第9話 一歩
それから岡井さんと過ごす度に、私の日常は少しずつ崩れて行った。
学校に行くと、挨拶をする相手が出来た。
昼食を一緒に食べる相手が出来た。
誰かと一緒にいる時間が、少し増えた。
勉強に集中出来なかったり、本を読んでいても集中できないことも多かった。
その時は大抵岡井さんのことをふと思い出したりすることが多かった。
彼女のことを思い出す度に、顔が熱くなり、鼓動が速くなるのだ。
……これは、俗に言う恋心ではないだろうか?
疑問符は付くが、正直これが一番的を得た答えだと思う。
だって、今の私は、小説で表される恋する乙女の症状ととてもよく似ている。
しつこいかもしれないが、私は岡井さんを異質なものだと思っていた。
けど、話してみると彼女はなんというか……ごく普通の人なのだ。
心を開いた相手には感情を面に出しやすくなるのか、私の前でもよく表情が緩むことが多くなった。
普段無表情な彼女が見せる喜怒哀楽は中々新鮮で、見ていて飽きない。
そんな彼女に……いつの間にか、惹かれたのかもしれない。
私は、目の前で菓子パンを頬張る岡井さんを、ぼんやりと眺めながら考えた。
「あの、岡井さんはいつまで私のことを苗字にさん付けで呼ぶのですか?」
ポツリ、と考えていたことが口から零れた。
あまりにスルッと口から出たものだから、自分でも驚いてしまった。
それに、岡井さんは不思議そうな顔で私を見た。
「へ……?」
「だから、もう大分私達は親しい関係だと思いますし……友人同士で苗字にさん付けは、少し堅苦しいと思うのです」
「まぁそれは一利あるが……」
岡井さんはそう呟きつつ、リンゴジュースを飲む。
リンゴジュースを飲んだ岡井さんは、口を開いた。
「でも、黒田さんも私のこと苗字にさん付けで呼ぶじゃない」
「それは岡井さんがそう呼ぶからです。岡井さんが呼び方を変えれば、私だって変えますよ?」
「ふぇぇ……」
情けない声をあげながら、岡井さんは顔をしかめる。
まぁそれでも、呼び方を変えるという案には賛成のようで、早速何と呼ぶか考え始める。
しばらく一人で考え込んだ後で、彼女はふと顔をあげた。
「えっと……じゃあ黒田さんは何て呼んでほしい?」
そう来たか。
予想していなかったので、私は少し面食らう。
岡井さんに何と呼んでほしいか……というより、私は岡井さんとどうなりたいのか。
私としては、すぐに恋人になりたいというのが本音。
まぁそれはさておき……。
私の中での今の一番の目標は、白田さんだ。
やはり私と白田さんでは、岡井さんとの距離感は段違いだと思う。
そんな白田さんと同じくらいの距離感になりたいと思う。
だから……。
「そうですねぇ……私としては、白田さんを呼ぶような感じは羨ましいと思います」
「シロ……えっ、あだ名?」
「はい」
あだ名。そう、あだ名だ。
やはり普通に名前で呼ぶよりも、その方が親しげな感じがする。
私の言葉に、岡井さんは曖昧な感じの表情で口を開く。
「えっと……具体的にはどんな?」
「そうですねぇ……まぁ白田さんを呼ぶ感じを真似すると、クロ、とかですかね」
「却下で」
即答で拒否された。
想像以上の即答ぶりだったので、私は笑顔で固まった。
しかし、なんとか気持ちを取り直し、口を開く。
「なぜですか?」
「いや、そんなあだ名、黒田さんには似合わないよ」
「私のクロが似合わないのであれば、白田さんのシロはどうなるのです?」
「うッ」
私の言葉に、岡井さんは苦笑いで呻き声をあげた。
白田さんの見た目は、すごく綺麗で、まるで天使を具現化したような見た目をしている。
クロというあだ名が私に似合わないのであれば、白田さんのシロはその百倍くらい似合わないと思う。
そんな私の言及に、岡井さんは目を逸らしながら「えーっと、シロは、その……」としどろもどろになる。
「で、どうなんですか?」
顔を近づけながら聞いてみると、岡井さんは観念した様子でため息をつき、上目遣いで私を見た。
「わ、分かったから。……本当にクロで良いの?」
「はい。美雪さんと白田さんは親しいので、同じくらい親しくなれたと思えますから」
私の言葉に、岡井さんは「あっ」と小さく声をあげた。
彼女もほとんど無意識だったのかもしれない。
だって、それくらい私も無意識に……彼女のことを、名前で呼んでいたから。
初めて呼んだ名前は、すごく甘美で、ボーッとするような熱を私の頭に残した。
顔が赤くなるのを、なんとか気力で堪える。
そんなことをしていると、美雪さんがどこか慈悲の籠った感じで目を細めた。
「そっか。じゃあ、クロ。これからもよろしく」
「はい、美雪さん」
改めて、彼女の名前を……今度は自分の意志で呼ぶ。
そんな私に、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
また一歩……彼女に近づけたような気がした。




