ。
叫びだしたい衝動に大きく息を吸った後で、この場でそんなことをしても何の意味もないと思い至る。
たった一枚のモニターを隔てただけなのに、どんなに焦ったところで彼女の元に辿り着くことはできない。
ほとんど泣きながら、何度も『たすけて』と、『こわい』と、繰り返すその声に無意識にも指を伸ばした。
『やだぁ、やめて、痛い、誰か、誰か……お、おにいちゃぁ…おにいちゃ、ん……怖い、』
思わず立ち上がって、動画を停止しようとパソコンを操作しようとするのだが指先にうまく力が入らない。
見ていられない。こんなのは、見ていられない。
『おにいちゃん、』
縋るような声が俺を呼んでいる。
「―――――やめてくれ……!!」
やっと1台のパソコンを強制終了したところで、他の2台から聞こえる悲鳴みたいな声は止んでくれなかった。
―――――妹が、俺の、妹が、
何が起こっているのか分からない。だからこそ、助けを求める妹の声に胸を引き裂くような焦燥に駆られる。
それなのにどうしようもできない苛立ちが重なって、ほとんど叩きつけるようノートパソコンの画面を閉じた。自分でもはっきりと分かるほどに、顔から血の気が引いていた。
この動画が一体何なのか、なぜこんなものを見せるのか、何が起こっているのか、錯乱するように様々な考えが頭を過ぎるのだが、そんなことよりも何よりも、妹の悲鳴を聞き続けることができない。
『お兄ちゃんどこ』と、自分を探す声を、ただ聞いているだけのこの状態に耐えられそうになかった。
急激に襲ってきた吐き気のせいで喋ることもままならない。
「……おや、どうしたの?そんなに青冷めて」
しんと静まり返った室内に、男の白々しい声が響く。
何らかの事情を知っている様子の彼は、笑っているにも関わらず、その大きな瞳にはっきりと仄暗い憎しみの色を湛えて真実を語り始めた。
敵対しているチームが妹を浚ったこと、そして、妹を人質にして俺のチームを潰そうとしていたこと。
俺の携帯に入った着信のこと、友人のとった信じ難い行動、妹の現状。
あくまでも軽い口調で語る、物語と呼ぶにはあまりにもお粗末な展開のその話に、耳鳴りがしている。
全てを聞き終えてみれば、男は言った。
良かったじゃないかと。
「始まりはなんであれ、君にとってはハッピーエンドじゃないの」
何も知らなかったと言えば、それが免罪符になるのだろうか。
いや、違う。
そうではないことを自分が一番よく知っていた。
知らなかったのではない。ただ、知ろうとしなかっただけだ。
「ねぇ『お兄ちゃん』。僕には君の事情なんて、本当にどうでも良いんだけど。
だけどさ、これだけは言えるよ。
君は助けに行くべきだったんだ。何が何でもそうすべきだった」
ね、そうでしょう?と、男は首を傾ぐ。
「だって、あの子を守れるのは君だけだったんだ」
そうだ。男の言っていることは正しい。もしも、妹に何が起こっていたかを知っていたなら、何が何でも助けに行っただろう。あの子が、真実、赤の他人だったとしてもそんなことは関係ない。
あの子を守る為に最善を尽くしただろう。
だって、それが、人の道というものだから。
見て見ぬフリをするほど、非道ではない。
そんな人間ではないと、本気でそう思っていた。
正しい道を歩んできたわけではない。だが、
―――――非道ではないと、本気で。
「ねぇ、妹を見捨てて、どんな気分?」
言葉になど、できない。
できるはずがない。
あの子と最後に交わした言葉さえ、覚えていないのだから。




