quinze
メメント・モリの性格からいえば。
いずれ日の下に返したいと考えて、錬金術師たちのために、すぐには出入り口は塞がなかったと思う。
問題は今もそれを残しているかどうか。
友人といわれる、錬金術の商人が会いに来ていたことを考えれば、どこかに一つ分かりやすい出入り口があると、考えられないことはない・・・、
「マリー!」
ざっとカーテンが開いた。
ブルーの肩の開いたドレスを大人っぽく着こなしたエロイーズが、ポーズをとって現れる。
「どお?似合う?」
思考を打ち切られたマリーはふっくりと微笑んだ。
フォール家の衣装室にはドレスがたくさん詰まっている。着替え用のカーテンで仕切られたスペースもあり、ドレスは着替え放題だ。
古いドレスなので、あまりマリーは関心がなかったのだけれど、エロイーズは興味津々だった。案内して見せると、古いものなら何でも興味があるとついてきたトリスタンに「高級アンティーク並み」との評価を受けた。
エロイーズは映画の中に出てくるようなドレスに目を輝かせ、執事から「着てみますか?」という言葉を引き出した。
「プロポーションがいいから、やっぱり似合うね」
「何言っているのよ。マリーだって似合うわ」
「今まで着たいと思ったことがないの」
「欲がないのね。でも、着飾るのは女の楽しみでもあるじゃない?」
髪を掻き上げて言うエロイーズはとても様になっているが、マリーはぴんとこない。
何しろ、ずっとメメント・モリと本と勉強にしか関心がなかったのだから。
「そうかしら?」
「ええ、そうよ」
やけに自信満々で言い切ったエロイーズが、にやりと笑った。
「さて、マリーも着ましょうか」
「・・・え?」
セザルとトリスタンがチェスをしている応接間に、二人のアンティーク風ドレスを着た女が現れた。
「どう?」
二人の同期の視線を浴びて、私は何でこんなことになっているのだろうと、マリーは淡いピンクのレースに埋もれて目眩がするような気持ちがした。
ドレスを着て出てくると、メイドまで悪乗りして待ち受けていた。ヘッドメイクまで完璧に施され、マリーは自分で見たことのないような姿に仕上げられた。
栗色の長い髪の毛は綺麗に結い上げられ、濃いピンクのルビーの髪飾りが飾られる。ゴールドの細いネックレスは白い肌によく映え、ふんわりしたドレスの印象を引き締める。灰色の瞳のマリーの持つ凛とした雰囲気をよく表現していた。
エロイーズはスカートの膨らんだ肩の出る青いドレスを着こなし、茶色い髪はストレートに流して片側に寄らせていた。白い薔薇の大輪を模した髪飾りをつけ、首元にはダイヤの粒が連なるネックレスをしていた。
「すげーな」
呆然とセザルが呟く隣でトリスタンが跳び上がった。
「すごいね!よく似合ってるよ!二人とも綺麗だ!」
意外と女性を褒めるのはトリスタンの方が上手いらしい。
大成功、とばかりにエロイーズはウインクする。マリーは泣きそうになった。
「やっぱり恥ずかしいよ」
「そんなこと言わないで。可愛いわ」
エロイーズはそう言うと、マリーにこそっと囁いた。
「本当に、色々図々しいお願いしてこんなドレスまで着せてもらえて、感謝してる。ありがとう」
驚いて見ると、エロイーズはにっこり微笑み、近付いてきたトリスタンに「素敵でしょ?」とアンティークドレスの素晴らしさを話し始めた。
そうか、エロイーズはトリスタンにあの姿を見せたかったのか。
マリーが目を丸くしていると、隣に立ったセザルが小さな声で言った。
「気付かなかった?」
「えっ」
「エロイーズがトリスタンのことを好きだってこと」
「いつも口喧嘩ばっかりしているから・・・」
「まあ、喧嘩するほど仲がいいってやつだよ」
マリーにはその辺の機微が分からなかったが、セザルは前から分かっていたようだ。
エロイーズとトリスタンは度々口喧嘩をしてそっぽを向いている。しかし、学部も違うのに共に勉強している姿をよく見かけるのも確かだった。美人で明るいエロイーズならもっと素敵な男性が、と思わず考えてしまうけれど、トリスタンは歴史に夢中になる以上に、優しく素直な性格だ。エロイーズが好きになったとして、おかしくなかったと思い直した。
そういえば、いつもグループ作業するときは、先に二人で席をとって話をしていたわ。
メメント・モリの姿を追い求めるばかりに、あまり彼らの様子に気を割いていなかったかもしれない。
共同作業をしている、友人なのに。
マリーが気まずいような、少し寂しいような気持ちで二人の様子を眺めていると、セザルが咳払いをした。
「マリー、君も綺麗だよ」
どことなく熱っぽさを含む目線に、マリーは固まった。
これは何。
「マリー・・・君はメメント・モリに夢中のようだけれど・・・」
メメント・モリ。
セザルの口にした名がふっ、と魔法のように耳に入って、マリーはさきほど考えていた塀のことに思考をとらわれた。
行くなら今しかないのではないか。
と、いうよりも。
今すぐ行きたいのは、マリーの心だ。
「ごめん、私、今から外に行ってくる」
セザルは口を噤み、目をぱちくりさせた。
「今から?もう夜だよ」
「ええ、でも今すぐ行きたいの」
「行きたい、って、どこに」
マリーはドアノブに手をかけて、振り向きざまに言った。
「この姿を、見せに行きたいの」
呆然とした表情のセザルを残して、マリーは身を翻して部屋から出ていった。
ショールを羽織って、寒さに身を縮めながら、屋敷の外に出て暗い坂道を下った。
祈るようにランタンを翳す。
夜に沈んだ屋敷と石を積み上げた古い塀は黒々と聳えている。ランタンの明かりに、葡萄の蔦の紋章が浮かび上がった。昼間、魔女から説明を受けた場所だ。
フォール家の屋敷の周辺は、人通りが少なく、静かだった。曇って夜空の月や星は隠され、街灯の明かりばかりが眩しく、石畳の古い路をテラテラと光らせる。妖しく冷たい夜だった。
マリーはそんなことに構わない。躊躇なく塀に触れた。
写本の記述と「錬金術師の隠れ里」の画が事実なら、入り口は必ず近くにあり、また錬金術師にだけ分かる印があるはずだった。
暗号とはそういうものだ。
錬金術の人々にとってもっと通念的なもの。
マリーはメメント・モリに教えてもらったことを思い返していく。
錬金術は物事の性質を突き詰めて考える。二元論で背反する性質を並べ、世界の理を明らかにしようとする。
金と銀。
硫黄と水銀。
王と女王。
これらは能動と受動の象徴で、錬金術で世界を説明するときの基本的な表象だ。
シンプルに、そういうものを鍵にするのではないか。そんな気がする。
闇の中で、ふっとマリーは口元を緩ませた。
何年経とうと、あの人の思考回路をすぐに追える。彼が自分の心に息づいている密かな喜びをマリーは覚えた。
ランタンで照らして、塀の高いところから低いところへ、左から右へ、順番に見て回る。寒さに肩を震わせながら、隈なく探した。
古い石の削り跡にマリーはシンボルを見つけた。
太陽と月。
これだ。
マリーは興奮した。遂に見つけた、入り口の印。
メメント・モリに会えるかもしれない。
その思いに急かされて、マリーは頭をフル回転させた。
一体どうやってここから中に入る?
隠れ里の頃なら、難しいカラクリを使って、容易には入れないようにしてあっただろう。だが今はどうだろうか。フォール家は古い錬金術師の存在を隠し通してきた。わざわざ異端を暴き、罪人を引っ立てる人間はもういない。
ならば、メメント・モリは友人のために、もっと入りやすくして、合言葉を決めているのではないか。
ルネサンスを生きた、錬金術という知識のある人たちにとって共通するもの。
はっと声にならない音声が、白い息となって闇に消える。
もしかして。安直すぎるけど。
マリーは塀に向かい、ラテン語で唱えた。
開け。
音もなく、塀は歪み、目の前に人一人が入れる黒い穴がぽっかり空いた。
空気の流れに、マリーの栗色の髪がそよぐ。
緊張するよりも、恐れるよりも、胸の躍る瞬間だった。
行かなくちゃ。
躊躇わなかった。
ランタンを翳して、マリーは穴に吸い込まれるようにして穴に足を踏み入れた。
曲がりくねる、夜より暗い通路は、ランタンの光に微かに照らされて、ぬらぬらと浮かび上がった。
マリーは明かりを頼りに、慎重に足を運んだ。いつもは履かないヒールに、どっさりとレースを使ったドレス。足は痛み、階段を下るのに骨が折れた。
滑り落ちて、転びそうになる。
冷たい壁に触れて体を支え、それでも闇の向こうを見つめる。
思い描くのはただ一人だ。
メメント・モリ。
闇に生き、悠久の時を死への思いと生への望みに費やしてきた人。
もう、四年会っていない。一歩一歩進みながら、マリーは想いを募らせた。
マリーの傍にいて、守り、様々なことを教えてくれた。人生の道しるべだった。ずっと傍にいてほしかった。
自分の人生にこれ以上、彼が不在である期間を作りたくない。
薄れていく記憶や、感触がただただ悲しかった。
重たいスカートを引きずる。昔、地下に降りて行ったときは、もっと軽やかだった。
子供の時の足取りとは違うし、思いも違う。
メメント・モリは、マリーのドレス姿をどう思うだろうか。
褒めてくれるだろうか。出てきてくれるだろうか。
自嘲気味にマリーは口の端を上げる。
もしかしたら、会ってくれないかも知れない。
やがて視界が開けた。
いつか来た、失われた舞踏会場だ。
深い感慨を以て、マリーは会場に再び足を踏み入れた。
舞踏会場もドレスで盛装した貴婦人を受け入れたのは久し振りだったろう。退廃の空間はにわかに華やいだようだった。
会場は不思議な青い光で満たされていた。ヒールを響かせて、会場の真ん中に立つ。以前やって来たときは昼間で、地下の閉鎖空間にはどこかから日の光が差し入れられており、光の当たるところ以外は薄暗かった。夜は何らかの光源装置を用いているらしい。
あの頃と、何も変わっていなかった。
古めかしい会場の、一段高くなったところに、書斎のようなスペースがとってあり、天体望遠鏡や大きな水槽、フラスコとバーナー、自分で回っている天球儀など不思議な品々が雑然と置いてある。
隅には分解された電化製品が整頓されて並べられている。
ふっと口元を綻ばせたマリーは、呟くように言葉を零した。
「メメさま」
マリーの声が、意外なほど高い天井へと響く。
そして、案外すぐに、静かな声は降ってきた。
「マリー」
それは、嘆かわしい、と言うときよりも、悲痛な声色だった。
「何故、再び、ここに来た」
彼の声が、近くで聞こえた、と思った瞬間。
灰色に腐敗した手がマリーの手をとり、豪奢な衣装を身につけた仮面をつけた骸骨とマリーは踊っていた。




