プロローグ2
赤れんが探偵事務所。
大通りから少し入り組んだ路地に入ったところにある。その名の通り朱色の建物だ。二階建ての事務所で、一階が仕事場、二階は探偵とその助手の住まいである。
吹雪の中、来客が来ている。
「ぜひお礼を!」
ブロンドの長い髪を振り回すように、女性が頭を下げる。
「お気になさらず」
玉随は自分に、遠慮したような表情を貼り付けた。こういうとき機械の体というのを彼は便利に感じる。完璧な表情を選択し、それを仮面とすることができるからだ。
「そんなわけには……荷物を取り返して頂いたのに」
来客の彼女もまた完璧な表情で応えた。困っている顔だ。
「簡単なことでした」
「でも……」
玉随が礼を辞し、それに女性が逆接の言葉を呟く。このような不毛なやりとりが数度続き、ついに女性はターゲットを変えた。
「マリアちゃん、お掃除しても良い?」
子どもに問いかけるように、甘く朗らかに女性は言った。この態度に対し、玉随は少なからず動揺したが、完璧な表情を選び直すことはなかった。その余裕もなかったのである。
マリアちゃん、と呼ばれた少女は言う。
「そんな、申し訳ないです」
「遠慮なんて要らないの。ほら見て、埃」
暖炉の上を指先でなぞり、それをマリアに見せる。げーっと舌を出し、女性は続ける。
「せっかくの綺麗な髪も傷んじゃうわ」
「私の髪、綺麗ですか? ありがとうございますっ!」
マリアは、柔らかな笑みを浮かべる。プログラムされた完璧な表情ではない。隙のある、だが自然な笑顔だ。彼女の髪は銀色で、黒いドレスには赤い花飾りが添えられている。
「マリアちゃん、何か困ったことはない? 私でよければ、力になるわよ」
彼女は小さな頭を傾け、控えめに言う。
「大丈夫ですっ! 玉随がいますから。ね?」
そう言って、マリアは首を動かす。青紫色の瞳に彼が映り込む。
「ああ、僕がいる」
襟元を正す。少しばかりの余裕が彼に戻った。
「今日はお引き取りを。礼が欲しくてやったことではありません」
「でも……」
「端的に言えば、迷惑です」
「玉随っ」
マリアは立ち上がり、ヒールを鳴らしながら玉随に近づく。
「そんな言い方は失礼です」
頬を膨らましたマリアを見て、玉随は肩をすくめる。マリアは自然で、不完全な表情だが、玉随は不自然で、完璧なジェスチャーだった。きわめて分かりやすく伝えている――うんざりだ――と。
「掃除して行って下さい!」
「……良いんですか?」
来客の女性は不安げに言った。横目に玉随を見やる。
「マリアが良いなら、僕は構いません」
「分かりました!」
女性は胸を張り、快活に笑う。シャツの裾をまくる。
「マリアちゃん、掃除用具はどこかしら?」
「そこからですか?」
玉随の驚きを、彼女は取り違える。
「初めて来ましたので」
「本格的な掃除をするつもりですか?」
「はいっ、できる限りのことはさせて頂きます」
「……マリア」
完璧な、助けを求める声を玉随は出した。
「助かりますね」
「でしょう? 任せて」
「はいっ」
マリアと来客の女性はハイタッチをする。それを見て、玉随はため息をつく。完璧ではない自然なものだ。
「でも、お姉さん。時間は大丈夫なんですか?」
マリアの何気ない一言が、その流れを断ち切った。
来客の女性の動きが止まる。
「――! ああ、そうです。すみませんが私はこれでっ」
女性は慌てて出て行った。
先ほどまでの情熱はどこへやら。吹雪よりも激しく、荷物を掴み、コートを腕に抱え、玄関にまで走って行った。
玉随はドアが閉まり、自動でロックされたのを確認する。そして振り返り、完璧な表情を消す。偏屈そうな顔なのは変わらないが、どこか愛嬌のある自然な表情だ。
「お見事」
そう言って、ソファに座り込む。
「いや、驚いた。あんな風に感謝されるとは思わなかった。事務所が近かったから、ひとまずは招待したけど。吹雪の中、待ちぼうけというわけにもいかないだろ。それにしたって、あんな風に世話を焼こうとするとは」
彼の近くにある小さなテーブル……その上にある読みかけの小説を手に取る。
「晴耕雨読を地で行く僕だが――いや天候もプログラムに過ぎないけど――今日は運動の秋だったね。いや、仮想世界とはいえ南極に秋なんてないかな」
玉随がページをめくる。
「ところで彼女、なんで急いでいるんだい?」
小説から視線を上げずに、玉随が聞いた。
マリアは眼を閉じて言う。
「……換気で吹雪く日に、わざわざ外出。荷物のボックスに書かれていたのはパーツ屋の名前。大したグレードじゃない。彼女の格好からもそれは分かる。それでも盗む価値があるなら、グレードが低くても高価な商品。例えば人工脊髄とか」
「なら手術か? それなら事務所まで来ないだろう、来てる場合じゃない」
玉随の口調は皮肉めいていた。
マリアが右眼だけ開き、彼を見ながら言う。
「吹雪の日は泥棒が多い、これは常識。にもかかわらず荷物は手提げで、一人だけで運んでいた。それにケースには細かい傷がたくさんあった」
「つまり、不用心なのは性格か」
頬を緩ませ、リラックスしたように玉随はページをめくる。
その小さな音だけが、何度か続く。
マリアはその対面にある椅子に、ちょこんと座った。
「それで?」
ページをめくる音が止まる。
「何かな」
「謝罪を待っているのだけど」
「何について?」
「この私にあんな小うるさい人の対応をさせたことについて」
マリアは吐き捨てるように言った。
「僕が悪いのかな」
「ずっと頭をなで回されたり、下品な恋愛模様の話を聞かされたりしたの。あなたが犬みたいに泥棒を追いかけ回していた間、ずっとよ」
そう言うマリアの顔には、自然で、不完全で、だが誰にでも分かる怒りの表情が張りついていた。彼女はそう見えるようにしている。完璧な表情よりも、隙のある表情の方が有効的であると理解している。
「あなたが招いた」
「仕方ないだろう。目の前でひったくりが起きて「なんてこった、災難でしたね」で済ませられない」
淡褐色の眼をぐるりと回し、玉随は暖炉を見る。暖炉の中には木目調のランプがあり、それらしい光を放っている。実用性は皆無の、見かけ倒しの暖炉だ。そもそも機械の体で重要なのは暖を取ることよりも、むしろ冷却にある。これは元の世界を懐かしむための飾りに過ぎないのだ。
「あなたは自分を優先したの?」
「そういう日もある」
マリアが立ち上がり、玉随に近づく。彼の座るソファを鋭く蹴りつける。ヒールが刺さり、そこから綿が飛び出ている。
「あなたは私の何?」
玉随は小説を机に置く。座ったまま、恭しく自分の胸に手をやる。そして一礼。
「飼い犬です。ご主人様」
「そう、あなたは常に私の利益を求めなさい」
マリアと玉随の間には契約がある。
この作られた世界から抜け出すための。




