形容動詞
五月雨には早く、春雨には遅い雨だった。
昼から雨と予告した天気予報通り、細い水の糸を落とし始めた曇天は、春の休暇にかじりついて外出していた人々を次々と追い出していく。
だが、中には雨だといって飛び出していく例外もいる。
「司、ミカエル」
柚海は傘を片手に、例外の二人を呼んだ。
降りしきる雨の中、雨合羽を着込んだ大小の二人組がじっと身じろぎもせず修行僧のように佇んでいるのだ。
小さい方は、柚海の幼馴染で有田司という。おさげに眼鏡をかけたその姿は絶滅した女学生を彷彿とさせるが、往年のいじらしい女らしさは彼女にはない。花も恥らう青春と引き換えに、天性のズボラさと天然のボケ要素を兼ね備えている。
大きい方はドイツからの訪問者、ミカエル・シーラー。金髪の偉丈夫は、巨体に似合わず大型犬のような人懐こい青い目を持っている。穏やかな性格だが、日本文化を研究するからといって本国の大学院を休学してわざわざ留学に来た、旺盛な好奇心の持ち主だ。
二人は雨の中に突っ立って、何かを待ち受けるように息を呑んだ。
彼等が一心に見つめているのは、動物ではない。今にも咲きそうなボタンの花である。
透き通るほど白い花弁がほころび、雨垂れを吸い込んでいる。それを司が愛用の望遠カメラで静かに狙っているのである。
ダーツの的を絞るように、視覚の焦点をボタンに合わせてシャッターを押す一瞬を待っているのだ。
ファインダーに景色を切り取る。その瞬間を。
二人は息を呑んだ。
機械音が小さく鳴った。
次瞬から、空気は急に弛緩する。
彼等は長い息を吐いたあと、柚海に気がついて振り返る。
「ユミちゃん」
危うげな足取りで、柚海を見つけた司が近寄ってきた。
「昼飯」
「うん」
それだけ頷いて、司はいそいそと寺務所へと向かう。
「シショー。お昼ごはんができたのデスカ?」
続いてきたミカエルは不思議そうな顔で首を傾げた。
日本に来て一ヶ月以上経つが、彼は柚海を異国の師匠と呼んで憚らない。
「そう。早くこいよ。冷めるから」
「ハハハッ。なるほど」
ミカエルはしきりに頷いて、柚海と供に歩き出す。
「これが、イシソツーというやつですネ」
「意思疎通? 以心伝心か?」
「そう。そのイシンデンシンです。ツカサとシショーね」
「以心伝心って意味わかってんのか?」
「お互いのココロがわかってることデショウ?」
「言葉に出さなくても相手の心がわかるって意味だよ」
ミカエルは丸い青の目をさらに丸くした。
「言葉に出さなけれバ、心なんてわかるはずありマセン」
「そーだな。俺もそう思うよ」
苦笑した柚海を見て、ミカエルはふと口をつぐむ。
「……ユーミさん」
珍しく名前で呼ばれて、柚海は思わずミカエルを仰いだ。
「言葉というモノは大切デス。伝えたいコトはちゃんと言葉にしなケレバやっぱり伝わりません」
ミカエルはぽんと柚海の肩を叩いた。
「だから、ユーミさんも素直に言葉を伝えてクダサイ」
「………は?」
「テイシュカンパクは今ドキ流行ませんヨ。ちゃんと言わないと!」
「……いや、だから何を?」
柚海は眉根を寄せる。さすがに話の行方が怪しくなってきた。
「ツカサに愛しているというんですヨ」
青い目を輝かせるミカエルを、柚海はただただ虚ろな皿のように半眼で見返した。
「ミカエル」
「はい」
「昼飯くわなくていいよ。お前」
「ええっ!」
慌てるミカエルを残して柚海は寺務所へ早足で向かった。
「それとな。ミカエル」
「はい?」
柚海は振り向きもせず、日本文化をいまいち理解できない異邦人に解説を加えた。
「亭主関白ってのは、亭主が一家で絶対の権力を持ってることだ」
「ハイ」
「だから、兆分の一の確率で司が俺の嫁になるんだとしたら」
「したら?」
「俺はぜったい亭主関白にはなれない」
ミカエルは驚いたように奇声をあげた。
「どうしてデス?」
「お前、司に口ごたえして一度でも自分の意見がアイツに通ったことあるか?」
「…………」
ミカエルは気まずそうに押し黙った。
あるはずがないのだ。司は、人の話を十分の一も聞いていない。
権力は、他人が自分の意見を聞き入れるからこその力であって、話を聞かない奴に権力云々はないも同然なのだ。
「……シショー…」
「なんだよ」
哀れみのこもったミカエルの声に、柚海は溜息混じりに語気を強めた。
「奥さんが権力を握ることは、日本語でなんというのデスカ?」
余計なことを聞いてくるものだ。
だが、元々真面目な性分の柚海は渋々応えた。
「カカァ天下」
雨脚が強くなった気がした。
「渡瀬」
本堂の方から呼ばれ、思わず柚海は振り返った。
ぼたん園から出てすぐに聞き覚えのある声をかけられたのだ。
「山下……」
声の主は、学校では正義の味方とあだ名される山下正樹だった。休日には珍しく、学生服を几帳面に着こなしている。その姿は確かに質実剛健が立体映像で動いているように見えた。
「どうしたんだ」
尋ねると山下はいつものように少しだけ笑う。
「渡瀬のおじいさんに話があって」
柚海の祖父とは、春に花見で顔をあわせただけだが、以来、山下は頻繁に祖父が住職であるこの寺に訪ねてくるようになった。
「昼飯食ってくか?」
山下は首を横に振った。
「約束があるんだ」
穏やかに断って、山下は寺を出て行く。
したたり落ちる雨の向こうに消えた山下は、薄っぺらい二次元に見えた。
昼食の片付けをミカエルと司に任せて、柚海は本堂のふすまを開けた。
「なんだよ。ジジィ」
朝と夕方以外、居座ることのない本堂の真ん中に、柚海を呼び出した祖父は仏像のように座っていた。
「そこに座れ」
祖父が節くれた指で指したのは自分の前の畳だ。
理由を尋ねようとしたが、座るまで応えようとはしないのだろうことを悟って、柚海は素直に正座した。
「山下くんが来ていたことは知っているな」
いつもの軽口とは違い、重々しく祖父は口を開いた。
「どうせ千川のことだろ」
高校を突然やめた司の女友達は、今後どうするか決めあぐねている。山下は彼女の相談によく乗っているらしい。理由は知らないが、彼女は両親と離れて暮らしているため、頼れる人間は限られているようだった。
「瑞季ちゃんのこともある。司にも相談しているようだしな」
「……じゃぁ、なんだよ」
それは司と千川の話題で、柚海は間接的では関係してはいるが、直接関係のない話だ。
「お前、山下くんとは仲が良いんだな」
「………どうかな」
司と千川を通して知り合いになっただけで、学校で山下と話すこともない。
「では、お前は山下くんが高校に入る前、二年間少年院に入っていたことは知らないな」
広い本堂に、雨音が響いた。
※
五年前、といえば、司が中途半端な一人暮らしを始めてちょうど一年が経った頃だ。両親が離婚し、誰も居なくなった家での、柚海の家事能力に頼りきった半端な一人暮らしに慣れた彼女が、カメラに興味を持ち始めた頃でもあった。
誕生日に、スイス暮らしの兄から贈られたクラシックカメラを片手に、司は覚えたての現像に日々を費やしていた。
同じ頃、山下は少年院に入った。
罪状は殺人未遂。
酒に酔った父親の首を絞めたのだ。気絶した父親を見て、二時間後、山下は警察に一人で出頭した。
二時間のタイムラグは、母親が彼を止めたからだ。
このまま父親を山の中に埋めてしまおう、と。
駆け落ちして結婚した彼の両親だが、良家で生まれ育った二人には、世間は厳しすぎた。父親は仕事もせず、酒をあびる日々が始まり、止める母親や自分の分身である息子に苛烈な暴力をくわえ、冷たい社会への恨みを訴えた。だが、言葉無きテロルが誰の目にも止まるはずはなく、ただ母親と息子に長年の苦痛を与えたにすぎなかった。
やがて、どうにか母親の手で成長した息子は、酒瓶で母親を殴ろうとした父親の首をベルトで絞めた。
その頃の山下は、ほとんど学校へ行くことも、家へ帰ることもなかったという。町で万引きやひったくりを繰り返し、同じような仲間の家を転々としていた。
どういう虫の知らせか。たまたま家へ帰った山下が目にしたのは、変わらず、それどころか自分が家に居たときよりも酷い暴力を受ける母親の姿だった。
少年院に入った山下は、守ろうとしたはずの母親から縁を切られた。
母親は、父親の暴力よりも、息子が警察沙汰の事件を起こしたことが自分にとっての汚点と感じたらしい。一年以上、家に寄り付かなかった息子よりも、暴力を振るうとはいえ、自分の側にいた夫を選んだのだ。
病院で息を吹き返した父親は、復縁された実家の援助で養生所に入ってアルコール中毒を治し、実家の会社でかなり高い地位のポストを与えられた。当然、夫についていった母親も、今ではそれなりに裕福な生活を送っているという。
二年経って、ようやく少年院を出た山下はやがて父方の祖母に引き取られた。
その祖母も、一年前この世を去る。
雨でいつもより多くぼたんの花びらが散っていた。
「ねぇ。これ、全部拾うの?」
尋ねてきたのは、司を訪ねて来た千川瑞季だ。春休み前は確かに長かった髪を切り落とし、今では短くなった髪にパーマをかけている。万年おさげの司とは性格も正反対だ。
「残さずな」
ぼたんは、花が終わると椿が首を落とすように、一気に花びらを落とす。散った花びらはマメに片付けていかなければすぐ地面は花びらで埋まってしまう。
いつもは柚海と祖父で手入れをするが、今日に限っては人手が集まったので手伝わせている。
ミカエルは珍しそうに、司はサボりながら、千川はおっかなびっくり、そして山下は柚海から要点を聞き出してその通り、機械的に花弁を集めている。
柚海は花の終わったオダマキやアイリスを剪定しながら、ちらほらと質問してくるミカエルや千川に指示を飛ばしている。
「シショー。ボタンという花はイロイロな色があるのですネ」
「そうだな」
ぼたんには、白、赤紫、ピンク、赤のほかに黄色がある。黄色は育てるのが難しく、他の色は子供の顔ほどもあるような花をつけるが、黄色は手の平に乗るほどの大きさにしかならない。だが、この淡い黄色は日に透かすと陽光のように輝いて、雨に濡れると日溜りのような金色になった。
ガヤガヤと喧騒がぼたん園の外から響いてきていた。
今日は、昨日の雨が嘘のように晴れている。
雲一つない晴天のもと、朝から婦人会の重鎮が手製のちらしずしを境内で並べて観光客を待ち構えている。
「そろそろ出るぞ」
柚海は剪定した草木を抱えて、作業をやめた。
「渡瀬。この花びら、どうするんだ?」
後についてきた山下は、花びらを集めたちりとりを掲げた。
「欲しけりゃやる」
「じゃぁ、佐夜子さんに持っていくかな」
佐夜子さん、は山下の祖母だ。本人の希望で、この寺に納骨されている。神という苗字は聞いたことのない名前だったが、檀家の名簿にはちゃんと入っていた。
「佐夜子さんって、ぼたんが好きだったのか?」
檀家になった理由は、ぼたんが好きだから。そう、祖父は聞いていた。
「好きだったよ。でも、庭には植えようとしなかった」
司は、中学にあがるまで花見に行ったことがなかった。彼女の家族は、家庭内冷戦状態で花見どころではなかったのだ。そのためか、司にとって桜は暗く閉じこもりがちだった小学生時代を思い越させる鍵となった。カメラを持つようになっても彼女は、桜だけは絶対に撮ろうとはしなかった。
去年までは。
今年は、彼女の現像室に桜の写真が並んだ。
「ユミちゃん。みんなで写真とろ」
司は友達をもった。
千川はけじめをつけた。
山下は味方を得た。
「早くしろよ」
柚海はもう、独りではない。
終わり