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結果からいえば、マリーはその後の学校生活を、充実させて過ごした。
メメント・モリが会ってくれなくなったのは辛い。しかし、胸が痛むほど愛しい気持ちが消えないのなら、そのままその気持ちを大切にしながら生活していくしかなかった。
否定したくなっても、メメント・モリを責めたいような心境になっても、ありのままの自分の悲しい気持ちを、マリーは自分で受け止めて、何かにその悲しみをぶつけるよりも、嘆くよりも、メメント・モリが安らかに活動することを願った。
名門校で勉強に励み、本を読み、友人と言葉を交わして町に繰り出したりする日々は、マリーにさまざまな見聞を与えた。
「ルイーズたら、流行りのロックバンドより、道端のバイオリン弾きに夢中なの。確かに綺麗な男の人で、どこか現実離れした魅力のある人だけれど。いつも学校近くの通りで女の人たちに囲まれているわ。でも写真を撮ろうとすると、ふっといなくなってしまうんですって。不思議だと思わない?」
マリーは長くなった栗色の髪の毛を梳かしながら、楽しげに鏡を見つめる。実家に帰ると、必ずこんな独り言を、はっきりと誰かに聞こえるようにマリーは話すようになった。
誰もいない自室で、だらだらとずっと独り言を話しているのは奇妙なもので、マリーも「外から見たら絶対私変」と思ってはいたが、決して止めなかった。
メメント・モリに、学校であったことや友達のことを話すのだ。
屋敷や、フォール家の敷地のあちこちには、メメント・モリが作った仕掛けがたくさんあるという。マリーはメメント・モリがどこかでマリーの話を聞いていると確信していた。
ずっと、そうだったのだ。メメント・モリはマリーの他愛のない話をいつも聞いてくれた。
メメント・モリが「マリーのそばを離れない」と言ったのを、マリーは信じていた。
離れていても、姿を見せないでいても、どこかに出かけていて不在のときもあるかもしれないが、マリーは昔のように自分の話をメメント・モリに語りかけることを忘れはしなかった。
「町の壁には、音楽とか、演劇とか、パブとかのポスターがべたべたと貼ってあるんだけど、毎回その前でバイオリンの演奏会を始めるから、少し顰蹙を買っているらしいわ。それである日、文句を言いに来た人がいたんだけど、ルイーズが食ってかかっていったから、私、びっくりしちゃった。ルイーズは強いわ」
ルイーズが細い体を怒らせて、ヘヴィメタルのすごい格好をした男三人に食ってかかっていった様子を思い出して、くすっとマリーは思わず笑う。
「話は変わるけど、物理の授業で、私が女の子の中で飛び抜けて出来るから、先生が驚いていたわ。ああいう話は、昔からあなたから聞いていたから、科学に対して抵抗がないんだと思うわ」
マリーのそばに佇んで、静かに、でも楽しそうに、白い蝋のような手で紙に図を書いて、さまざまな事象を教えてくれた死神のような男が目に浮かぶ。
マリーは部屋でひとり微笑んで、彼が勉強を教えてくれた椅子に腰かけ、テーブルに肘を置く。ほのかに胸の奥が疼く。
マリーの様子が奇妙だろうと、馬鹿らしかろうと、望む心に変わりはなかった。
頬杖をついて、呟いた。
「やっぱり会いたいわ、メメ様」
悲しいのか、愛しいのか分からない。胸に切なさが広がって、時折泣きたくなる。
ずっと一人で話し続けるのが、虚しくなることもある。こんなことをして、本当にメメント・モリが聞いているか分からないし、メメント・モリにとって迷惑なのではないかと思うと、とても心配になってくる。
だが、あの地下の暗い舞踏会場にただ一人、生き続けるメメント・モリを、マリーは一人にしたくなかった。
誰よりも、死んだ誰かの悲しみを考え、死と向き合い、生きよと思想を発信しようとする人。
死を忘れるな。
生を生きよ。
「私はメメント・モリを忘れないわ」
何があろうと、それだけは変える気はなかった。
マリーが外の世界で、さまざまな人と関わり、多くを吸収し、フォール家の者として生きることを、誰よりも望んでいるだろうから。
屋敷の者たちにとってマリーは、大人しいけれど、身内とはよく話をする利発な娘だった。
メメント・モリが姿を見せなくなって最初の頃は、延々と泣き続けて、メメント・モリの姿を屋敷の中を探し回っていた。マリーの想いを察していた屋敷の人たちは、急に迷子の幼子のようになったマリーを心配していたが、吹っ切れて元気に生活するようになってから、ほっとしたようだった。
それでも、部屋で一人でメメント・モリに話しかけ続けるマリーの様子を見て、思うところがあったらしい。
使用人たちは自分たちが見たメメント・モリや、昔現れたときの逸話をよく話してくれるようになった。
マリーにとって自分が接していた以外のメメント・モリの話は新鮮だった。好きな人を追いかける気持ちも手伝って熱心に話に耳を傾けた。
彼らもメメント・モリが姿を現さなくなったのは残念だったのだ。「また出てきてくれませんかねぇ」とコックの見習いがぼやいて、コック長に頭を叩かれていた。
執事に至っては、ある日、一冊の分厚い本をマリーのもとに持って来てくれた。
書庫の奥に仕舞いこんであった本らしい。
「すごく綺麗な装丁ね。立派」
「昔の写本ですから」
執事はどすんと重たそうにその本をテーブルの上に置いた。
木の表紙に、金の金具が四方についていて、真ん中に髑髏の姿が象嵌されている。鈍くくすんだ頑丈そうな鍵がつけられ、それも髑髏の形をしている。
タイトルは『Memento-mori』。
「メメント・モリ・・・」
マリーの驚きに満ちた声に、執事は頷いた。
「そう、あの方に関する逸話が書いてある本です。フォール家に代々伝わる、メメント・モリの逸話集といったところですかね」
こんなに分厚い本になるくらいメメ様が活躍していたなんて。
マリーは目を丸くして本をしげしげと眺めた。
執事は鍵を開けて、本を開いてみせた。羊皮紙に美しい彩色画と、カリグラフィーの装飾的な文字がびっしりと並んでいる。
「すごい・・・」
「雇いの写本師に頼んだのでしょうね。二十世紀初頭までの記録が残されている、といいます」
「まあ!そうだったの」
マリーはページをめくっていって、それからがっかりしたように言った。
「これ、なんとなく分かる箇所もあるけど、読めないところが結構あるわ・・・」
「ラテン語で書かれていますからね」
中世まで、ヨーロッパでは公式な文書などはすべてラテン語で書き残された。それが聖職者や貴族といった特権階級の知の独占に繋がっていた。その国ごと、地元の言葉で文章を書き著されるようになったのは、十六世紀以後ダンテがトスカナ語で神曲を書き著し、ルターがドイツ語の聖書を作り、活版印刷でそれらを大量に印刷できるようになっていった以後だ。
元貴族のフォール家の記録なのだから、ラテン語で書かれているのは当然といわれれば当然であった。
しかし。
「比較的新しそうなところまで、全部ラテン語じゃない!」
「ご先祖の教養深さが窺えますね」
マリーのやや怒りのこもった叫びに、執事は澄まして返答した。
「メメント・モリ様のことをお知りになりたいのなら、その書を紐解くのが早いかと思います」
マリーははっとして、執事を見た。
マリーが生まれたときからフォール家に仕えている人の、目尻に皺の寄った目が、優しくマリーを見ていた。
「それで、これを引っ張り出してきてくれたのね」
「勿論、読めないからいい、というのであれば、また書庫に仕舞いますが」
「いいえ」
マリーは腰に手を当て、気合を入れるように本と向き合った。
「やってやろうじゃない。私だって、フォール家の人間よ。メメ様のことだって知りたい。・・・メメ様のことを、伝えていきたい」
執事は意気込むマリーをにこにこと眺め、後押しするように頷きかけた。
「それでこそ、お嬢様。フォール家の秘密を、どうかこれからもお伝え下さい」
失恋して一年。
マリーのメメント・モリに関する新たな探求が始まった。




